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02.22
Sun
平家方の侍大将、悪七兵衛景清。源平の合戦に数々の武勇の名を上げた猛将の悲惨な末路を描いた名作。

景清は平家の滅亡後、日向の宮崎に流され盲目となり、破れ藁屋に住み、所の人、旅人の情けを受ける乞食となり果てていました。
景清と尾張熱田の遊女との間に生まれた娘、人丸は鎌倉に預けられていたが、父を慕いはるばる日向に父を訪ね長旅の末、宮崎に辿り着きます。
藁屋の中から身の境遇を託つ声が聞こえて来ます。人丸の従者が声の主に景清の所在を尋ねます。
景清は娘一行であることに気がつきますが、落魄の身を恥じ名乗りません。所の里人が一計を案じi景清の小屋に案内します。
里人はわざと大声で「景清、悪七兵衛景清」と呼びます。景清に名乗らせるためです。
景清は往年の豪傑の片鱗を見せ「やかましい」と怒鳴ります。
すぐさま落魄の悲哀が襲います。
ただ一人の身寄り、娘が訪ねて来ても名乗れない辛さ、日向の乞食とは呼ばずに、誇りと共に既に捨て去った武士の名「悪七兵衛景清」と呼ばれると、ついつい腹が立つ。
盲目ではあるが山の松風、荒磯波の音、汐の満ち来をもこの目、耳に確かに残っている。又、人の思っていることも一言の内に分かる、人の常を今だにもっているのに、その上、所の人々の情けに縋る身にありながら、片輪の身の癖、つまらない物言いであったと、許しを乞います。
里人は二人を引き合わせます。人丸は「親の慈悲も子に依りけるか恨めしや」と恨みごとをいいます。
景清は 「御身は花の如くにて」と慈しみ、名乗れば乞食の子となり人丸のためを思い逢わない覚悟をしたのだといいつつ、
栄光の日々を偲び「麒麟も老いぬれば駑馬に劣るがごとくなり」と哀れな今の境遇を述懐します。
人丸は八島での、景清の武勇を所望します。景清は女には似合わない所望だがと云い、八島の戦いで三保ノ谷ノ四郎との「錣引き」を語ります。
景清は、いくばくもない命の後を弔うよう人丸に頼み、それぞれの運命を観じ、泣く泣く別れます。

能には痛ましい生涯を送った人が数多く登場します。これらは生前のことで、多くは救われて成仏します。
この曲には救いがない。これほどの悲惨な境涯を描いた作品は少ない。しかも主人公は現在に生きている人間です。
その悲惨が倍加されます。

この曲は心理劇の要素の多い曲です。謡と、制約され内に込めたわずかな動きで表現します。冒頭、景清が身の境遇を託つ「松門の謡」や、里人に悪七兵衛景清と呼ばれて腹を立て、非礼を詫び、盲目の身を悲しみ柱に縋って波の音を聞くなどの場面が特にこの曲の特色をあらわしています。唯一の型どころ「錣引き」でも扇を刀に、おおむね床几に掛かって舞います。舞台を縦横に舞う以上の迫力です。シテは勿論、地謡も難曲中の難曲の一つと云われる所以です。
観る側も、演ずる側も、その悲惨な中にも、かつての豪傑、武士の気骨の片鱗を見よう、演じようとします。武士道という、受け継がれて来た意識のなせる業でしょう。外国との係わりも緊密に、国内外、激動と云われるほど世の中の変遷は激しい。
この作品が将来どのように日本人に理解されて行くのでしょうか。

平景清は藤原南家、伊藤氏の末裔。この能で娘に昔を偲び「景清は誰よりも御座船になくては叶ふまじ」と謡います。勇猛な侍大将だからだけではなく家柄の自負も指しているのかもしれません。悪七兵衛の名は平家滅亡後、平知忠の挙兵に参加、叔父である大日能忍を殺したからと云います。悪は「強い」の意もあります。身体が大きく強かったことも指しているのでしょう。
平家滅亡後の景清には色々な伝説があるようです。壇ノ浦の敗戦後、頼朝に捕らえられ和田義盛、八田知家に預けられたが絶食して死んだと云い、また京都に潜伏して頼朝を狙ったと言う説は能「大仏供養」に作られています。
平家物語、長門本では「例の生き上手」で落ち延びたが行方は分からないとあるそうです。
景清が盲目の心境を述べ「流石に我も平家なり、物語始めて御物語申さん」と謡います。
物語とは平曲を指すそうです。平曲は「平家物語」を曲節を付け琵琶の伴奏で語るもので鎌倉期、盲人「生仏」が始まりとされていますが、平曲語りの間では景清が平曲の始祖であるとするそうです。
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02.14
Sat
狂気と盲目。天皇の御子として生まれながら、数奇な運命を背負う姉弟。悲惨な境涯と深い姉弟愛をえがく。

