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08.13
Sun
桜は古くから最も日本人に親しまれてきた花です。能では聖君の元での天下太平を「吹く風枝を鳴らさず」と謡います。枝は桜の枝だと思いたいところです。
勿論深刻な能にも桜は登場しますが桜の華やかなイメージが物語に和らぎと深みを与えてくれます。
「嵐山」は天下太平国土安穏を寿ぐ能です。桜が平和と繁栄を象徴しています。

桜の名所、嵐山の桜は吉野の桜を移植したのが始まりです。
嵐山の桜の様子を見てくるようにとの宣旨を受け、勅使が嵐山を訪れます。
嵐山では老夫婦が満開の花を愛で、木の下を掃き清め、そのうえ信心の気配さえ見えます。
不審する勅使に、嵐山の桜は吉野の桜を移し、吉野の二柱の神、子守、勝手の神が来臨する神木であると老人は答えます。
勅使はさらに、桜の花が最も恐れるものは嵐なのに如何して嵐山を桜の名所にしたのかと不審する。名は嵐でも聖君の御代、たとい嵐でも花は散りますまい、老人の答えは明快だった。
老人夫婦は、我々は子守、勝手の神であると名乗り、吉野や嵐山の景勝は神徳の具現であると謡いつつ南の方角、吉野の方へ行ってしまいます。

蔵王権現の末社の神が現れ、吉野の桜を嵐山に移植した由来も語り、子守勝手の二神に勅使を慰めよと命じられたと舞を舞います。

やがてゆったりとした囃、下端(さがりは)に乗って桜の枝を持ち、子守勝手の二神が本体を現し、二神が守った嵐山の花盛りと美景を賛で舞を舞います(中の舞)。舞は神楽を奏する心で舞われるといいます。

神楽の秘曲も度重なり、やがて秘曲に引かれて芳香漂い,瑞雲棚引き、金色の光輝き、蔵王権現が姿を現します。
蔵王権現は諸神の中の荒神、あの世この世に迷う衆生を助け、蓮の葉の如き青い目から光を放って国土を隈なく照らして衆生を救うのだと豪快に舞い満開の桜を賛で、治まる御代を寿ぎます。

蔵王権現は日本で作られた神です。役行者が金峯山の修行中、お告げにより作られたと云います。修験道の本拠、吉野金峯山寺の本尊です。役行者は名を優婆塞(うばそく)また小角(おずの)と云い奈良時代の人で山岳信仰、修験道の祖です。

蔵王権現像は怒髪天を突き、憤怒の形相恐ろしくその形相は悪魔を威嚇、高く上げた右の手足は苦海の衆生を救う姿と云います。
インド渡来の仏教色が濃いが、神仏混交の思想も混じり修験道では550年頃の天皇、安閑天皇を神格化して蔵王権現としています。神道では神代の神々を蔵王権現としています。
明治の廃仏毀釈の難では金峯山寺と末寺を日本の神の社として乗り切ったと云います。
安閑天皇は能「花筐」、継体天皇の第一皇子です。
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08.13
Sun

箙(えびら)

カテゴリ:
一の谷の戦いに源氏方の若武者梶原景季が平家の陣の表門を破り攻め入る武勇の物語。
表門は生田の森にあったと云います。
箙は矢を入れ背に背負う武具、景季は弓の名手でした。

前場のシテ景季の霊は面を掛けない素顔、直面(ひためん)の里人の姿で現れます。能の面には里人の中年の男や若い男の面はないようです。景季がこの地、生田で武勇を見せたのは23歳の若さでした。面を着けない演出の一つの理由でもあるでしょうか。
若々しい姿で語る戦いの情景が溌溂と新鮮に甦ります。
里人は僧に名木「箙の梅」の謂れを語ります。
「この生田の森は平家方十万余騎の陣の表門だった。梶原景時、景季親子は表門を破り攻め込み奮戦した。景季は折から満開の梅の枝を手折り箙に挿し戦かった。
人々は梅を挿し奮戦する景季を褒め称えた。後に人々はこの梅の木を箙の梅と名付けた」
さらに里人は平家十万余騎と源氏六万余騎の激突の有様を語ります。
里人の語りは白熱します。
日はやがて傾き山の端に入り月も輝きだします。
僧は里人に一夜の宿を所望します。里人は、この梅の木陰に休みなさい、私はこの梅の主、景季の幽霊と名乗り消え失せます。

箙に梅の枝を挿し華やかに武装した景季の霊が再び僧の枕の上に現れます。
僧はその不思議な姿に名を訊ねます。景季が名乗るや否や修羅道の苦が襲いかかります。
ここで舞う「カケリ」は修羅の戦いを表しています。戦いを事とする武人は死後、修羅道という地獄に落ち生前戦った戦いを永遠に続けるといいます。
生田の森は修羅の地獄に変わります。山は激動し、海は吠え、雷火は縦横に走り、風は平家の旗の如く赤い炎となって襲いかかります。
 景季の霊は凄まじい地獄の有様を過激な動きで見せます。
景季の霊は心を鎮めます。辺りはまた昔の春爛漫の生田の森にかえります。梅の枝を折り箙に挿ます。昔の風雅な若武者にかえります。
 景季の霊は優雅に舞います。地獄の中の一輪の梅の花の風情です。
風雅な時は永く続きません。再び修羅の戦いが蘇ります。従った郎党の多くは討たれ絶体絶命の危機です。郎党三騎になり敵に囲まれ、秘術を尽して戦います。
「向こう者をば、拝み打ち、又巡り逢えば車斬り、蜘蛛手、かく縄、十文字、(いずれも太刀さばきの名)」
 景季の霊は息もつかせぬ早業で舞います。見どころの一つです。
やがて夜は白々と明け初め景季の霊は僧に供養を頼み消え失せます。

