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12.09
Mon

雪(ゆき)

カテゴリ:
□清浄無垢な雪の精を主題にした、小さくまとまり小品ながら
幽玄の香気のたかい佳曲です。
廻国行脚の僧が奥州から天王寺参詣を思い立ち、摂津の国(大阪府)
野田の渡りまで来ると、今まで晴れていた空がにわかに曇り
雪が降ってきます。
途方にくれた僧は、ひとまず雪の晴れ間を待つことにします。
何処からともなく「雪の賦」を吟じながら女が現れます。
僧は不思議に思い、素性を尋ねます。
女はただ自ずから現れたのだと言い、自分が何者であるかも分からず
それ故に迷っていると訴え、この迷いを晴らしてくれるよう頼みます。

僧は雪の精であると悟り、仏の功徳を信じて成仏するようにと
教えます。
女は、降りしきる雪の中で袖をひるがえし、報恩の舞を舞います。
やがて東雲も近くなり、梢にかかる雪の花のように女は消え失せます。

□この曲は金剛流にだけある曲で、作者不詳、古くは上演記録に乏しく、
いつの成立か分からないようです。
昔は重く扱われていましたが、詞章、節付ともに平易で
現在では初心用として親しまれています。

シテ雪の精は、山と呼ばれる作り物の中に入っています。
引廻しという紺地の布を下し、シテが姿を現します。
自ずから現れたということです。
「暁梁王の苑に入れば雪群山に満てり」と和漢朗詠集、
謝観の「雪の賦」を吟じます。一面の雪景色が現出します。
この「雪の賦」は、枕草子に
「雪なにの山に満てり、と誦したるはいとをかしきものなり」とあり
親しまれた賦だったのでしょうか。(なにの山、は群山の意訳)
クセのあとの廻雪の舞、序ノ舞は異演出、小書のとき笛が盤渉調に変わります。
曲中の足拍子も雪踏の拍子と言い音をたてず踏みます。
この廻雪の舞の由来は、文選、曹子建の「洛神賦」によるものです。
洛水のほとりで女神に出会ったことを詠んだ賦で、
女神の身のこなしを「流風の雪を廻らすが如し=雪がつむじ風に
舞あげられたように揺れ動いている」と詠んでいます。
「和漢朗詠集」は、平安時代、1020年頃、藤原公任によって
撰ぜられました。「和漢」とは「和」は和歌、「漢」は漢詩の意味です。
漢詩文には「漢」の作者に当然ながら我国の作者も撰ぜられています。
「朗詠」とは、本来は良い声で詩文を口ずさむという意味でしたが
撰者公任は佳句麗章を吟誦する意としているといいます。
古来愛誦されてきました。
「文選」は、500年前半頃、梁王朝(中国)第一武帝の長子
昭明太子が、親しい文人らと周から梁に至までの賦、詩、文章の
すぐれた作品を選び、体系立てて編纂した書です。
作者不明のものを除き、百三十余人女性二人を含みます。

□この曲の評価は二つに分かれるようです。
森羅万象、なんでも捉えて戯曲にしてしまうのが謡曲の特色です。
古来多くの文芸の題材となった雪は、能でも恰好の題材です。
しかし、この曲の主想、脚色、修辞ともに平凡で、場所も歌枕に
ほど遠い野田であり、凡作であるとする。
簡単である点は評価を与えています。
一曲の中心をなす「クセ」には多くの曲で難解なものが多く、
この曲も多少難解です。
「クセ」は美しい文章を美しい曲節で聴かせるのが目的の一つであるからです。
この曲の「クセ」に源氏物語「浮舟の巻」匂宮(のおう)の歌
「君にぞ迷う道には迷はず」が採り入れられています。
雪の精の、心の迷いを表す修辞に使っています。
この歌は、匂宮が浮舟に贈った恋の歌です。
雪の精の迷いは、自ずから現れ自分自身をも認識できないという
迷いであり、清らかな迷いです。この曲には不適切であるとします。
凡作という一つの理由でもあるようです。

又佳作とする評価もあります。
ワキ僧の出は簡潔で、シテ雪の精の清楚な出現を助けています。
雪の精が口ずさむ「雪の賦」の借景も適切であり、この曲の
清楚なイメージを決定づけています。
終曲のキリで雪の精が消えてゆく表現も、余分の修辞を排し
淡雪の如くです。
三番目鬘物の夢幻能として、そのエッセンスを集めたともいえる
佳曲であるとします。
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