醍醐天皇の皇子、蝉丸は生まれながらの盲目でした。帝は蝉丸を逢坂山に捨て、髪を下ろすよう勅命を下します。廷臣、清貫は蝉丸を逢坂山に伴ないながら、帝の無慈悲を嘆きます。蝉丸は、盲目に生まれたのは前世の行いが、拙なかったからで、この世でその償いを果たし、後世を助けるための親の深い慈悲だと清貫をさとします。清貫は蝉丸の髪をおろし、御衣を脱がせ、墨染めの衣を着せ、笠、杖を持たせます。蝉丸は和歌でのみ聞いた、これらの物を珍しがりながら庶民に落ちた身の境遇を嘆きます。   

近くに住む博雅の三位は身分のある人が捨て置かれていると聞き様子をみにきます。三位はあまりのいたわしさに、蝉丸のために藁屋を作り蝉丸に仕えることにします。

蝉丸の姉宮、逆髪は辺土遠境をさまよう狂人です。その姿は異様です。髪はその名のように逆立っています。子共達は宮の髪の「逆さま」見て笑います。宮は、お前達の身分で皇女の私を笑うとは、それこそ逆さまだといい、しかし「逆さま」は世の中の事象によくあることだと、例を上げて語り、物事には順と逆の二面があるのだ、狂気もまた人の一面だと洞察の深さを見せます。

逆髪は都をさまよい出ます。加茂川、白河を渡り粟田口を通り、松阪を登り、逢坂山に着きます。走井の水に写る我が姿を見て愕然とします。

粗末な藁屋から気品ある音色の琵琶の音が聞こえて来ます。
琵琶の主は蝉丸でした。二人は偶然の再会を喜び合います。逆髪は、世は末世ではあっても、少しの救いはあると云うのにと、二人の悲惨な境遇を嘆きます。

別れの時がきました。姉宮、逆髪は放浪の身ながら、まだ我が身を慰める術もあるが、盲目ゆえ粗末な小屋に止まらざるを得ない蝉丸を想い涙します。
蝉丸は姉宮逆髪のさらばと叫ぶ声が遠ざかり、消えるまで藁屋の軒に立ちつくします。

父帝に捨てられた蝉丸は、後の世を救うための父帝の深謀だと思いながらも「父帝には、捨てられて、かかる憂き世に逢坂の」と嘆き人間本来の姿を見せます。御衣も脱がされ清貫も去り雨露を凌ぐ物は笠のみと、美しい詞章が蝉丸の孤独と悲惨を謡い上げます。
蝉丸はツレですが盲目の皇子です。気品と心理描写の難しい役です。シテ逆髪の登場まで曲の半分近くを演じ、前シテの如きです。シテ登場後も重い役柄です。両シテと云われる所以です。

蝉丸の面(おもて)は蝉丸と呼び蝉丸にだけ使う専用面です。他にも「頼政」などの例があり特殊な性格の持ち主を表します。
 シテ逆髪は、登場からリズム感豊かに謡われる「道行き」と呼ばれる、都から逢坂山までの旅まで狂気です。逢坂山に着いてから、別れの終曲まで正気にかえっています。狂気と正気、二つをを際だたせて描きます。
クセでは蝉丸の粗末な藁屋が、昨日まで住んでいた王宮の「玉楼金殿」と対比して謡われ哀れを誘います。
昔は居クセ(シテは舞台の中央に座り舞わない)だったと云います。卓抜した詞章に惹かれて舞クセにしたでしょうか。江戸のある時期では「型」は無く「謡」だけだったといい、戦時中は皇子、皇女を盲、狂女に仕立てるのは「不敬」だと上演禁止だったといいます。
 
