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01.14
Tue
□鞍馬山の奥、僧正が谷に住むという山伏は鞍馬寺で花見の会があると聞き、やってきます。
 東谷の僧は西谷からの誘いの手紙をもらい、稚児をつれて西谷へ行き花見の会をします。
 山伏は僧達の席に加わろうとしますが風来者に興を削がれたと僧一行は帰ってしまします。
 一人居残った牛若は山伏に同情し、山伏を招き寄せ二人で花見をします。
牛若の思いがけないやさしさに山伏は恋心さえ抱くようになります。
牛若は山伏に源氏の嫡流故の不遇を語り、山伏は牛若を慰めようと花の名所を残りなく案内してまわります。
 山伏のあまりの好意に牛若が名をたずねると山伏は実は鞍馬山の大天狗であると名乗り、
平家を亡すべき兵法の奥義を授けよう、また明日会おうと言い残して雲に乗って飛び去ります。
 牛若がはなやかに、りりしく身支度して待っていると諸山の天狗を引き連れて大天狗が現れます。
大天狗は漢の高祖の臣下、張良の物語をします。
張良が秦の隠士、黄石公に兵法の秘法を授けられた時、黄石公は張良の忍耐力を試したあと履いていた靴をわざと落とし
張良に履かせよと言い、張良の器量を見ました。
 こう語った大天狗はあなたも張良に劣らぬ器量をお持ちだと兵法の奥義を授け、
必ず平家を滅ぼすであろうと予言し九州や四国の合戦のときは必ずあなたの身を離れず守護し
弓矢の力を添えようと言い残し、夕暮れの鞍馬山の杉の梢に飛び去ります。

□はなやかに、華麗に、豪壮に、変化に富んだ天狗物の第一の能といわれ人気曲のランクを争う曲です。
能に不案内の人でも十分楽しめます。まず山伏が登場します。
舞台に不思議な雰囲気がただよいます。次に稚児の登場です。
花見の会は能力の舞う小舞でたけなわになりますが山伏の闖入で中断します。
稚児達を花見ともいい能楽師の子弟はこの花見で初舞台を踏むことが多いようです。
短時間でセリフもなくその上はなやか故です。
花見達はあたりを見まわしたり扇をもてあそんだり、あどけない仕種が可愛いく、ほほえましく
能力の小舞とあいまって楽しい雰囲気を醸します。
稚児達は今を時めく平家の公達です。
当時平家の人たちが子弟を鞍馬に預ける風習があったかどうかは知りませんが、
牛若が山伏に語るように平家の稚児達は「今の稚児達は平家の一門、中にも安芸の守清盛が
子供たるによって・・・鞍馬寺中の者から可愛がられている。
それに引替え私は何かにつけてみじめな境遇で月にも花にも捨てられたようなものだ」と
牛若の境遇の引き立て役でもあります。

□花見達が去り舞台には山伏と牛若のしみじみとした場面になります。
「御物笑ひの種蒔くや、言の葉しげき恋草の」と美少年牛若への山伏の恋心を地謡がうたいます。
中世に流行り、風習ともなったという念友、男色を風刺しているとも言われています。
やがて夕暮れになり「松嵐花の跡訪ひて・・・哀猿雲に叫んでは」と、
ものすさまじい景色の中で二人は花見をして回ります。
尋常ならざる二人の秘めた力を感じる場面です。
山伏は来序の囃子で中入りします。後場の言い知れぬ巨大な力の出現を予期させます。

□後場の天狗は天狗等の登場楽、大べしで豪壮にゆったりと登場します。
雲に乗った様子だともいいます。国々の天狗を引き連れてとありますが大勢の天狗は観客の想像に任させます。
 天狗は牛若に源氏の統率者としての心得を漢の張良の説法を引いて語ります。
 兵法の伝授は「舞働」です。子方の長刀を取って舞います。
舞い終わって長刀を牛若に返すとき兵法を伝授するという気持ちで返すといわれています。

□能にはいろいろの天狗が登場します。
仏法や人に仇をなす天狗が多い中で本曲の天狗は人を助ける豪壮、強大な力を持った天狗です。
 いずれの天狗も神通力を持っています。天狗の仮の姿は山伏です。
修験者、山伏の道場は峻険な山です。道場の山には天狗を彫った碑が立っているのを見かけます。
修験者達は過酷な行の末、天狗のよう神通力を得たいと願ったのでしょうか。
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01.14
Tue
東国の人買い人が日向の国で桜子という少年を買い取り、少年の頼みで代金と手紙を少年の母に届けます。
手紙には、このところの母の窮乏を見るに堪えず、我が身を売り、東へ下ると書いてあります。
母は驚き悲しみ狂気となり、桜子のあとを追い故郷をさまよい出でます。
時は移り、桜子は常陸国磯辺寺の稚児に入っています。
折しも見頃の桜狩りに師僧に伴われて、桜川に行きます。
桜子の母は三年の間、桜子を求めてさまよい歩いた末、子の名のついた桜川にやってきます。
すくい網を肩に、散りはじめた花を惜しみ、桜は木華開耶姫のご神木でもあり、我が子はその氏子で名も桜子だと謡い、桜川に散り浮く花を、いとおしみ掬い上げ舞い狂います。
僧は狂女が桜子の母であることを知り、母子を引き合わせます。親子は名乗り合い、相伴って故郷へ帰り、ともに仏門に入ります。

□シテは狂女の定番、狂笹(くるいささ)に代えて掬い網を肩に登場します。
掬い網は魚を獲る道具ですが、これで水面の桜の花びらを掬おうというのです。
カケリ以下の狂乱をこの網で舞い、「次第」で網に代えて扇を持ち、
狂乱がおさまった態で囃子だけの「イロヘ」で閑かに舞台を一巡し、
春の情景の「クセ」を舞います。
クセの終わりでシテの心情は昂揚し、再び網を持ち狂乱の「網ノ段」を舞います。
その場面にふさわしい、網と扇を使い分け、華やかな舞台を作ります。

□古今、新古今、後撰集、古今六帖などの歌がふんだんに取り入れられているのも
この曲の魅力の一つです。
また、他の狂女の能のように故事や仏説を云々するところがなく、
子を想う親の情愛が直接滲みてくる曲です。

□この能は、所の里人が登場し狂女を呼び出すワキツレがいるのが本来のようです。
ワキが「この物狂いの事にてありげに候」とあるのがこれで説明がつきます。
現在では割愛されています。

