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09.23
Tue
鎌倉前期の天才歌人、強烈な性格の持ち主であったという藤原定家の陰湿、凄惨な恋を背景に式子内親王の苦悩を描く。
初冬の都を訪れた僧が上京辺りで時雨に遭い近くの家に雨宿りします。女が現れこの家は藤原定家が建てた「時雨の亭」で、もの寂しい時雨の頃、訪れ歌を詠んだのだと教ます。今日は命日ですので供養してほしいと墓に案内します。蔦葛に覆われた石塔があります。式子内親王の墓で、纏わりついた葛は定家葛だといいその由来を語ります。
「式子内親王は加茂の斉院になりましたが程なく役を退きました。定家の卿が忍び忍びに通い、深い契りを結ぶようになったのです。内親王は、「玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば忍ぶることの弱りもぞする」と心の内を詠み、事の露見を恐れましたが、間もなく人の知るところとなり互いに逢うことが出来なくなりました。その後、間もなく内親王は亡くなり定家の卿の執心は葛となって墓石にまとわり付いたのです」私は実は式子内親王の幽霊です。身は消え石塔となっても、定家の卿の妄執は蔦葛となって身にまとわり苦しみに耐えられません。どうか助けて下さいと消えていきます。
 僧は所の人に定家葛の謂われを詳しく聞き、式子内親王の墓前で経を読みます。
塚の中から苦悩に憔悴した内親王の霊があらわれます。僧の弔いに報恩の舞を舞い、再び塚の中に入ります。定家葛はもとの如く塚を覆います。

舞台の後方に据えられた作り物の塚は式子内親王の墓です。定家葛で覆われています。定家葛にまとわれた塚の存在は重く、この能そのものを象徴しています。地謡が「庭も籬もそれとなく、荒れのみ増さる草むらの」内親王の心の風景を謡います。自然の風景を借りて人の心象風景を表すのは能の常套であり、自然と人の心の一体感をもつ日本人の心を感じます。
浮ついた恋はすまいと加茂の斉院に入った式子内親王でしたが忍ぶ恋に陥ってしまいます。「玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば」恋の露見を恐れた悲痛なさけびです。
内親王の死後も定家の妄執は定家葛となって墓石に絡みつき内親王の魂は苦患に縛られます。露見恐れる式子内親王と墓石に絡みつく定家の執念。この能の主題です。それ程の過激な表現はないものの人が人を恋うとは何か、苦しいほど心の奥に沁みこみます。
 この能は、演じる側にとっては難曲であり大切に扱う曲です。色々な工夫を凝らします。例えば「石に残す形だに、それとも見えず蔦葛」と塚に中入りします。石塔に引き寄せられるように、定家の執心に引き寄せられるように、作り物の枠に足をすり付けるように中に入ります。舞も蔦葛に縛られた態に小さく、謡もリズムにノリすぎないようになど口伝の多い曲です。いろいろの制約の中で内親王の品位を保ち舞うことを第一とします。
小書(替えの演出)が多いのもこの曲への執着を示しています。「埋留」「墓之拍子」「袖神楽」「引導」「露之紐解」「石塔之拍子」「二段半之舞」「五輪砕」。いずれも含蓄のある難しい小書です。更にこれら全てを演じる「一式之習」があります。技術、気力、豊かな人生経験を持つ者にのみ許されるといわれています。

式子内親王、藤原定家とはどんな人だったのだろうか。残された記録や言い伝えから想像するしかないでしょう。
内親王は後白河天皇の皇女、1159年、加茂斉院(加茂神社に奉仕した未婚の皇女又は皇族の子女。伊勢神宮は斎宮)となり10年後、病を得て辞しました。和歌をよくし多分和歌を通してでしょうが藤原俊成、定家父子と交わったと言います。家集に「式子内親王集」。1201年没。(50才半ばだったか)

藤原定家(1162~1241年)鎌倉前期の歌人。式子内親王が斉院になった時、定家は3才、内親王が斉院を辞した時は13才でした。これらから類推して二人の間には10才以上の年齢差があったことになり、二人の恋物語は虚構であろうといいます。この曲とほぼ同じころ成立の「源氏大綱」にこの曲と同じ内容の説話があると言いますが能の成立とどちらが先か分からないと言います。また全く逆の話も伝えられています。内親王が斉院を辞して後の話らしいが、定家はあるとき内親王と行き会いがしらに内親王を恋う歌をくちすさみ行き過ぎたが内親王は「その御つら(顔)にてや」と云い返歌もしなかったといいます。定家は恐ろしく醜男だったそうです。

