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08.15
Wed
保元の乱に敗れ讃岐の松山に流され没した崇徳上皇の墓所を訪れた西行が追善の歌を詠む。上皇の霊が現れ在りし日、都での遊舞を追憶して舞うがやがて配流の憤怒が沸き起こります。白峰の天狗が現れ、上皇の恨みを晴らす様の勢いを見せます。

四国放浪の時の歌人、西行法師が松山の崇徳上皇の御廟所を訪ねます。
老人が現れ西行を御廟所に案内します。
誰も足を踏み入れたこともない山道、岩を伝い苔に覆われた谷の道を辿り風音も寂しい御廟所に辿り着きます。
荒涼とした御廟所の佇まいに、昔は玉楼金殿の宮殿、百官卿相にかしずかれた御身を思い涙を流した西行は一首の歌を詠みます。
「よしや君、昔の玉の床とても、かからん後は何にかはせん」
西行の歌に感じた老人の姿に雅を感じた西行は上皇の存命中の様子を問います。
上皇の存命中に誰が上皇を訪ね慰めたのかと問う西行に、上皇は都での事件を思い出し憤怒しばしばで近づく人もなかったが、魔道の天狗、相模坊とその配下が常々訪ね、私も木陰を掃き清め時にはお心を慰め申したと老人は語り、淋しい木陰に寄るとみて姿を消します。

木の葉天狗が現れ保元の乱のあらましを語り、上皇の霊は西行の歌に感じ終夜舞楽を奏する、相模坊もその配下も参集せよとの宣旨であると触れます。

やがて御廟はしきりに鳴動して院の霊が姿を現わします。
昔、都の夜遊の舞を回想して舞う舞に時刻は移りやがて都での無念が蘇えり憤怒の形相となります。
院の憤怒に呼応するかのように相模坊とその配下の天狗が現れ、院の仇をことごとく討ち滅ぼし無念を濯がんとその方策を勇壮に見せ、夜明けとともに白峰の彼方に消え失せます。

作り物を舞台に設えるのも演能のうちであり、運び出し設え雰囲気を広げていく。
後見が舞台に据えた山と言われる作り物は院の廟。豪壮な廟もうらぶれた廟も形は同じであり観客の心に任せます。
前シテの老人は院の亡霊か天狗の仮の姿か明らかに語られません。
老人の姿を「鄙人なれどかくばかり、心知らるる老い波の、立まふ姿まで、さも雅たるけしきかな」とあり雅ならば院を匂わせるが又「白峰の相模坊に従う天狗共、来るより外は余の参内はなく候。かように申す老人も常々来たり木陰を清め御心を慰め申しし也」とあり、天狗ともとれる。
着衣も身分を示します。紺の無地、無地熨斗目を着ることもあり又、格子模様の小格子を着る場合もあります。無地熨斗目は身分の低い者であり天狗を表し小格子は高い身分、院でしょう。
前シテは天狗か院か演出に任せるということでしょうか。

後シテ、院の霊が「早舞」を舞います。早舞は公家の霊や成仏した女の霊が舞う軽快な優雅な舞です。面は「怪士」で舞います。怪士は怨霊の面です、憤怒の形相で早舞を舞います。院の身分を考慮してか公家の面「中将」を着て舞うこともあります。
憤怒の舞はガラリと変わり、優雅な都の遊舞の場面を現出します。
能では面を付けることを着るといいます。

西行は北面の武士でしたが二十三才で出家、高野山を拠点に仏道修行に励み四国や奥州など漂白して自然と交わり、深い仏教思想と自然との交わりを基礎に、伝統や形式に捉われない歌を詠んだといいます。
未だ弱冠の藤原定家の素質を見抜き選歌を頼んだり、遥かの地、奥州平泉の藤原氏に東大寺勧進の金調達の旅を気安く引き受けたという。
気の置けたい気さくな人柄だったのでしょうか。
後の文人の憧れの人だったのか芭蕉の「奥の細道」の旅は西行の奥州の旅を辿る旅だったといいます。




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