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01.23
Sat
宮中で歌合わせが催されます。大伴黒主の相手は強敵、小野小町。この強敵に勝ちたい黒主は、小町邸に忍び込み、明日の歌合わせのための歌を吟じていのを盗み聞きします。
黒主は小町の歌を万葉集の草紙に入れ筆、書き足します。
歌合わせの当日、参加者は小野小町、紀貫之、大伴黒主など大物歌人が居並びます。
司会役の紀貫之が小町の歌を詠み上げます。
帝は小町の歌を褒めそやします。
すかさず黒主が異議を申し立て小町の歌は万葉集の歌だと訴えます。
動転した小町は黒主と言い争いになります。小町は黒主の腹黒さを、黒主は小町の盗作を。帝が証拠の草紙を出せと云います。
小町が草紙をよくよく見ると、行間や墨付きが不自然です。小町は入れ筆であると確信し、草紙を洗って見たいと申し出ます。
帝が小町に黄金の洗い桶を与えます。
草紙を洗って見ると入れ筆の小町の歌はきれいに洗い落とされ元の歌だけが残ります。
黒主は恥辱に耐えかね自害しようとします。小町は、歌を嗜む物はこの位の気概があって然るべきと黒主を宥めます。
小町と黒主は和解、そのしるしにと皆が小町に舞を勧め、小町は泰平の世を言祝ぎ和歌の徳を称えて舞い納めます。

まるで王朝絵巻を見るような舞台です。先ず目を引くのは登場人物の多さです。それぞれが着飾り、舞台いっぱいに居並び、ひな祭りの如く、色彩豊かに目を楽しませてくれます。
重厚さは度外視して、美しく豪華に、を狙った作品でしょう。
内容に比して、舞台転換の妙と詞章の豊かさがこの能の魅力となっていると思います。
先ずシテ小町が囃子なしで登場、床几に腰掛かります。
続いてワキ、黒主が間狂言を連れて、これも囃子無しで登場、小町が歌合わせの歌を詠むと盗み聞きします。
間狂言が珍妙な聞き違いをしての黒主との問答、笑いを誘い舞台が更に明るくなります。
黒主、間狂言が幕に入ると、帝(子方が勤める)が小町、貫之以下を引き連れて現れ、絢爛たる歌合わせの場となります。
小町の歌が披露され、すかさず黒主の異議の申し立て、小町と黒主の言い争い、小町の嘆き、許されて草紙を洗う。数々の場面がごく自然に川の流れのように見事に展開されます。
草紙を洗う場面の詞章が面白く、小町の期待と喜びが直接心に響きます。
終曲の小町と黒主の和解、泰平を言祝ぎ和歌を賛美する小町の舞は、喜びも加味して違和感がありません。

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01.02
Sat
あらすじ
河内の国、高安の人、左衛門尉道俊は人の讒言を信じ我が子俊徳丸を追い出します。
さすがに不憫に思った道俊は、俊徳の後世の往生を願って、天王寺で七日間の施行を行います。(施行は己の来世のために貧者や僧に施しをして善根を積むこと)
父に追い出された俊徳は悲しみのあまり盲目となり、人々に弱法師と呼ばれ、闇を彷徨い仏の慈悲にすがる身の上となり、父道俊の施行の場、天王寺にやってきます。
道俊は俊徳が我が子であることも気づかず施行を受けるよう促します。俊徳は袖を広げ、折から散りくる梅の花と共に施行を受けます。
施行を受けた俊徳は施主に聞かせるかのように、天王寺の縁起や仏徳を作った曲舞を謡います。
やがて日も傾き、没する日を拝み西方浄土を想念する日想観の時刻になります。
西の方角には俊徳が嘗て見た美景が広がっています。俊徳は西に向かいます。過去の景色が心の中に蘇ります。
俊徳の心は高揚し、過去の景色を想念し求め、南へ住吉の松原を、東に草香山、北に長柄の橋、と舞狂います。
父道俊は弱法師、俊徳が我が子であることに気づき名乗ります。俊徳は我が姿を恥じ、逃げようとします。父はその手を取り、共に高安の里に帰っていきます。