定家は鎌倉を代表する歌人、千載集の選者藤原俊成の嫡男。幼い頃から歌才を現し父、俊成の嘱望ははかり知れなかったといいます。23才の若年で彼の大詩人、西行に私家集の選歌を頼まれたが、西行が若い自分をからかったったのだろうと本気にしなかったが西行に催促され慌てたと云います。西行も定家の歌才を高く買っていました。しかし傲岸、狷介(おごりたかぶりへりくだらない。頑固でかたい)な性格で人に嫌われ出世もままならなかったらしい。九条家の庇護を受けていたが九条家の没落とともに落ちぶれ作歌にも行きづまり家人一人の草ぼうぼうの家に住んでいたこともあると云います。
 こうした定家像から定家、醜男説や能「定家」は作られたのかもしれません。 
定家は持病持ちであったといいます。生涯二十数回熊野行幸をした熊野好きの天皇に随行して道作りなど先行の指揮をしてあばら屋に泊まり、死ぬ思いをしたことが日記にあるそうですが、それでも七十九才の天寿を全うしました。定家の父、俊成は九十才、驚く程長寿の家系だったのでしょうか。

定家は「新古今集」の選者の一人。71才で「新勅撰集」を撰、歌壇に君臨しました。「近代秀歌」「毎月抄」の歌論を著し、以後の韻文学に大きな影響をあたえ、その功績大きいといいます。19才からの日記「名月記」は当時の貴族社会の事情を伝える貴重な資料となっています。「源氏物語」、「古今集」の改訂などその著作は多く研究者、学者としての功績は大きいと云います。

定家の孫の代に、和歌の家、藤原家は二条、京極、冷泉に分立しました。冷泉家の祖、冷泉為相は鎌倉中納言として能「六浦」に登場します。為相は財産争いの訴訟で鎌倉に下った母、阿仏尼の後を追い一時鎌倉に滞在、母と鎌倉の歌壇を指導しました。母阿仏尼の「十六夜日記」はその辺事情を書いたものだといいます。
冷泉家は上冷泉、下冷泉に分かれ和歌の師範家として今に続いています。
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09.06
Sat
戦前生まれの人なら誰でも知っている童謡「京の五条の橋の上」の元になった話。出所は「義経記」、「御伽草子」。
牛若(源義経の幼名)が五条の橋で千人切りを働くという、話は物騒だが童話風なほのぼのとした能。生涯の主従、義経と弁慶の出会いの物語。
シテは弁慶ですが子方の牛若が小太刀を健気に振るい舞台を独占する。厳めしい出で立ちの弁慶が幼い牛若に散々に翻弄されます。むくつけ大男、弁慶が滑稽にさえ見えます。

能の子方は能の詞章がほとんど理解出来ません。全くの外国語と同じです。こうした立ち回りの能で興味を持たせ、周りに褒められ成長して行きます。
出典の義経記、御伽草子は千人切りの犯人が弁慶、牛若それぞれ逆だそうです。

天下の豪傑、武蔵坊弁慶は或る宿願があって丑の時詣でを思い立ちます。従者は、五条の橋に化け物のような少年が出没して人を襲うという。その技は神変不思議で、あなたのような剛の者でも闘ったら討たれるでしょうという。弁慶はいったん諦めますが「弁慶ほどの者が聞き逃げしては」とプライドが許しません。牛若は母に、明日は鞍馬の寺に入るようにきつく言われていたので、今夜限りの名残と、女装して手頃の相手を待っています。
弁慶も大長刀を肩に、威丈高に五条の橋にやってきます。弁慶は薄衣を被った女姿の牛若に出会うが心を許して通りすぎます。牛若は弁慶の長刀の柄を蹴上げ挑発します。二人は秘術を尽くして闘います。さすがの弁慶も、蝶か鳥のように縦横に飛びまわる牛若に抗しきれず、ついには長刀を打ち落とされ降参します。弁慶は少年が源義朝の子であると知りこれ以上の主はないと主従の契約をし、連れだって九條の御所に帰ります。

特殊演出に、小書に「扇之型」があります。牛若が橋掛の欄干から舞台の弁慶目がけ扇を投げつけ弁慶が長刀でたたき落とします。興味ある演出です。
09.06
Sat

江口(えぐち)