□桜川は筑波山の北、栃木県の県境から流れ出て河口、土浦、霞ヶ浦に注ぐ
全長百キロに満たない川です。
筑波山の北麓、真壁町から更に北の岩瀬町あたりまで山桜が多く
自然交配の品種も多様で、これらを桜川沿いに植え吉野に並ぶ名所として
都までも聞こえたといいます。
本曲にも「未だ見もせぬ常陸の国に名も桜川ありと聞きて」として紀貫之の歌が
謡われます。
岩瀬町の桜川公園を中心に「磯部の百色桜」と呼ぶ花の形や色、匂い、
さまざまの山桜が保存され、そのうち十一種が国の天然記念物に指定されているそうです。
磯辺寺は稲村神社の神宮寺でした。
神宮寺とは、神仏混淆で神社の附属としておかれた寺です。
明治政府の神仏分離政策で廃寺となったものも多く、磯辺寺もこの時廃寺になったといいます。
稲村神社にその跡があるそうです。
稲村神社囲辺は現在も桜の名所で近くの桜川べりは桜子師弟の花見の場所に設定するのに
格好の所です。このあたりは昔は真壁郡でした。
現在は桜川市。最寄り駅は水戸線羽黒駅又は岩瀬駅。

□能の狂女は、我が子や恋人を求めて旅をします。
狂女ならずとも能には旅の場面がとても多いです。
この「桜川」の狂女、「安宅」の義経主従は、長旅の双璧で他にダントツです。
義経主従は京都から平泉まで、桜子の母は筑紫国日向から桜川まで。
桜子の母の故郷は、筑紫国日向と設定されていますが筑紫に日向という所があったのでしょうか。
単に九州の代名詞でしょうか。
「我が故郷の御神をば木花開耶姫」とあり、神の国、日向国としてもいいかもしれません。
筑紫ならば義経主従とほぼ同じ道程、日向ならば断然桜子の母に軍配が上がります。
千キロを超す遙かな旅です。
□桜は菊とともに、わが国の国花です。
平安朝以来、花と言えば桜をさす程愛されてきました。
花だけではなく、栽培品種ですが「サクランボ」はその姿、味共に愛好されています。
桜が属するバラ科には、リンゴ、梨、桃、苺、梅、カリンなど、果物の種の多い科です。
01.14
Tue

鉢木(はちのき)

カテゴリ:鉢木
僧の姿で諸国をまわり民情を視察していた鎌倉幕府の執権、最明寺時頼は、鎌倉へ帰る途中
上野国(群馬県)佐野で大雪にあい、あたりの民家に宿を頼みます。
主は一族に領地を奪われ零落した貧苦の武士、佐野源佐衛門常世。
一旦は宿を断るが、僧にも宿を貸せない身の上を嘆く妻を見て僧を呼び返します。
当時は、一僧一宿の功力、僧に一夜の宿を貸すことは、功徳を積むことであり、
後世を助けることだと信じられていました。
常世は、粟などと言うものは、歌や詩に作ったものを読んだものだが、今ではこの粗末な粟飯で
身命をついでいると僧に粟飯をすすめ、秘蔵の鉢の木を切り焚いてもてなします。
僧の求めに身分を明かした常世は落ちぶれてはいるが鎌倉に変事があれば一番に馳せ参じると、
幕府への忠誠心、武士の気骨を見せます。
一夜のもてなしに感じた僧は幕府への訴訟をすすめ鎌倉へ上ったならば必ず力になりましょうと言い残し
共に名残を惜しみます。
鎌倉に帰った時頼は常世の忠誠心を試すため諸国の軍勢を召集します。
痩馬に破れ具足、錆び長刀で馳せ参じた常世を時頼は賞揚し、本領を安堵、鉢の木の返報にと
切りくべた梅、桜、松に因み、梅田、桜井、松井田の三箇の庄を与えます。
演劇性の濃い作品群の中でも、この曲は見せ場の多い作品です。
「あ々降ったる雪かな」と大雪の中にたたずみ零落の身の嘆息、秘蔵の鉢の木を切る「薪の段」の鉢の木への愛着、
シテの心象風景描写は一級品です。
現在では遠い武士道、武士の気骨、痩馬にむち打ち鎌倉へ急ぐシテ、本領安堵に喜ぶシテの演出は大胆です。
見せ所ですが芝居に落ちる危険もあるといわれています。
□能は、シテ中心主義と言われます。
この曲のワキは、鎌倉幕府の最高権力者、最明寺時頼です。
自ずと威厳がそなわります。しばしばシテとワキの位取りが逆転します。
終曲近くでワキはシテに本領安堵の御教書を投げ与えます。
身分の格差をあらわしています。今は遠い武士道はさりながら、人情豊かな常世が、
それ故に時の権力者に見いだされる“アメリカン・ドリーム”が私達現代人には分かりやすいかもしれません。
□時頼が回国巡歴したことは鎌倉幕府の正史、吾妻鏡には出てこないので史実であるかは疑わしいといいます。
鎌倉時代百五十数年の事績をつづった歴史物語増鏡に時頼が回国したという物語があるそうです。
本曲の内容とは違う話のようです。
時頼は1263年36才の若さで生涯を閉じました。
時頼の時に北條氏の独裁制が確立したといわれています。波乱の生涯だったのでしょう。
01.14
Tue
異様な雰囲気の能です。神道の覡(みこ)が、仏教の地獄に落ちる、 神仏習合がこの能の奇異さを倍加しています。
まずシテの扮装に驚かされます。直面(ひためん。面をかけない素顔。若い男の面をかけることもある)に白髪、しかも長髪です。
この男は地獄から生還し、その苦しみから白髪になったのです。
彼は、伊勢国、二見浦の覡でした。神に暇乞いをせず回国の旅に出たため神の怒にふれ急死し、三日後に生き返りました。
その間、地獄の苦しみを受けたのです。
その後、歌占(和歌を短冊に書いて引かせ、歌意によって占う)を なりわいにする神子となって回国をつづけ加賀の国(石川県)白山の麓にやってきます。
所の里人が、よく当たるという噂を聞き、父に生き別れたという子供を連れて占ってもらいに来ます。
里人には病気の父がいます。占には「北は黄に南は青く東、白。 西、紅に染色の山。」とありました。
歌は仏説にいう須弥山(しゅみせん)のようすをうたったものでした。
神子は須弥山について詳しく語り、この山は蘇命路ともいい、これは命の蘇る路と読め、父はすでに回復の道をたどっていると占います。
次に子供の占には「鶯の卵の中のほとどきず。己が父に似て己が父に似ず」と ありました。
鶯は、「おう」とも読み、これはすでに父に会っている占だと判じます。
然う斯うしているうちに神子は、この子供が我が子であることに気づき、 互いに名乗り合い、再会を喜びます。
里人は噂に聞いた神子の「地獄の曲舞」を所望します。
神子はこれを舞うと神がついて狂乱になるが、帰国の名残にと舞います。
この曲舞は、神子が神罰によって地獄に落ちた実際の体験を作ったものでした。
酸鼻を極めた凄惨な地獄の有様を再現していると俄かに神がつき、責め苦しめます。
白髪は逆立ち、玉の汗を流し、天に向かって叫び、地に倒れ伏し、舞い狂い、必死に神にお詫びを申し上げます。
やがて神はその身から離れ、神子は狂乱から覚めます。
神に許され、親子は連れだって故郷の伊勢の国へ帰っていきました。