逆髪は実在の人物ではないようです。逢坂山に蝉丸を祀った関の明神があり、合祀の「坂神」の名から逆髪伝説が出来たと考えられるといいます。

蝉丸は平安中期頃の琵琶法師、歌人。生没、伝不詳といいます。今昔物語では宇多天皇の皇子、敦実親王の雑色といい、平家物語では醍醐天皇の皇子としています。平家琵琶法師の祖ともされ、この曲のアイ狂言として登場する廷臣、源博雅に秘曲を伝授したといいます。歌は後撰集、新古今集、続古今集、和漢朗詠集に採られており、小倉百人一首「これやこの、行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の関」はよく知られています。
逆髪が耳を傾ける、藁屋から漏れる蝉丸の歌「世の中は、とにもかくにもありぬべし、宮も藁屋も果てしなければ」をこの曲ではとくに「琵琶歌」として演じ心得のある所といいます。
02.14
Sat

國 栖(くず)

カテゴリ:國栖
古代最大の内乱、壬申の乱を題材に、前場に劇的緊迫、後場に能的祝言色を融和させた秀作。
吉野川に漁をする老人夫婦。白昼の我が家の上に星が輝き紫雲たなびき、只ならぬ気配に奇瑞を感じ急ぎ帰ります。
家には、大友の王子に追われ吉野の山中をさまよう浄見原天皇、侍臣一行が休息しています。
老人夫婦は感激に打ち震えつつ食事を差し上げます。姥は根芹、翁は鮎。
天皇は翁に鮎の半身を賜ります。生きているように見える鮎を見て翁は神功皇后の故事に倣い、鮎を吉野川の激流に放ち天皇の行く末の吉凶を占います。鮎は吉野川の激流に生き返り躍り上がります。
激流と鮎の躍動を老いの身で鮮烈に見せます。前場唯一の型どころ。
追手が迫ります。翁は天皇を船に隠し追い手を追い返します。追手と翁の問答は、あるときはとぼけ、あるときは凄み、その劇的緊迫が圧巻。
やがて夜も更け老人夫婦は御慰めの楽を奏しようと姿を消します。程もなく天女が現れ楽を奏し、神々の出現を促します。やがて蔵王権現が現れその威勢をみせ、天皇の行く末を守護する誓いを述べ、祝福します。

□この曲は前場、後場に切れ目がないという変わった構成です。前シテは「下り端」で退場します。「下り端」は通常は神仙、妖精などの登場の楽です。太鼓、笛、大小鼓で賑やかに奏します。前シテが幕に入っても「下り端」は奏し続き天女はこの「下り端」に乗って舞ながら登場し、つづいておなじ「下り端」で「天女ノ舞」を舞います。華やかこの上ない演出です。

□この能は壬申の乱(六七二年)を題材に作られました。物語の主役は大海人皇子(本曲では浄見原天皇)後の天武天皇。壬申の乱は、甥の大友皇子と皇位を争った古代最大の内乱。兄の中大兄皇子(後の天智天皇)が断行した大化の改新、この二大事件をへて大和朝廷は国家の体制を更に整え天皇の神格化を進めたと云われています。
「茜さす、紫野行き、標野ゆき、野守は見ずや、君が手を振る」額田王のこの歌は大海人皇子との恋の歌としてよく知られています。額田王は大海人皇子妃となり一子をもうけ後に兄天智天皇妃となります。このことが兄弟間の確執となったとも伝えられています。太古のロマンを思わせる能。

□大友皇子は天智天皇の皇子。母は身分の低い采女。室は額田王、大海人皇子の子、十市皇女。
容貌風采秀美、博学多通、文武に優れ人望が厚かったという。明治三年、一二〇〇の時を隔て「弘文天皇」の諡を追贈されました。 

□蔵王権現は修現道の主尊。修現道の始祖、役行者が感得した神といいます。恐ろしい姿は悪魔降伏の相です。和製のいわば神仏混淆の神。

□出典 源平盛衰記に、吉野に潜伏した浄見原天皇に國栖の翁が粟のご飯と、ウグイという魚をお食事に供えたこと、その後、位につかれて以後、招かれて元日にお祝いの舞を舞った。また宇治拾遺物語に、賎女が、追われた天皇をうつ伏せにした湯船の中に隠したとあるそうです。