カテゴリ:江口
西国修行に赴く都の僧が、江口の里に立ち寄ります。僧は西行法師の故事を思い出します。
西行法師が天王寺詣での途次、江口の里で、にわか雨に会い宿を乞うが断られ「世を捨て
出家するのは難しいことだろうが、わずか一夜の宿すら惜しみ執着することだ」。の歌意の
歌を詠みます。僧は昔を懐かしみ西行の歌を口ずさみます。何処からともなく女が現れ僧の口ずさみを咎め、此処は色好みの里です、出家の西行法師に宿を断ったのも当然ですと語り「あなたは世を厭って出家された人と聞きます。このような憂き世の、仮の宿に執着なさいますな、そう思うばかりです」の歌意の返歌を西行法師にしたと教え、私は西行法師に宿を断った江口の君の幽霊だと名乗り姿を消します。

僧は江口の里人に江口の君の話を聞きます。
「播州の性空上人が生身の普賢菩薩を拝みたいと観世音に祈願したところ江口の里の長を見よという霊夢を得た。上人が江口の里を訪れると江口の君は十人の女房達と船遊びをしていた。上人が瞑目すると江口の君は普賢菩薩となって現れた。目を開けると江口の君となった。上人は又目を閉じた」

僧達は江口の君の供養をします。やがて河面を渡り遊女達が歌う船遊びの歌が聞こえてきます。僧の呼び掛けに船を下りた遊女は江口の君でした。
 江口の君は人の世の輪廻を説きます。
「前世の前には又前世があり来世の後には又来世があり果てしなく流転を続ける。人は容易にはあり得ない人間界に生まれながらも煩悩に迷い、道理を誤り、悟りの元を作ることができない。紅に咲く春の花も金色の秋の紅葉もいつかは散り果てる。親しい友も、枕を並べた二人も離別の日がくる。愛欲に執着し六根の罪を作ることは、聞く事、見ることから起こるのだ」
 江口の君は静に解脱の舞を舞います。
煩悩を解脱すれば六欲(六根から生まれる欲望)の風は吹かないのだと説き、その身は普賢菩薩と変じ西の空に去っていきます。

幽玄の情趣最も豊かな、さらに優艶典雅、高い品位の曲だという。幽玄とは、辞書に「奥深く微妙で容易に計り知れないこと。あじわいの深いこと。情趣に富むこと。さらに上品でやさしく優雅なこと」とあります。
曲趣から見るとこの曲は仏教色にうずまって、幽玄の情趣にほど遠い内容の曲に思えます。前場は類曲とさしたる変わりはありませんが、後場に類曲と大いに違う、この曲独特の心髄を見せます。江口の君は遊女です。遊女という社会の底辺に生きる身の上を嘆き悲しみ、仏の救済願う、または欲望からの解脱を願う形にはしません。江口の君は普賢菩薩の化身だからです。遊女の姿で仏の道をときます。
江口の君の登場は船遊びの歌に始まり輪廻転生、人の世の無常を説く仏説につながります。
不連続線なく無理なく、宗教音楽をきくようです。信心深い往時の人は法悦の世界に入った事でしょう。
遊女が普賢菩薩となったという突飛な話は西行の著とされる「撰集抄」や「故事談」、「十訓抄」にあるといいといい、この曲の出典になっています。善悪不二、迷悟帰一、凡聖不二などの仏教の教えの類でしょうか。

性空上人は都で時の天皇、衆人の崇敬を集めた高僧でしたがこれが煩わしいと姫路の書写山に逃げたといいます。書写山円教寺の開山。一条天皇妃、彰子は性空を慕い和泉式部を供に書写山に行ったが性空はこれを嫌い居留守を決め込んだといいます。権力を嫌ったといいます。

西行法師は俵藤太藤原秀郷八世の孫。紀伊に所領を持つ富者。佐藤を名乗り、名は憲清。北面の武士のころ平清盛と親交があったといいます。二十三歳で出家し周囲を驚かしました。出家のさい取り縋る幼い娘を縁側から蹴落としたというが信じ難い。崇徳上皇に歌才を磨かれました。出家の動機は失恋説もあるが歌道に専念するためであったとする説が有力。歌枕に憧れ奥州を旅し同族の藤原秀衡を訪ね、高野山に庵を結び、ここを根城に大峰修行をし、讃岐に流され憤死した崇徳上皇の墓に詣でた事は能「松山天狗」に作られています。源平の戦いでは、二見浦に草庵を結び、高見の見物を決め込みました。奥州の旅から四年後、東大寺の僧、重源に頼まれ再び平泉を訪ね大仏塗金のための金、四百五十両を勧進した。
西行は多くの人に慕われた大詩人でした。松尾芭蕉は西行の跡を慕い「奥の細道」を旅しました。「新古今集」に最多の九十六首入集、家集「山家集」などに二千百余首が知られているといいます。長生きで七十四才寂。