怪異な世界を垣間見たい、体験したいという願望は誰にしもあります。
この能は、怪異の世界「地獄廻り」を眼目にしています。
シテ渡会家次も異様な雰囲気です。
家次は冥界と人との仲介者、覡です。
彼は案内、断りなしに出奔します。
親子再会の能は四番目、狂女物などに類曲が多く、親が子を尋ね、親の子に対する情愛を主題にしています。
この能は子が親を訪ねます。
他の能には例がありません。親子の情愛もごくあっさりと扱い人間臭を排しています。

和歌で吉凶を占う歌占は、中世に広く行われ「平治物語」「故事談」に見え又、伊勢の歌占は「甲子夜話」「伊勢参宮名所図絵」に見えるといいます。
この能の「地獄の曲舞」は「太平記、結城道随地獄事」「遁世逑懐抄」をもとに作られたようです。
曲舞は、鎌倉、室町時代に流行した歌舞で、観阿弥が始めて能に取り入れました。
曲舞は次第に始まり次第に終わるといい、この能では「月の夕べの浮雲は後の世の迷ひなるべし」の次第がクセの終わりに繰り返されます。
本曲の外数曲に曲舞が取り入れられています。
この様式は現在でも余音を残すための作文法としても用いられています。
当時の芸能の全貌をうかがい知ることは出来ませんが、曲舞の一部が能の中に残されていることは、観阿弥の手柄といわなければならないでしょう。
本曲もクセは「三難クセ」の一つとして知られています。

我々現代人には縁遠いものになりましたが、須弥山の様子が祥しく語られます。
難解な語句を連ね、かなりの長丁場であり、演者の苦労がしのばれるところですが、当時の人達には
厚い信仰の対象であり、理解も容易であったろうし、法悦に浸ったかも知れません。

須弥山は、妙高山ともいい、仏教の世界観です。
世界の中心に聳え立つ山で、海中にあり、海上、海中、それぞれ八万由旬、 都合十六万由旬(一由旬は三~四キロ)の高山で、頂には帝釈天の居城、喜見城があり、中腹には四方を守る四天王の居住地があります。
九山四海に囲まれ、その海中に四洲があり、その一つに我々人間が住む苦界、南膽部洲があります。
日、月、星の天体は須弥山の囲りを回っているとします。

この能の「クセ」には、今の我々には理解し難く、納得のいかない理不尽な記述があります。
「天仙尚し死苦の身なり況んや下劣、貧賎の報に於いてをや。などかその罪軽輕からん」
貧賎の者は貧賎故に仏戒を犯しその報いを受けるのは当然のことなのだ、というのです。
戒律の前には貧賎という弱者にも容赦はないのです。
重圧に苦しむ貧賎の叫びが聞こえてきます。
「阿漕」「善知鳥」のシテも、貧しさ故に殺生戒を犯し地獄に落ちました。

この能の地獄描写は生々しく、恵心僧都源信が著した「往生要集」をもとに描いたという聖衆来迎寺の地獄絵、
北野天神由縁起の地獄絵はよく知られていますが、 凄惨なこれらの絵を彷彿とさせます。

斬鎚地獄―臼に入れられ体を切り刻まれる。日々に殺され生かされを繰り返される。
        剣樹地獄―樹木がすべて剣で、剣の生えた山があり、この木に登らされると体の節々が裂け、
       剣の山に登らされると体がばらばらになる。
 石割地獄―両方の崖から大石が落ちてきて罪人を打ち砕く
 火盆地獄―頭に火焔を載せられる。体の節々から火が吹き出る。
 紅蓮地獄―極寒のため皮膚が裂けて血まみれとなり蓮の花のようになる。

これらの地獄を能の表現の許容範囲ぎりぎりに、活写します。 自分流に想定して、観能するのも一興でしょう。

この能のシテのように氏名を名乗るのは相応の身分の人です。
度会氏は伊勢の神官で、代々著名な神道家が輩出しました。 中でも鎌倉末期の度会家行の神学は、南朝を開いた
後醍醐天皇の建武新政運動の精神的な支えとなったといいます。
もともと度会は(渡会とも)古くから伊勢国の郡名で伊勢神宮の神郡(かみごおり)でした。伊勢神宮を、わたらいの斎宮、
わたらいの宮とも呼んだといいます。

この能の舞台「白山」は石川、岐阜両県にまたがる高山で富士、立山と日本三霊山の一つです。
伝説の山としても知られています。高山植物の名所で、種類も多く、ハクサンチドリ、ハクサンコザクラなど、この山の名を
冠した高山植物は少なくありません。
 昔はこの山で採取した、マイヅル草などを乾燥させて、白山の霊草、霊薬だと山伏達が売り歩いたといいます。
01.14
Tue

藤(ふじ)

カテゴリ:
※あらすじ 
都の僧が善光寺に詣でる途次、越中の国(富山県)氷見の里、多胡の浦に立ち寄ります。
折しも藤の花の盛りでした。
中にも一際見事な松にまとう藤があります。
僧は古歌を思い出します。「常磐なる松の名たてに、あやなくも、かかれる藤の
咲きて散るかな」と口ずさみます。
向こうから呼び掛ける女があります。この多胡の浦は藤花の名所です。
古人が藤花を讃えて多くの歌を詠み伝えているのに「松の名たてに」の歌を
口ずさんで藤をいやしく云うのですかと、とがめます。
僧は不審に思い、女の身の上をたずねます。
女はこの藤の精であると名乗り、松の陰に消え失せます。
所の人が盛りの藤を見に来ます。僧は、所の人に由緒ありげなこの藤のことを
たずねます。所の人は、昔、越中の守であった大伴の家持がこの藤を賞で
花のもとで酒宴を催し、歌を詠み交わしたことなどを話します。
やがて夜も更け浮かれ鳥の鳴き交わす中、僧は経を読み旅寝の床につきます。
古歌を口遊みながら藤の精がふたたび現れます。
妙法華経のお恵みによって成仏することができました。
夜もすがら、賛仏の歌舞をするために現れたのだといい、多胡の浦の美しい四季の
移り変わりや、汀の松にかかる藤の花の風趣を歌い舞います。
やがて朝日山に朝の光が射し、藤の精は松の梢に消えます。

□ワキが古歌を思い出し、口ずさんでいると、シテが現れ異をとなえる
又はワキとシテが草木や花の風流問答をするという曲は、本曲「藤」の他
西行桜、黒染桜、六浦、杜若、芭蕉など多くの曲があります。
主題への導入手法でしょが古人の草木、花に対するなみなみならぬ愛着が
思われます。
これらの曲はいずれもシテが草木の精であり、現代の日本人にとっては
童話的な素材ですが、単に擬人化だけではなく「草木国土悉皆成仏」の
仏教思想が附加されています。
杜若や、芭蕉のように在原の業平や、仏教の哲理を説く、といった、いわゆる
本説の確呼とした名曲といわれる曲もありますが、本曲「藤」は花そのものを
主題にしています。
自然の景観や、花の詩歌を媒体にして一曲にまとめた佳曲です。
能は人の心の深層を描く作品が少なくありません。
観能のあとは疲れます。和泉式部を主人公にして王朝の「みやび」を描いた
名曲「東北」のように、花の優美さを主題にした本曲「藤」も、観る人に心の負担を
かけず、美の世界だけに耽溺できるでしょう。能の持つ又一つの側面でもあります。