□國栖奏 毎年二月十三日、吉野町南國栖の浄見原神社で國栖奏が奏されます。
小鼓一、笛四、舞の翁六、唄五十。天武天皇の即位に奏されたものだと土地の人の説明でした。古式豊かに、太古の昔に迷い込んだようでした。
02.14
Sat
源氏方、関東の荒武者、熊谷次郎直実は一ノ谷の合戦で十六才の平家方武将、平敦盛を討ち取ります。さすがの荒武者も十六才の少年の傷ましさに出家し蓮生と名乗り、敦盛の跡を弔おうと一ノ谷を訪れます。
岡の上から笛の音が聞こえてきます。笛の主は数人の草刈りの少年達でした。蓮生は、笛を吹くという優雅な業は賎しい草刈りにそぐはないと不審します。
少年達と蓮生は笛について問答します。 
やがて少年達は一人を残して帰って行きます。
残った少年は敦盛の亡霊でした。亡霊は蓮生に回向を頼み消え失せます。

須磨の浦の人が来て敦盛の最後を語ります。浦の人は、僧が熊谷直実、蓮生だと知り驚き供養を勧めます。
蓮生は夜を徹して懸命に敦盛の菩提を弔います。
やがて読経に引かれるように甲冑姿の敦盛の霊が現れ弔いを感謝し、一ノ谷に落ちて行った経緯や此処での生活を語り、涙を流します。
気を取り直し敦盛は最後の夜の、別れの宴の舞を舞い、熊谷直実に討たれた有様を見せ供養を頼み消え失せます。

前シテの敦盛は草刈り男で現れます。面は付けません。能の面には身分のない若い男の面がありません。
男達は挟み草を肩にしています。挟み草は刈り取った草です。「シンプルに象徴的に」が能の表現方法です。腰に扇、段ノシメを着ています。草刈り男は下賎の者ですが、扇、ノシメに貴公子、敦盛を臭わせます。
草刈り男達は身の境遇、草刈り、藻塩焚きのつらい生活を謡います。一族が須磨に落ち延び須磨人となって辛い日々を送ったことを暗示しているようにも聞こえます。
草刈り男と蓮生は笛問答をします。笛は敦盛が最後まで持っていた笛「小枝」をも暗示しているのでしょう。
蓮生の懸命の弔いに現れた敦盛の霊は甲冑姿の公達武者です。「頸をかかんと甲をおしあふのけて見れば、年十六七ばかりなるが、うす化粧してかねぐろ也」と平家物語は述べます。
「上にあっては下を悩まし、富んでは驕りを知らざるなり」と懺悔を述べ滅び行く者の哀れをクセ舞に舞います。
修羅物の能には武人が落ちる修羅道の苦しみで終わるものが多い。この曲は敦盛の最後が劇的に描かれます。
先ず最後の宴、敦盛の吹く笛は「小枝」でした。舞も公達に相応しい「黄涉早舞」です。

ワキが自分の名を名乗るのは身分のある人又は世に広く知られた人です。この曲では重きをなす人物であり敦盛を討った本人です。ワキ熊谷直実は名を名乗り敦盛を討った者だと告白します。討った者と討たれた者が向き合う因果を軸にドラマは展開します。
熊谷直実は涙を押さえて敦盛を討った。平家物語は「熊谷、あまりにいとほしく、いずくに刀をたつべしともおぼえず目もくれ心も消えはてて前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、なくなく頸をぞかいてンげる」と述べます。
直実は敦盛と同じ年頃の我が子、小次郎を思いやり、あまりのいとおしさに見逃そうとしたが後ろを見ると土肥、梶原など数十騎が駆け寄る姿が見え、仕方なく首を討ちました。
さらに平家物語は「あないとほし、このあかつき、城のうちにて管弦し給ひつるは、此の人々にておはしけり。当時みかたに、東国の勢なん万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈は猶もやさしかりけり、とて、、、、、これを見る人、涙を流さずといふ事なし」

平敦盛、一ノ谷の合戦で熊谷次郎直実に討たれました。満十五才でした。笛の名手で祖父の平忠盛が鳥羽院から授かった笛を持っていたといいます。平清盛の甥。兄に能「経正」に作られ、和歌にも秀でた平経正がいます。