木曽義仲に都を追われ九州に逃れた平家は再び勢力を盛り返し、室山と水島の戦いに源氏を破り山陽道(現在の中国地方の瀬戸内海)と南海道(現在の近畿地方南部と四国)の兵を糾合し一の谷の陣に十万の軍勢が犇めき、海には数千艘の船が浮かんだといいます。
この光景を「東は生田の森、西は一の谷を限ってその間三里が程は充ち満ちたり、浦々には数千艘の船を浮かめ陸には赤旗(平家の旗、源氏は白)いくらも立て並べ春風に靡き天に翻る有様、猛火雲を焼くかと見えたり」と謡います。
源氏方は六万の兵で平家の大軍に挑みます。少年武将、平敦盛の悲劇や(能「敦盛」)源義経の「ヒヨドリ越えの逆落とし」の武勇伝が生まれました。

梶原景季は義経を讒訴したとして知られた景時の嫡男です。木曽義仲追討の戦いでの富士川の先陣争いで知られるように可成りの勇将だったのでしょう。
この曲は生田の森で、弟景高がただ一騎で討ち入ったのを助けようと景時、景季父子が後を追い敵陣を混乱させ後退したが景季が深追いして敵に囲まれ奮戦した武勇を作ったものでこの時、景季の箙には梅の枝がだしてあったといいます。

梶原氏は坂東八平氏の流を汲む一族でした。
景時は源義経を讒訴したことで知られていますが、義経の傍若無人、専横を心配しての頼朝への注進だったと同情的な見かたもあるようです。
景時は石橋山の戦いで源頼朝の命を助けて頼朝の信頼を得、御家人に列しました。文武に優れ関東武士に乏しい和歌など教養があり頼朝の目を引き、幕府の重臣となり幕府のお目付け役的存在となります。頼朝の死後、多くの御家人の反感から弾劾の上訴がありましたが景季は何の弁明もせず故郷の相模に帰りました。ここでも反対勢力に攻められ父子共に自害して果てたと云います。景季、享年三十九歳。
08.13
Sun
平盛久は平家の武将。源平の戦いに目立った軍功を上げたという記録はなく名を残した人ではなかったようだ。盛久は若年から信仰心が厚く清水の観世音を深く信仰したことは良く知られ、同じ清水の観音の深い信仰者であった頼朝の耳にも届いていた。この曲の主題は盛久の厚い観音信仰であろうか。この曲は武人を主人公とする二番目物に分類されるが戦いの場面は全くない。それ故か四番目物とすることもある。

平家滅亡後、盛久は京に潜伏していたが密告により清水寺参籠の帰途捕らえられ鎌倉に護送された。
「いかに土屋殿に申すべき事の候」「清水の方へ輿を立ててたまわり候らえ」盛久は護送の土屋三郎に最後の清水参詣を懇願する。土屋は快諾する。時あたかも春真っ盛り、盛久は見納めの清水の花盛りを心に刻み、再び拝むこともない観音に別れを告げる。盛久の諦観した心中が滲み出て労しい。

輿は歌に詠まれた名所旧跡、歌枕を過ぎていく。己の命を観じて名所旧跡に想を寄せ、輿は過ぎていく。「道行」と云い、我が子など、思う人を探して旅をする狂女物などに作られ、旅の様子を謡ったものだ。盛久の道行の果てには処刑が待っている。「盛久」の道行は処刑という切迫した事実を根底にして作られ、文辞的にも優れた道行だと云われる。
南北朝時代に作られた、盛久が京から鎌倉に護送される旅程の様子を綴った謡物の大作「東海下り」が下敷になっているという。

輿は鎌倉に到着し盛久は処刑を心静かに待ち経を読む。
平家の総大将、平宗盛が捕らえられ、取り調べる梶原景時に号泣して助命を乞うたという事を思えば盛久の人となりが見える。
盛久を訪ねた土屋に盛久は観音の御利益を説く。盛久の深い信仰心が詳しく述べられ心を打たれる。

やがて明け方の鶏が啼き、盛久は由比ケ浜の刑場に引き出される。盛久は西の方角に向かい観音の御名を唱え斬首をまつ。執行人は太刀を振り上げる。
盛久が手にしたお経が光を放ち刑執行人の目を刺し、振り上げた刀を取り落とし、経文「刀尋段々壊」の如く刀は二つに折れる。
報告を受けた頼朝は観音の助力であろうと刑の執行の中止を命じる。
以前、盛久は自ら勧請した千手観音を清水寺に安置することを懇願し許され本尊の脇に据えられた。清水寺では盛久が寄進した千手観音が倒れ腕が折れた。人々は観音が盛久を助けに行ったのだと観音に手を合わせたという。

頼朝は盛久を召し出す。頼朝はこの暁、夢を見た。盛久も同じ夢を見たであろうという。
夢は「香染めの袈裟をかけ数珠を爪ぐり鳩の杖に縋った老人が現れ私は東山、清水の辺りからお前のためにきたのだ。おまえの人に越えた深い信心がおまえを救うだろう。安心しなさい、私がお前の命に代わってやろう」
頼朝は酒宴を催す。盛久は鎌倉にまで聞こえた舞の名手だった。頼朝は盛久に舞を所望する。盛久は喜びの舞を舞い「長居は恐れあり」と早々に退出する。

頼朝は盛久を赦免し更に伊勢ノ国の盛久の旧領を返し安堵したという。同じ信仰を共有する頼朝の温情だろうか。
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