遊女の里は、大阪湾にそそぐ淀川と神崎川にはさまれた中洲状のところにあった。ここは淀川を、のぼり下りする水上交通の要衝。九州、瀬戸内海沿岸の人や物資を都や沿岸に運んだという。

四条畷市に兄を見舞いに行った電車の窓から、麓から山の中腹まで櫻の帯が這い上がっていた。嬉しくなって訪ねたら野崎観音だった。一条天皇の時江口の君が建てた。商人の守り神だという。野崎参りは昔は盛んで麓の運河はお参りの客の屋形船で賑わった。戦前、演歌にも作られ、浄瑠璃にもあるという。江口の君は人々に親しい存在だったのだろう。


09.06
Sat
九州松浦の僧が都見物に上ぼります。
途中、宇佐八幡を勧請したいという石清水八幡宮に詣でます。
麓の野辺に咲く千草の中に一際色鮮やかに女郎花が咲き乱れています。
僧は仏に手向けようと、一本折り採ろうとします。
どこからともなくこの野の花守という老人が現れ僧を咎めます。
二人はこの女郎花を折り採ることの是非を和漢朗詠集や古今集、
後撰集などの歌を引いて歌争いをして、戯れた後老人の案内で八幡宮に詣でます。
僧が八幡宮の男山と女郎花との関わりについて尋ねると老人は今、
古歌を引いて戯れを言ったのは男山と女郎花とのことについてだったのではないかといい、
これも又女郎花と関わりがあるからと、男塚、女塚に案内します。
老人は、この塚は小野頼風という人とその妻の墓であるといい、
この墓の主は自分であるとほのめかして消え失せます。
僧は経を読み頼風夫婦のあとを弔います。
経に引かれて頼風夫婦の亡霊がありし日の姿で現れ塚のいわれを物語ります。
頼風の妻は都に住んでいました。
ある時、妻は男山の頼風のもとに行きます。
ふとした行き違いから頼風が心変わりしたと思いこみ、
放生川に身を投げます。頼風は泣く泣く遺骸を塚に築籠めます。
その塚から女郎花が生え出ました。
頼風は、その花に妻を偲び、その気持ちを憐れみ跡を追います。
二つの塚のいわれを語ると、にわかに狂乱となり、生前犯した
邪婬の悪業のため地獄の鬼に責められるさまを見せ、僧に成仏を乞い消え失せます。

□この能の前場は三つの場面から成り立っています。
まず僧と花守の老人との女郎花をめぐる風流問答です。
和漢朗詠集や、古今集、後撰集などから多くの詩歌が引用されていて、この曲の詞章を流麗に美しく引き立てています。
本曲の成立以前に田楽新座の喜阿弥の謡物「女郎花」があったことが
世阿弥の著作から知られていますが、その一部が現在するそうです。
この喜阿弥の「女郎花」と本曲の風流問答から類推すると
本曲の成立に大きなかかわりがあるものといわれています。
 次いで老人は僧を八幡宮に案内します。
八幡宮のたたずまいが美しい文章で謡われます。
次に男塚、女塚に案内し本曲の主人公、頼風のことが簡潔に語られます。
風流問答の場と八幡宮との場はそれぞれこの能の前場となり得る
量感を持っています。
つまり前場が二つ重なっている感じがあり多少煩雑感があるように思われます。

□後場は二つの場面から成っています。
シテ、小野頼風は妻と共に現れ、男塚、女塚の由来を語ります。
この能は人間の「業」を主題にした執心物と呼ばれるものに分類されています。
「善知」、「定家」など、殺生戒、邪淫戒を犯した者の物語です。
これら執心物の多くは後場で痩男、痩女の類の面をかけるのが常です。
地獄の責め苦に憔悴した風貌です。
本曲のシテ、小野頼風は若い男の面をかけた貴族の出で立ちです。
終曲部「あら閻浮恋しや」のあと「カケリ」(謡はなく囃子だけで舞う急調の 短い舞)は
通常、地獄の苦患のありさまですが、この能では心の高掲ほどのものを 意味します。
続く地獄の呵責はこの類の他の曲と比べ、ごく軽いものとなっています。
この能の前場の構成、後シテの出で立ち、扮装は他の類曲と大きな相異を みせています。