□この能の前場は、二つの歌を軸に構成されています。
「常磐なる松の名たてにあやなくも、かかれる藤の咲きて散るかな。
(歌意、松の緑の美しさを引き立てるために咲いて散っていくことだ)」は
内親王の髪上げのときの屏風絵に題した紀貫之の歌だそうで、貫之集、和漢朗詠集に
採られています。
「多胡の浦、底さえにほう藤波を、かざして行かん見ぬ人のため」は
万葉集巻第十九に、「布勢の水海(みずうみ)に遊覧して多?(たこ)の湾に
船泊りして藤の花を望み見、おのおの懐(おもい)を述べて作りし四首」と
詞書きして大伴家持、供の人の歌、四首が見え、その中の一首だそうです。
家持の歌でないのが興味を引きます。
その他、古今和歌集、和漢朗詠集、新葉和歌集、金葉集、草庵集などの
詩歌が引用されています。
これらを繙くのも観能前の楽しみでもあります。

□多古の浦は、冨山湾の懐、氷見市の漁湾一帯だそうです。
湾を隔てて、立山連峰が望まれる景勝の地です。どこか駿河(静岡県)の
田子の浦に似た景観です。
続後拾遺和歌集巻第三夏歌にも藤原房實の「田子の浦や汀の藤のさきしより、
うつろう波ぞ色に出でける」がありますが古人もどちらがどうか迷ったかもしれません。
本曲にうたわれる英遠(あを)は、北へ3キロ程、阿尾と、名だけをとどめています。
奈呉浦は十キロ程南に下った新湊市にあり、伏木冨山港に隣接しています。
高岡市など工業地帯の港であり、眺めに続く景色かな、とうたわれた眺めは
望むべくもありません。
□多古の浦一帯は有磯海とよばれる歌枕です。
奥の細道で、芭蕉は「一夜の宿貸すものあるまじ、といひおどされて」氷見行きを断念
加賀に向かい「わせの香や分入る右は有磯海」を残しています。
隨行記によると、八月末の暑気はなはだしく持病もおこったようです。
広大な稲田の向こうの歌枕への思慕を残して加賀に向かったといいます。
朝日山は、今は朝日山公園になっており、近くに氷見宗忠が籠もって
死者の相貌を写しとって痩男、痩女の面を創出したと伝えられる上日寺の朝日堂が
今も残っています。
氷見の人達にはあまり知られていないようで、この地を訪れた折、寺の名前を
思い出せず、市役所の観光課に問い合わせても分からず、やっと探し当てた
記憶があります。
土地の人には、冬の寒ブリ、藤の咲く五月のホタルイカ、松葉ガニが自慢のようです。
かく云う当人も、それらを目当てにたずねました
01.14
Tue
□あらすじ 

中納言藤原成範は、無類の桜好きでした。屋敷の四方に吉野の桜を移し植え
人々はこの町を樋口町桜町と呼び、中納言を桜町中納言とあだ名しました。
その中に殊に中納言が愛した桜がありました。
柵で囲い花守をつけました。
中納言は七日間ほどの短い桜の花の命を惜しみ、その命を延ばそうと
生類の命を司る神、泰山府君の祭をします。
天上より天女が降り立ち、桜の花のあまりの美しさに一枝を手折り、
羽衣の袖に隠し、昇天して行きます。
祭の場に泰山府君が現れ、天女を天上から呼び下し、
盗んだ花の枝をもとの木に戻させ、大いに神威をを見せ、中納言の風雅な心に感じ
桜の花の命を二十一日間に延べ、昇天していきます。

□この能は金剛流にだけある能です。
メルヘンチックで、心の負担のない、能になじみの薄い人でも楽しめる
分かり易い能です。
天女が桜の枝を盗み羽衣の袖に隠す型や、泰山府君が、桜が散らないように
護る型など珍しい型があります。
よく上演された時期もあったのでしょうか、狂言「二人袴」の小舞に
この能の一節「あれれ一枝を天の羽袖に手折りて」のくだりが取り入れられています。

□この能の前場のシテ、天女と後場の天女は同じ天女です。
同じ天女を前場はシテ後場はツレとして別の役者が演じます。
上演の度に不自然さを指摘されました。
シテ至上主義の考え方に基づく演出であるといわれます。
金剛流の長命家に伝わったとされる「竹生島」女体の小書では、
前場の老翁はツレ、女がシテ、後場では龍神はツレ弁財天がシテとなり
常とは逆になります。
もっとも後シテ弁財天には「天女ノ舞」に代えて「楽」を舞せますが、
それでも役柄の比重から見れば「泰山府君」の場合の逆のケースといえましょう。
能は面をかけ、ものものしい装束をまとい、演者が全く別の人格に変身
又は没人格となるはずです。
演ずる方も観る方も、舞台上のキャラクターに生の演者を重ね合わせてみる、
他の芸能と同じように個人崇拝、権威主義から逃れることができないのでしょう。

□桜町中納言、藤原成範は、藤原信西の三男で、
高倉天皇の局、小督の父であるといいます。能「小督」に作られています。
01.14
Tue
※あらすじ 
□九州松浦の某は召し使っていた関清次が他郷の者と口論、
これを殺害してしまったので牢に入れていました。
大剛の者であった清治は牢を破り逃亡してしまいます。
松浦は妻を呼び清治の居場所を糺すが妻は自白しません。
松浦は清治の居場所がわかるまでと身代わりに清治の妻を入牢させ
牢に鼓を掛け一時(ひととき)毎に鼓を打たせ見張りをきびしくします。
清治の妻は、入牢の苦しさと夫への思慕から次第に狂気になっていきます。
松浦は女の夫を想うやさしさに心を打たれ牢から出そうとします。
女は夫の身替わりとして籠もったこの牢こそ夫の形見よと出ようとしません。
牢に掛けてある鼓を見て故事に思いを寄せ、いよいよ狂気を募らせ
皷を打ち鳴らし舞い狂います。
松浦はこの有様を見て哀れに思い、夫婦ともに赦します。
女は狂気から醒め夫の居場所を明かし、夫を尋ね帰り故郷松浦で
二世の縁を結びます。

※物語の推移を追って
□まず後見が作り物を運び込みます。牢です。
次いで間(アイ)の従者をしたがえてワキ、松浦の某(ナニガシ)が登場します。
ワキの厳めしい出立ちは身分のある大名であることを示しています。
ワキに命じられてアイが牢に鼓をかけます。
シテは常にこの牢と鼓に気を掛け演じます。