□観賞のために
人の五官のうち視力を失うことほど悲惨なことはないでしょう。この能の主人公、俊徳丸の身の上です。それも親に捨てられ悲しみの涙で盲いいたのです。
杖を突いて現れた、シテ俊徳は親に捨てられた我が身の境涯を、仲のいいオシドリやヒラメの例を引いて嘆き、これも前世の因縁として仏徳に縋るべく天王寺にむかいます。
能の盲目の杖の扱いは常とは異なり、握った杖を胸の辺りに固定して離さず手首で杖だけを動かし探ります。つえの先端で“心”の字を書くとされています。常とは全く異なる杖の扱いは、何事をも美化しよとする能の姿勢でしょう。脳裏に心字池があったのかも知れません。
シテはシテ柱を天王寺の鳥居に見立てて探りあて、盲目を強烈に印象づけ舞台に入ります。
仏教の寺に何故鳥居と不審する向きもあるでしょう。神道は日本の国教だったのです。寺には小さくとも必ず神社が祀られていました。
舞台は天王寺境内。シテはワキ通俊の施行を受けます。梅の香が聞こえてきます。
視力を失った者の嗅覚が冴え、シテの僅かな面遣いは梅の香を見所に伝えます。
二人は“梅”談議をします。
仁徳天皇がこの地、難波津に皇居を定めたときの梅の歌や、和漢朗詠集の梅の歌を引き
難波津の花といえば梅をさすと。
二人の梅談議は、暗いシテの境涯を語ってきた舞に、ひとときの明るい春の風を呼びます。
 シテは舞台中央に進み座して杖を置きクセを語ります。クセはシテに代わって地謡が謡います。
クセは型式に沿ったものですが後半に、折しも聞こえる寺の鐘の音に万物成仏を感得するしみじみとした場面があり胸を打たれます。
 ワキが日想観の時だと告げます。シテは西に向かって入り日に手を合わせ、仏の慈悲を感得するかのように舞台を静に一巡するイロエを舞います。
シテは住吉の方向を眺めやります。盲目故に見える浄化された景色。淡路、絵島、須磨、明石。過去に見た景色が心眼に浮かびます。
「紀の海までも見えたり見えたり、満目青山な心にあり」「おう、見るぞとよ、見るぞとよ」と叫び。心は純化された景色の過去へ回帰し、憧れ、狂乱します。眼目の「狂い」です
折しも彼岸の中日、境内はごった返しです。人々に突き当たり転び杖を落とし、手探りで探すリアルな型があります。人によってこの型を嫌う人もあるとききます。

この能の原作者は観世十郎元雅。元雅の父世阿弥の自筆本もあるという。父子の作品の間にどんな関係があるのか知りません。シテ俊徳は天王寺で芸を見せ生業とし、妻や天王寺の僧も登場し、参拝客の賑わいをも見せる世話物の色もあるという。
現在の演出は江戸中期頃からだといいます。
世話物色を削り、悲惨な盲目の世界を能的に濾過し能的な美の世界を作り出しています。
元雅、世阿弥父子の原作を世阿弥的に改作した、たぶん能役者でしょうが、その人に興味が尽きないところです。

弱法師の話は、元雅以前に田楽の曲にあったといいます。当時流行った説教節や、大阪、柏原市高安村に伝わった説話が典拠だとも云うそうです。この説話では俊徳は継母に追い出され、天王寺で乞食をしており、訪ねて来た同郷の幼なじみの娘と夫婦になったとあるそうです。
これらを心の片隅に置いて見れば、一層味わい深い曲になるかも知れません。
 春の彼岸の中日、入り日は天王寺の西門の真上に沈みます。この西門は極楽浄土の入り口、東門に向かって造られていると云います。

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