□小野頼風説話は、古今集の注釈書「古今和歌集序聞書三流抄」に
「男山の昔を思ひ出でて女郎花の一時をくねるにも、歌をひいてぞ慰めける」の
注釈としてこの説話があります。
内容は本曲の話とほぼ同じです。この「古今和歌集序聞三流抄」は本曲の他
「高砂」「難波」「井筒」などの世阿弥の能や「松虫」の本説になっているそうです。
本曲の成立以降の洋ですが、宗祗の門人月村斉宗碩が編んだという「連歌」の辞書
「和歌藻塩草」の第八草部に「古今の序に云う」としてこの頼風説話が見えます。

☆おみなめし(オミナエシ)は、山地の草原に普通に生えている多年草です。
8月から10月に黄色い小花がたくさん集まって咲き、風情は本曲のとおりです。
万葉の時代から秋の七草の一つに数えられ、万葉集、十数首古今集に二十首ほど
詠まれているそうです。 万葉集では「娘子部四」又は「美人部子」など、古今では「女郎花」
(読みはいずれもオミナヘシ)で古今の時代に賴風説話が生まれたのでしょうか。
姿に似ず悪臭があり、それ故漢名は「敗醤」と、あまりにかわいそうです。 同属に白花の「オトコエシ」があります。
09.01
Mon
この能は、現在能と呼ばれる劇的要素の多い能である。夢幻能に対する分類であり、「この世の人」のドラマである。自ずと夢幻能にはない演技が付加される。ことにこの能は複雑な心の劇であり、演者にはそれなりの人生経験、見識等が要求される。

安元三年(1175年)平家討滅の計画が漏れ、この能の主人公、僧、俊寬は流刑となる。謀議の首謀者は大納言成親であった。密議の場所は主に鹿ヶ谷の俊寬の山荘であった。鹿ヶ谷は東山の麓にあって、背後は三井寺に続く「ゆゆしき城郭」であったという。時には後鳥羽法王をお迎えしての密議は、成親の最も頼りにしていた北面の武士、多田蔵人行網の密告によって露見し、ことごとく捕らえられた。成親の子、成経、平判官安頼、俊寬の三人は薩摩、鬼界が島に流された。

治承二年(1178年)中宮徳子(平清盛の娘。後の建礼門院)が懐妊した。悪阻に陥った中宮に鹿ヶ谷事件で斬られた成親、僧西光の死霊、鬼界が島に流れた人々の生霊など清盛に迫害された人々の悪霊がとり憑いた。この悪霊をなだめるため祈りが行われ、特赦が行われた。鬼界が島の赦免使は仁左衛門尉基康、宮古を七月下旬出発、九月中旬到着。「浪、風しのぎ行く程に」とあるように台風シーズン中の航海であった。

この能は冒頭、ワキ赦免使の名乗り、島へ赴く旨の簡単な一場面はあるが、赦免使の到着から、許されて帰郷する成経、康頼と、島に残される俊寬の別れまでの一場ものである。

成経、康頼は、熊野信心深く、この島に三熊野を勧請して「日ごとに熊野詣でのまねをして帰洛の事をぞ祈りける」とある。この能も二人の熊野詣でから始まる。

俊寬は「天性不信第一の人にて是を用いず」とある。宗教家でありながら不信心で、二人の熊野詣での誘いには乗らなかった。この能で俊寬が道迎えと称して谷川の水を汲み、酒だと言ってすすめるのも二人への揶揄とも受け取れる。この道迎えの水の酒で三人は酒宴をはじめるのだが、拗者の俊寬もそのうち都への思いがふつふつと湧いてくる。落ち葉を盃にするのだが、この時シテは「ツッ」と前に出、落ち葉を手に受け見入る。俊寬の「思い」が掌の中に凝縮する。

この能のシテ搭乗の「一声」地謡の「クセ」で島の様子が語られる。平家物語によれば、この島はなかなか舟も通わず、人も少なく、本土の人にも似ず、色黒く、牛のようである。全身毛が生え言葉もわからない。衣服もなく、米穀のたぐいも無い。ただ漁だけである。雷は鳴り止まず、麓は雨がしきりに降っている。一日、寸刻も人は生きられそうもない。とある。この島での暮らしは都での栄華の生活に比べれば地獄のように思えたゆえの表現だろうか。三人は主に成経の妻の父、平教盛の領地、肥前国鹿瀬庄から送られてくる衣食に頼っていた。