□アイに呼び出されてシテ、関清次の妻が登場します。
夫の不始末にうち萎れています。色無し(赤い色のない)の唐織りは既婚を意味します。
牢に入ったシテは、夫への思慕を口説きます。
これを聞いたアイは、ワキ松浦に女が狂気したと報告します。

□ワキは女を許すといい、牢の戸を開けます。
シテは唐織りの右肩を脱ぎます。狂気を意味します。牢を出てシテは夫への
思慕を表すイロヘを舞い、止めに皷を二つ打ち、夫への想を述べます。
いよいよ狂気を募らせたシテは更に鼓を打ち、舞い狂います。
狂い終えたシテは再び牢に入り自ら扉をピシャリと閉め
「この牢出する事あらじ」と決意を示します。

□ワキは、諏訪八幡に誓って夫婦共に許すといいます。
やがて女は夫をたずね探して故郷へ帰り幾久しく二世の契りを結んだと、とめます。
シテは幕の方を向き、拍子を二つ踏みます。
能が終わった事を示します。

※その外いろいろ
□この能は世阿弥の作といいます。世阿弥の残した芸論の中の「三道」に
能にふさわしい素材は、歌や舞、風雅の道にたずさわる名高い人がよい、というような
意味のことが記されているそうです。
能の主人公には多くそれなりの人が登場しますが、この能のように
名もない市井の人が登場する作品も少なくありません。

□この能は前、後場のない「単式能」で、又物語が現在進行形の「現在能」です。
詞章も平易で分かり易く、だれるところのない、よくまとまった能です。
小品だからこその強みでしょうか。
「我が身の助かり候うをこそ喜ぶ」という身勝手な乱暴者の夫を慕う女の
純愛に焦点を紋っています。

□この能で舞われる「舞」は「イロヘ」といいます。
心を内に籠める所作でしょう。
「彩色」とも書き、曲により意味合いに多少の相違があります。
単なる「いろどり」の場合もあるようです。「カケリ」を舞う場合もあり
この時は狂乱を意味し、狂乱の詞章があります。
□この能の小道具「皷」は他の能にもしばしば登場します。
「皷」をめぐって殺されたり身を投げたり、故人を思ったりという具合です。
昔の人は皷は単に音楽や時刻を知らせる道具ではなく、何か特別な想いが
あったのかもしれません。
01.14
Tue
□西暦二百年前後、三国時代の中国。人生に疑いを持った青年盧生は、
楚の国羊飛山に住む高僧に教えを請うため、故郷蜀の国を後に旅に出ます。
途中邯鄲の里に着き、ところの宿に泊まります。
 盧生は宿の女主人に、人生に悩みながらも仏道に帰依することもなく、
ただ無為に過ごしている自分の境遇を語ります。
すると女主人は、以前仙術を遺う旅の者から宿代のかたにもらったという枕を見せ
これから粟の飯をこしらえるのでその間に一眠りしてはどうか、と勧めます。
これを用いて一眠りすると、すこしの間夢を見、来し方行く末の悟りを
開くことができる、と言うのです。
盧生はすすめられるままに枕を借り静かに眠りにつきます。
    突然、楚の国の王位を盧生に譲るという勅諚を持って勅使が現れ、
盧生を王宮に案内します。
王座についた盧生の前に、延臣、舞童が居並び、宮廷での栄華の生活が始まります。
雲龍閣や阿房殿の壮大さは言いようもなく、その庭には金銀の砂が敷かれ
四方の玉をちりばめられた門の扉から出入りする人々は、輝くばかりに着飾っています。
東の方には三十丈あまりの銀の山が築かれ、西の方にも金の山が築かれています。
捧げものの幾千幾万荷の宝を運ぶ諸候の列はひきもきならず続きます。
 またたく間に五十年が過ぎました。臣下の捧げる千年の寿命を保つと
言う仙薬の酒を飲み、可憐な舞童の舞いに興をおぼえ、自身も舞楽を舞い始めます。
 宴はさらに続きます。喜びの歌は満ち満ち、夜かと思えば昼になり、
夏かと思えば冬になり、春夏秋冬の花が一時に咲くように思われ、
またたく間に時が過ぎていきます。
突然、「粟の飯ができました。起きて下さい」との宿の女主人の声に盧生は目覚めます。
 五十年の栄華は、粟の飯を炊く短い間の夢だったのです。
 もとの安宿の寝台の上に呆然と起きあがった盧生は、夢の中の栄華を
つくづく思い起こし、どんなに栄華を極めた人生も、終わってみればただの
夢のようなものと悟り、この枕こそ探し求めていた人生の師であると、
望みを叶えて故郷へ帰っていったのでした。

 この能は、旅宿という一場に、そこで盧生が見た夢の場をさしはさみ、
二分し、三場とするという変わった構成になっています。
それだけに能独特の場面転換のあざやかさが引き立つ作品といえるでしょう
眠りにつく盧生、勅使の出現…現実と夢とをダブらせ、次第に夢の中へ
入っていくところ。  
そして終曲の、宿の女主人が寝台を叩いて盧生を起こし、再び現実に戻るところです。
また、この二つの場面転換とは意味は違いますが、寝台を下り、
王宮に赴く盧生が、再びもとの寝台に上り掛絡を外すと、そこはたちまち
王座になり、宮殿となります。これも見事な手法だと思います。
この曲は、見せ場の多い作品です。
その第一は、盧生が舞う「楽」でしょう。狭い寝台を広々とした宮殿に
見立てて大きく舞います。この楽の途中に「空下り」という型がみられます。
足を踏み外し、思わず柱にすがりつく、という動作で、観客は思わず
「ハッ」とさせられます。
これは夢が覚めかけたことを表したものと言われています。
 次は「飛び寝」と言われる型で、盧生が夢から覚めるところです。
橋掛幕際に出たシテは、一直線に台まで走り込み、左袖を巻き上げ、
飛んで横臥します。皇帝から、ただの青年に戻る落差を、この激しい演出で
表現しています。昔の名人の芸談を読んでいたら、この飛び寝の時に、
足が上がらないように台の板を打つように飛ぶ、と書いてありました。
意味が解らないままでしたが、前回この舞台を見た時に、台に落ちた反動で
足が上にはねあがらないように、との工夫であるらしいことに気付きました。
能の演者が、観客にとってはごく普通の、当たり前にしか思われない
細かいところまで気を配って演じていることが思われ、プロとはいえ
感心したことです。
こうした台本以外の心配りは、演者の曲に対する深い理解と、持って生まれた
センスに大きく左右されるのだと思います。
そして象徴劇と言われる能を考える時、ドラマとなり得るか否かは、
まさにこのところにあるのだと思います。
これに加えて観客一人一人の感性が、その能をより壮大なドラマにしていくのでしょう。

