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09.01
Mon
この能は、現在能と呼ばれる劇的要素の多い能である。夢幻能に対する分類であり、「この世の人」のドラマである。自ずと夢幻能にはない演技が付加される。ことにこの能は複雑な心の劇であり、演者にはそれなりの人生経験、見識等が要求される。

安元三年(1175年)平家討滅の計画が漏れ、この能の主人公、僧、俊寬は流刑となる。謀議の首謀者は大納言成親であった。密議の場所は主に鹿ヶ谷の俊寬の山荘であった。鹿ヶ谷は東山の麓にあって、背後は三井寺に続く「ゆゆしき城郭」であったという。時には後鳥羽法王をお迎えしての密議は、成親の最も頼りにしていた北面の武士、多田蔵人行網の密告によって露見し、ことごとく捕らえられた。成親の子、成経、平判官安頼、俊寬の三人は薩摩、鬼界が島に流された。

治承二年(1178年)中宮徳子(平清盛の娘。後の建礼門院)が懐妊した。悪阻に陥った中宮に鹿ヶ谷事件で斬られた成親、僧西光の死霊、鬼界が島に流れた人々の生霊など清盛に迫害された人々の悪霊がとり憑いた。この悪霊をなだめるため祈りが行われ、特赦が行われた。鬼界が島の赦免使は仁左衛門尉基康、宮古を七月下旬出発、九月中旬到着。「浪、風しのぎ行く程に」とあるように台風シーズン中の航海であった。

この能は冒頭、ワキ赦免使の名乗り、島へ赴く旨の簡単な一場面はあるが、赦免使の到着から、許されて帰郷する成経、康頼と、島に残される俊寬の別れまでの一場ものである。

成経、康頼は、熊野信心深く、この島に三熊野を勧請して「日ごとに熊野詣でのまねをして帰洛の事をぞ祈りける」とある。この能も二人の熊野詣でから始まる。

俊寬は「天性不信第一の人にて是を用いず」とある。宗教家でありながら不信心で、二人の熊野詣での誘いには乗らなかった。この能で俊寬が道迎えと称して谷川の水を汲み、酒だと言ってすすめるのも二人への揶揄とも受け取れる。この道迎えの水の酒で三人は酒宴をはじめるのだが、拗者の俊寬もそのうち都への思いがふつふつと湧いてくる。落ち葉を盃にするのだが、この時シテは「ツッ」と前に出、落ち葉を手に受け見入る。俊寬の「思い」が掌の中に凝縮する。

この能のシテ搭乗の「一声」地謡の「クセ」で島の様子が語られる。平家物語によれば、この島はなかなか舟も通わず、人も少なく、本土の人にも似ず、色黒く、牛のようである。全身毛が生え言葉もわからない。衣服もなく、米穀のたぐいも無い。ただ漁だけである。雷は鳴り止まず、麓は雨がしきりに降っている。一日、寸刻も人は生きられそうもない。とある。この島での暮らしは都での栄華の生活に比べれば地獄のように思えたゆえの表現だろうか。三人は主に成経の妻の父、平教盛の領地、肥前国鹿瀬庄から送られてくる衣食に頼っていた。

赦免使が着いた時、成経、康頼は例の熊野詣で不在であった。俊寬は「夢やらん、又天魔、波旬(天魔の別名)の我が心を、たぶらかさんか」と疑うほど狂喜して「あわてふためき走るともなく倒るるともなく」駆け寄った。しかし赦免使から渡された免状には、成経、康頼とだけあり、俊寬と云う文字はなかった。「奥より端へよみ端より奥へ読みけれども三人とは書かれず」。礼紙(巻物の上に更に一枚巻いた上包み紙)に書いてあるかもしれないと、礼紙を見るが書いてない。「夢かと思ひなさんとすれば現なり…平家の思ひ忘れかや、執事のあやまりか」と赦免使に詰め寄り、地に臥す。この俊寬の狂態をこの能では膝を打ち、両手を打ち合わせるだけの単純ではあるが鋭い型で表現する。

俊寬は康頼の衣にすがり「この舟に乗せて九国(九州)の地へ着けて給べ」と懇願するが、康頼は許しもなく三人島を出たらその後が恐ろしい。入道相国にとりなして必ず赦免を取り付けると説得する。

「僧都綱に取り付き腰になり、脇になり、丈の立つまでは引かれて出で、丈も及ばざれば舟に取り付き…。ただ理を曲げて乗せ給え」と懇願するが船頭はその手を払いのけて舟を沖へ漕ぎ出した。「僧都せん方なきに渚にあがり倒れ臥し、幼き者の乳人や母などを慕うように足ずりして是乗せて行け」と叫ぶ。舟は沖に遠ざかり、俊寬は「高き所に走り上がり」手をかざして呆然と立ちつくすだけであった。舟影も人影も消えた海の彼方を見つめて、俊寬は立ちつくす。限りなく静寂な舞台に立ちつくすシテ一人、あとは観客の「おもい」に任せるのである。

赦免状から終曲まで平家物語の原文を巧みに取り込んで脚色している。謡曲は和歌や漢詩、物語などの語句を「コマギレ」にパッチワーク的に繋ぎ合わせたものだとよく聞く。謡曲は劇の台本であって、文学的価値を意図した訳では無いだろう。世上に膾炙された詩歌・物語を効果的に採り入れ一つの独立したものに仕立て上げる技法は、比類のない優れた脚本作法だと言っていいだろう。

俊寬は、法勝寺の寺務職であった。八十余ヶ所の荘園を管理する職で、四、五百人の眷属にとりまかれていた。寺の財、信者の寄進、布施も思いのままであった。「僧なれども心もたけくおごれる人」気性も激しく驕り高ぶった人物であった。「俊寬僧都は天性不信第一の人」で、生活の全てが宗教と結びついていた中世であって、しかも僧の身でありながら不信心の人であったというのも理解し難い性格である。この能に使用する面は「俊寬」という専用面である。他の面では代用できない強烈な性格故であろう。入道康頼は別れの時俊寬に法華経一揃を残した。失意のうちに食を絶ち、流刑の地で37歳の生涯を閉じた。「天性不信の人」俊寬も最後には弥陀の名を唱えて果てたという。

硫黄島は、鹿児島県鹿児島郡三島村の、三つからなる島の一つで鬼界が島と言われ、謡本や解説書にある大島郡というのは、奄美大島本島の南にある「喜界島」と混同したもので、誤りである。この島は、阿蘇霧島火山帯に沿って南に連なって点在する火山の一つであり、鹿児島県の大隈半島からは四、五十キロほどの指呼の間にある。晴れた日には山頂の噴煙が望める。俊寬がここに流されたのは、隠岐の次の流刑地という感覚であったろうか。この地方は時の大和朝廷に「朝貢」したという記述が日本書紀、崇神天皇の項に見え、古くから開けていた。薩南諸島、西南諸島と台湾まで小島が続き「道の島」と呼ばれて中国への交易の通路であった。俊寬は内地から通って来る商人と山で採取した硫黄を食物とかえたと平家物語にある。当時も内地との交流が頻繁だったのだろう。火薬を発明以来の事で多分薬用であったろう。
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