赦免使が着いた時、成経、康頼は例の熊野詣で不在であった。俊寬は「夢やらん、又天魔、波旬(天魔の別名)の我が心を、たぶらかさんか」と疑うほど狂喜して「あわてふためき走るともなく倒るるともなく」駆け寄った。しかし赦免使から渡された免状には、成経、康頼とだけあり、俊寬と云う文字はなかった。「奥より端へよみ端より奥へ読みけれども三人とは書かれず」。礼紙(巻物の上に更に一枚巻いた上包み紙)に書いてあるかもしれないと、礼紙を見るが書いてない。「夢かと思ひなさんとすれば現なり…平家の思ひ忘れかや、執事のあやまりか」と赦免使に詰め寄り、地に臥す。この俊寬の狂態をこの能では膝を打ち、両手を打ち合わせるだけの単純ではあるが鋭い型で表現する。

俊寬は康頼の衣にすがり「この舟に乗せて九国(九州)の地へ着けて給べ」と懇願するが、康頼は許しもなく三人島を出たらその後が恐ろしい。入道相国にとりなして必ず赦免を取り付けると説得する。

「僧都綱に取り付き腰になり、脇になり、丈の立つまでは引かれて出で、丈も及ばざれば舟に取り付き…。ただ理を曲げて乗せ給え」と懇願するが船頭はその手を払いのけて舟を沖へ漕ぎ出した。「僧都せん方なきに渚にあがり倒れ臥し、幼き者の乳人や母などを慕うように足ずりして是乗せて行け」と叫ぶ。舟は沖に遠ざかり、俊寬は「高き所に走り上がり」手をかざして呆然と立ちつくすだけであった。舟影も人影も消えた海の彼方を見つめて、俊寬は立ちつくす。限りなく静寂な舞台に立ちつくすシテ一人、あとは観客の「おもい」に任せるのである。

赦免状から終曲まで平家物語の原文を巧みに取り込んで脚色している。謡曲は和歌や漢詩、物語などの語句を「コマギレ」にパッチワーク的に繋ぎ合わせたものだとよく聞く。謡曲は劇の台本であって、文学的価値を意図した訳では無いだろう。世上に膾炙された詩歌・物語を効果的に採り入れ一つの独立したものに仕立て上げる技法は、比類のない優れた脚本作法だと言っていいだろう。

俊寬は、法勝寺の寺務職であった。八十余ヶ所の荘園を管理する職で、四、五百人の眷属にとりまかれていた。寺の財、信者の寄進、布施も思いのままであった。「僧なれども心もたけくおごれる人」気性も激しく驕り高ぶった人物であった。「俊寬僧都は天性不信第一の人」で、生活の全てが宗教と結びついていた中世であって、しかも僧の身でありながら不信心の人であったというのも理解し難い性格である。この能に使用する面は「俊寬」という専用面である。他の面では代用できない強烈な性格故であろう。入道康頼は別れの時俊寬に法華経一揃を残した。失意のうちに食を絶ち、流刑の地で37歳の生涯を閉じた。「天性不信の人」俊寬も最後には弥陀の名を唱えて果てたという。

硫黄島は、鹿児島県鹿児島郡三島村の、三つからなる島の一つで鬼界が島と言われ、謡本や解説書にある大島郡というのは、奄美大島本島の南にある「喜界島」と混同したもので、誤りである。この島は、阿蘇霧島火山帯に沿って南に連なって点在する火山の一つであり、鹿児島県の大隈半島からは四、五十キロほどの指呼の間にある。晴れた日には山頂の噴煙が望める。俊寬がここに流されたのは、隠岐の次の流刑地という感覚であったろうか。この地方は時の大和朝廷に「朝貢」したという記述が日本書紀、崇神天皇の項に見え、古くから開けていた。薩南諸島、西南諸島と台湾まで小島が続き「道の島」と呼ばれて中国への交易の通路であった。俊寬は内地から通って来る商人と山で採取した硫黄を食物とかえたと平家物語にある。当時も内地との交流が頻繁だったのだろう。火薬を発明以来の事で多分薬用であったろう。
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