 この能に使用されている「かんたん男」は、この曲専用の面で、
額にシワを寄せた風貌はいかにも悩んでいる青年の顔です。
いつの時代からかこの面は、その上品な面立ちのせいか、「高砂」などの
若い男神にも使われるようになりました。
 盧生が生きた時代は、漢王朝が滅び、魏、呉、濁の三国が覇を争った、
二世紀末から三世紀後半の、百年足らずの間です。三国志の描く、関羽、
張飛などの豪傑、諸葛孔明などの智将が活躍した時代です。
まれに見る激動の時代でした。現代もまた、もう一つの乱世と言えると思います。
若者の悩みも又変わることはないように思われます。
01.14
Tue
□東国(関東)の僧が都に上り、早春の東北院をたずねます。
今を盛と咲く梅に見入っていた僧は、これ程の梅に名のないことはあるまいと
門前の人に梅の名をたずねます。門前の人は「和泉式部」という梅ですと教えます。
どこからともなく里の女が呼びかけ現れます。昔この東北院に、
上東門院(中宮藤原彰子)が住んでいた時、和泉式部はあの方丈を
休み所(休息する所)としていました。
軒端近くに梅を植え「軒端の梅」と名付け愛したと語り、
妙法蓮華の花の縁に法華経をも読誦して下さるならばゆきずりの者への
功徳ともなるでしょう、と読経をすすめ、この梅こそ「軒端の梅」であるといい
年毎に主を慕うかのように美しく咲くのです。
私こそこの梅の主ですと名乗り花の陰に隠れて見えなくなります。

僧達は月下の梅のもとで夜通し法華経を読みます。
和泉式部が昔の美しい姿で現れ、昔、御堂の関白(藤原道長)が
この東北院の門前を通りながらこの経の中の譬喩品を読んだのを聞いて
「門の外法の車の音聞けば我も火宅を出ぬべきかな」の歌をよんだ事を
思い出すと語り、今まで詠んできた歌の徳によって
火宅(煩悩の苦しみを火事の家の中に例えた)を出て
悟りを得て成仏し、歌舞の菩薩となって今でもこの寺に住んでいると話します。
式部はさらに和歌の徳を語り東北院が王城の鬼門を護る霊地であることや
寺のたたずまい、お参りする人々のにぎわいの様子を語ります。
和泉式部は舞を舞います。昔、色香に染んだ生活を思い出し、
涙を流しますが、それを人に見せるのも恥ずかしいと方丈の中に
はいるかと見て僧の夢は覚めます。

□能のワキは大半が僧です。シテの大半が「あの世の人」であり、
  仮にこの世に現れるのですから、ワキが僧であるのが一番という訳です。
  旅の修行僧には、上り僧、下り僧、つまり地方から都に上る僧、都から地方へ下る僧があり、
  下り僧が格が上です。装束の模様も違います。名前を名乗る僧が一番格が上で、袴を着用します。
  「東北」のワキは下の格ですので袴をつけない着流しで紺の無地の「ノシメ」を着ます。
 僧の象徴の頭巾は角帽子といい、付け方や模様は僧の格によって違います。
  シテ里女はあたりに住む、当たり前の女という設定ですが、実は仮の姿です。
  この里女の装束も、実の人物の格、年齢によって、色・柄・模様が違います。
  「東北」の里女は若い女を表す色入り(赤い色)段模様の唐織を着ます。
  段模様は、高貴な女性を表します。後シテは、上着に紫の長絹(ちょうけん)、
  緋の袴をつけます。紫は高貴の色です。緋の袴は宮廷の女性を表します。
  面は若い女性の「孫次郎」を使います。
  清楚な女性を強調するため「小面」を使うこともあります。
 
  □まずワキが登場し名乗ります。ついでワキツレ(従僧)と向き合い旅行の様子を述べる
  「道行」を謡います。東北院に着いた一行は、門前に住む人(アイ)から
  梅の謂を尋ねます。門前の人は「和泉式部」という名だとだけ答えて「狂言座」に退きます。
  アイは中入(前場の終わり)の再登場までここで待ちます。
  「狂言座」はシテの「常座(名乗り座とも言う)」ワキの「ワキ座」のように
  アイ狂言の居場所です。
  ワキとアイの問答を聞き咎めるようにシテが「呼びかけ」で登場します。
  シテとワキは舞台正面の角柱を梅に見立てて問答します。地謡になり簡単な型をします。
 能の定型で雰囲気を作る型で、さして意味はありません。
  ロンギ(問答)になりシテはそれとなく和泉式部であることを匂わせます。
  ロンギはシテとワキとの問答ですがワキのセリフは地謡が謡います。
  「休らうと見えしまゝに我こそ梅の主」と左手をワキに向けて和泉式部であると示し
  「木隠れて見えざりき」と舞台の端でクルリと廻り両手を拡げて下す型をします。
  木の陰で消え失せたことを示す型です。
  アイが再登場し東北院のことや和泉式部、梅の謂について語り僧達に
  女は和泉式部であろうからと読経をすすめて退きます。僧達は読経を始めます。
  これを侍謡といい、読経の様子を謡います。「侍謡」とはシテの出現を待つという意味です。
  後シテは、ありし日の和泉式部の姿で現れ僧達の読経に感謝し、かつて藤原道長が
  譬喩品を読む声に感動して「門の外…」の歌を詠んだといいます。
  ワキとの問答となり、この世で詠んだ歌の功徳により「火宅」を出て歌舞の菩薩となったと述べます。
  地謡になり「三つの車(火宅を出るための車)に法の道」で車に乗り得たことを示す
  足拍子を踏み「成等正覚を得るぞ有難き」と左の袖を返してワキに出、成仏できたことを示し、
  すぐにクリ、サシとなりクセと続きますが、これは曲舞(クセマイ)の型式を採り入れたものです。
  クリ、サシでは成佛の桟縁となったとする和歌の功徳を「古今集、真名序」を引いて語ります。
  「そもそも和歌は仏が直に説いた経文と同じであって、天地を動かし鬼神をも感動せしめるものである。
  又、死後もその名声が残るのは和歌の作者だけである」が大意。