熊谷次郎直実、生まれは武蔵國大里郡熊谷郷。戦功によって源頼朝から熊谷郷の地頭に任ぜられました。その後、所領の境界を争い訴訟したが敗れて逐電し出家して蓮生と名乗りました。出家のきっかけは敦盛を討った事にもあるといいます。

02.01
Sun
二人の男かから同じ時に求愛された蒐名日少女(うないおとめ)。一人を選んでも、もう一人の男の心情を思う痛みに耐えかね、生田川に身を投げる。女は邪淫戒を犯した罪で地獄に落ちる。前場、寒々とした早春の情景、後場、凄惨この上ない地獄の責め苦を描いた名曲。
 

旅の僧が生田の里(神戸市)を通りかかると数人の女が万葉集や古今集の歌を交えた歌をうたい若菜を摘んでいます。僧は女達に「求塚」の場所を尋ねます。女達は聞いたことはあるが、何処にあるか知らない、あなたも急ぎの旅でしょう、つまらないことは聞かないで先を急ぎなさいと教えず一人を残し帰って行きます。一人残った女は僧を求塚に案内し、塚のいわれを語ります。「昔この生田の里に住んでいた莵名日少女(うないおとめ)は同じ日の同じ時に同じ文面の求愛の手紙を貰った。二人の顔形も同じだった。おとめは選びかね、生田川のオシドリを射させ、矢が当たった方を選ぶという。二人の男の矢は同時に鴦に当たった」
言葉をきった女の様子が変わります。今まで人ごとのように語っていた、女の話は「その時わらわ思うよう」と自分自身のはなしになっていく。この女は実は莵名日少女の亡霊だったのです。女は話を継ぎます。
「わたしは思った。仲睦まじい、つがいの一方を殺された鴦の無残と、選んだ男の、もう一方の男を重ね合わせ、己の罪の深さに絶望、生田川に身を投げた。二人の男も後を追い、この塚の前で刺し違えた。この三つの塚は三人の墓なのです」と語り塚の中に入ります。

僧達は塚の前で読経し、おとめのあとを懇ろに弔います。塚の中から、乙女の身で非業の死を遂げた跡の、荒涼とした塚の景色を嘆く声が聞こえ、憔悴したおとめが姿をあらわします。地獄から現れたのです。塚の前は次第に地獄の景色が拡がります。
求愛の手紙の男二人はおとめの両手を引いて奪い合い、生田川で殺した鴦は鉄の鳥となって鉄のくちばし、爪でおとめの肉を食う。更に八大地獄がおとめを容赦なく襲います。苦しみに縋りつく柱は火炎を放ち、真っ逆さまに底なしの無間地獄に落ちる。
地獄の苦しみは三年三月の間続きました。苦しみが開け、おとめは塚に帰ろうと地獄の闇をさまよいます。やがて塚の前の地獄の景色は消えおとめの亡霊も塚の中に消えますます。おとめは地獄から成仏できないのではと暗示を残して。

地獄を取り上げた曲は数多い。室町期に流行った「地獄の曲舞」を取り入れた「歌占」、殺生戒を犯して地獄に落ちた「善知鳥」など、凄まじい地獄を描く。この「歌占」はさらに凄まじい。「歌占」も「善知鳥」も壮年の男、「求塚」は少女だ。凄惨と哀切が倍加します。

能の詞章は和歌を効果的に取り入れています。この「求塚」は古今集、風雅集、新千載集、堀河百首、拾遺集、万葉集などから取り入れており、その数に驚きます。これ程多くの歌集、歌の数を取り入れた曲は少ないのではないかと思います。これらの多くの歌を軸に早春の寒々とした景色を美しく優雅に歌い上げています。
この美しい景色が急激な転換を見せます。鮮やかな舞台転換です。
菜摘女は僧を求塚に案内し、塚の謂われを語ります。話の核心近く菜摘女は莵名日少女の幽霊に変わっていきます。姿はそのまま、セリフとわずかな動きで表現します。演ず側は苦心するところです。この舞台転換の暗さをそのまま引きずり凄惨な地獄につなぎます。卓抜したドラマツルギーです。

「求塚」伝説は万葉集にあるといいます。これをもとに大和物語の説話が出来たと云います。この大和物語、能「求塚」をもとに森鴎外は戯曲「生田川」を作りました。
この曲はその凄惨さ故か六百数十年の間、上演が途絶えていたと云います。

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