  この「クリ、サシ」は次のクセの序文にあたります。
  この「クリ、サシ」では和歌の徳を述べ「クセ」では東北院のたたずまいと
  この寺の仏法繁盛の様子が語られ一見無関連のように見えますが互いに響き合っているのです。
  この「クリ」でシテは舞台の真中へ出、舞い始め、終曲まで舞い続けます。
  舞台の中央に出たシテは、扇を開き扇を下から上へすり上げて大きく撥ねるユウケンという型をします。
  心の拡がりを示す型です。舞は基本型、定式の型を連ねますが、時折、川の流れや池水を
  指し示す情景描写の型など織りまぜて舞います。
  「クセ」は一曲の中心であり、見どころ聞き所です。このクセの大意は「
  この東北院は皇居の鬼門(東北の方角、ここから悪魔が侵入する)を守る霊地である。
 近くを流れる賀茂川、その水上の白川のすがすがしい波や風の音は悟りの縁をもっている。
  美しく着飾ってこの寺の門を出入りする人の列はさすがに花の都である。
  この寺に縁のある人もたまたま訪れた人もますます増え、この人達は昼も夜も朝も夕も
勤行を怠らない信心深い人達である。
  この信心深い人達は、暑さの中に秋を感じさせる風や、松に吹く風にも悟りの境地を求める縁を感じ、
  池の面に映る月の光を見て仏が下界に下って衆生を教化する姿を見るのだ」
以上がクセの大意です。
「クセ」を舞い上げて「序ノ舞」を舞います。
「序ノ舞」は能の舞事の中で最もテンポの緩い舞です。
優美な女性、老体、草木などの精の舞などに用いられ、若い男は舞いません。
例外があり「在原業平」が舞う曲が二曲あります。
「業平」は女性相当の優美な男性ということでしょう。
序ノ舞を舞い上げれば終曲の「キリ」です。キリでは情景描写の型を連ねて舞い、
「見し夢は覚めにけり」で終曲となります。「見し夢」とは、和泉式部の出現は
実は僧の夢であったということです。このところでシテは幕の方を向き、足拍子を二ツ踏みます。
終曲を表し、留拍子といいます。役者全部が幕に入り、能は終わりです。
したがって、幕にはいる時も、その役に応じて歩みは違うのです。
このキリでシテは「げにや色に染み香にめでし昔を…思い出ずれば」と述べ、
昔、色恋に執着した片鱗を見せます。この部分を梅と鶯の謂についてのシテと地謡の掛け合いにして
「色」を全く出さない流儀もあります。

□和泉式部は恋多き歌人として知られていますが、本曲は清らかな気品のある「梅」を
和泉式部によせて清楚な品位の高い幽玄至上の作品に作っています。
このような趣の曲を「本三番目」といい、本曲はその代表作の一つです。
舞う側にとっては、技術的には難しいところはありませんが、「品位」を作り出すことは至難です。
昔、若い人が長老に「何を舞いたいか」と聞かれ「東北でも」と答え
「東北でも、とは何だ!」と怒鳴られたという逸話があります。

  □応仁記に「一条の道場東北院。―中略―和泉式部が軒端の梅あり」とあり、
又、蔭涼軒日録、文正元年二月の頃に端心院より公方様に(足利我満)和泉式部という梅花が贈られた、
とあり更に「東北院は和泉式部が旧跡なり。梅あり禁裏より召さる。よって一首を献ず。
勅なればいともかしこき鶯の、宿はと問わばいかが答えん
(勅命ですから、恐れ多く仕方がありません。しかし鶯が、私の宿はどうなったのですか、
と聞いたらどう答えましょう)此の歌によりて此の名を得たり」とあります。
勅なればの歌は「大鏡」「昔物語」「十訓抄」などにもあり、これらは紀貫之の娘であるとします。
「下学集」下草木門にもあり、こちらは京洛の寡婦となっています。
この歌は拾遺和歌集に採られています。作者の名は記されていません。

□和泉式部は越前守雅致の娘で橘道貞の妻でしたが、夫と死別後、一条天皇の中宮彰子に仕え、
その後、藤原保昌の妻になりました。
鎌倉中期、僧、無住が編纂した説話集「沙石集」に和泉式部の説話が採られています。
能「東北」では、藤原道長の譬喩品を聞いて「門の外、法の車の声聞けば」の歌を詠んだとありますが
「沙石集」では、僧、道命が藤原保昌の門前を通る時読んだ法華経の声を聞いて詠んだとあります。
僧道命は、読経の名手として著名で、「聞く人殊に感涙おさへがたく心肝に染みて
覚えける」程だったといいます。
和泉式部との恋愛説話が多く残されています。拾遺集、和泉式部の歌
「暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」も道明の読経を聞いて
詠んだものかもしれません。

□この道命が和泉式部のもとに通っていました。ある時、藤原保昌が突然訪ねて来ました。
隠れるところもなく鎧唐櫃の中に隠れました。それと勘づいて保昌は、唐櫃を引きずり出し、
「日に干せ、蓋は開けるな」と放りだし少し日に当てた後で祇園の御社に奉納してしまいました。
道明は、この祇園の執行でした。和泉式部の子、小式部は
この道命の子であるかもしれないとあります。
小式部は、橘道貞との間に生まれたというのが通説で、信じがたい話ではありますが。

□和泉式部は、夫、藤原保昌に一時疎まれたことがありました。
「後拾遺集」の和泉式部の歌「もの思へば沢の螢も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」も、
このころ貴船神社に参籠した時の歌だといいます。
保昌の心は更に離れていきます。焦った式部は、貴船の巫女に敬愛の祭りを行わせました。
もともとこの祭は密教の兄弟・夫婦などの和合の祭ですが、貴船のものはおどろおどろしい民間呪術だったようです。
年老いた巫女は、赤い弊を立て、色々な作法を行ったあと、前をかき上げ鼓を打ち鳴らし
三返回ったあと式部に「このようになさいませ」と命じました。
あまりの下品さ、卑猥さに式部は顔を赤らめ躊躇します。
これ程の重大事を思い立ちながらどうして今更躊躇するのですか、と巫女は叱ります。
式部は「ちはやぶる神の見る目も恥ずかしや、身を思うとて身をや拾つべき」
(歌意。思い悩むからといって、我が身を捨てるようなことは出来ない)と歌を詠みます。
この様子を木の陰で見ていた夫保昌は、「私ならここにおりますよ」と叫んで躍り出、
式部を連れ帰りました。保昌の愛は更に深いものになりました。
式部は恋多き女性である前にプライドの女性であったようです。

□藤原保昌は、藤原致忠の子、母は元明親王の娘で丹後、摂津、大和、山城等の国司を勤め、
又藤原道長の家司も勤めました。和歌に勝れ後拾遺集の作者でもあり、なかなかの文化人でした。
武勇無双といわれ、能「羅生門」の鬼退治の話に保昌の名が見えます。
01.14
Tue
□都の僧が、初瀬寺(奈良・長谷寺)に詣でます。
初瀬川の辺に来ると、急流を小舟に乗って遡って来る若い女性があります。
女性は、初瀬寺に詣でる者だと言い、僧を伴い、折しも色付き始めた初瀬山の木々を賞で御堂に参り、二本の杉に案内します。
僧は「二本の杉の立所をたずねずは」という古歌を思い出し、謂をたずねます。
女性はこの歌は右近が詠んだ歌だと教え、 昔、玉葛の内侍が筑紫から早舟で都に逃げ帰り、 寄る辺もなく心細い思いで初瀬に詣で、亡母の侍女、右近と邂逅したことなどを語り、 自分はその玉葛であるとほのめかして姿を消します。
― 中 入 ―
僧は玉葛の回向をします。
髪を振り乱して現れた玉葛の亡霊は、人を恋う執心が妄執となって迷うのだと その激しさを見せますが、やがて生前を懺悔し、長い迷いの夢から覚めたと見て僧の夢も覚めます。

□本曲は源氏物語、玉葛の巻に拠っています。
作者は金春襌竹。襌竹の作品は主題が確乎とせず、焦点が定まらない作品が多いと いわれます。本曲の物狂いも、何故の物狂いかはっきりしないといいます。
出典の源氏物語、玉葛の巻、夕顔の巻の中にカギがあるのかもしれません。

玉葛の半生は数奇でした。母夕顔も又薄幸な人でした。
父は頭の中将(後に内大臣)。
夕顔は中将の正妻、四の君の難を逃れて,五條あたりの小家に隠れ住んでしまいました。
光源氏は六條御息所のもとに通う途中、乳母の病気見舞いに立ち寄ります。
たまたま夕顔の宿は乳母の家の隣でした。
夕顔の宿に咲いていた夕顔の花が機縁で、源氏は夕顔のもとに通うようになります。(能、半蔀)
ある夜、源氏は夕顔を某の院に連れ出します。
ここは昔、源融(実在の人物、能,融)の屋敷跡で、荒れ果てていて物の怪が出ると 噂のあるところでした。
次の夜半、夕顔はこの物の怪に取り殺されてしまいます(又は六條御即所の生霊とも)。
夕顔の侍女、右近は忍び出た夕顔にただ一人伴われた手前、帰ることも出来ず源氏の妻、紫の上に仕えることになります。
玉葛の乳母は、手を尽くして夕顔を探しますが消息をつかむことができません。
たまたま夫が太宰少弐に任官し、四歳の玉葛を伴い筑紫に下向します。

玉葛はこの地で成人します。
少弐は任期を終えますが、病に倒れます。
死を予感した少弐は、自分が死んだら玉葛を上京させるよう遺言します。
玉葛は美しく成長し、求婚者も現れ始めます。中にも肥後国に絶大な勢力を持つ大夫監が求婚します。
乳母一家は、拒み続けますが拒みきれず、長男豊後介を中心に筑紫脱出を計ります。
響の灘などの難所を通り、恐怖の船旅を続け、ようやく都にたどり着きます。
一家はひとまず九条に仮住まいをします。これから先のことも解らないまま筑紫から同道した家人も離散し、いよいよ心細い日が続きます。
一家は豊後介の発案で初瀬詣を志します。
一方、右近も玉葛との再会を祈願するため初瀬詣しようと椿市に投宿します。
玉葛一行は、この宿で右近と劇的な邂逅をし、母夕顔の死を知ります。
その後源氏は、玉葛の存在を実父内大臣にも知らせず、実子として引き取り六条院に移し花散里を後見人にします。
豊後介は玉葛の家司となります。

前シテ(前場の主役)玉葛の霊は水棹を持って現れます。 初瀬川の激流を小舟で遡る態です。
幼い玉葛が乳母に伴われて筑紫へ下った記憶が「舟人も誰を恋うとか大島の」の源氏物語を引用して謡われます。
心の動揺でしょうか、また 初瀬川の激流は筑紫から逃げ帰る途中の響灘の恐怖などをも暗示しているように思われます。
ついで、右近と邂逅してお参りした長谷寺の御堂に行き二本の松を訪ね、クセ(曲の中心をなす)になります。
クセでは筑紫からの逃避行や、九条の仮住の心細い状況や、二本の杉での右近との邂逅などがこの曲の出典、源氏物語玉葛の巻の句をちりばめて語られます。
この三つの場面「御堂に参詣する」「二本の松を訪ねる」「クセ」の間の劇的展開、例えばワキ旅僧の求めに応じて、案内するとか、物語するとかが一切省略され混沌と語られます。シテの錯乱にも思われます。

後シテは唐織(衣装)の右肩を脱ぎかけ髪の一部を左肩から前に垂らして現れます。 狂女であることを示します。
前に垂らした髪は、曲中の「九十九髪」や「寝乱れ髪」をあらわしています。
面は、増女、又は十寸神(ますかみ)を使います。この面は、仙女、又は女神の面です。
他の狂女物では、その曲の役どころ、若い女性 中年の女、老女と普通の女面を使います。
この曲に限り、増女、十寸神を使うのは、この曲の「狂乱」の質の違いを主張するためでしょうか。

後シテの登場歌は「恋わたる身はそれならで玉葛」と謡い、源氏が初めて玉葛に会ったとき詠んだ歌を少し変えたものです。
このあと、柏木衛門督が玉葛に贈った歌や、玉葛が螢兵部卿に贈った歌が引用されますが これらは妄執となるべき程のことがらではなく、ただ妄執の烈しさ、深さをあらわす語句を連ねます。舞いも文意に合った激しい型(所作)を連ねます。
この曲の見所、聞き所です。
妄執からの解脱も簡単で「この妄執をひるがえす、心は眞如の玉葛」で しめくくります。かえって人の心を烈しく打つのでしょう。
古来、一調や仕舞など、好んで演ぜられるのも、それ故なのかもしれません。
01.14
Tue
□ 能会の最後に舞われる五番目物、又は切能と呼ばれる曲です。
 深刻な趣の能ののちの肩ほぐしには、うってつけの作品です。

大唐の天狗の首領、是我意坊は、日本を天狗の道、魔道に引き入れようと渡来し、
愛宕山の天狗、太郎坊を訪ね協力を頼みます。
太郎棒は、比叡山は日本の天台山であると教え我等の力の及ぶところではないが
相手の慢心につけ込む機会を待つしかない、それにつけても不動明王の威力を考えると難しいと
思案をめぐらします。
さらに二人は天狗の道、魔道に沈む身でありながら仏の慈悲で地獄に堕ちる事を逃れたのに、
こうして天狗の身となり仏敵、法敵となるとは悲しいと嘆き、
このまま逆らい続ければ、いつかは不動明王の火炎に焼かれ、降魔の剣で処断されることだろうと恐れます。
しかし二人は、このままでは時が過ぎるだけだと決心し、比叡山に向かいます。
比叡山飯室の僧正が勅命によって参内する途中、我かに嵐が吹き荒れ、天地が鳴動すると見るや、
天狗、是我意坊がその本体を表します。
天狗は邪法を唱え、激しく僧正に挑みかかります。
僧正が不動明王を念じますと、不動明王が諸守護神を伴って現われ、
更に、山王権現、男山八幡、北野天神、賀茂天神の諸神が現われ、神風を起こします。
天狗は、さしもの飛行自在であった翼も折れ、力つきて、これ程恐ろしい仏力、
神力の国であったかともう再び来るまいと言い残し、唐土へ逃げ帰ります。

□ 前場の終わりを「中入」といいます。
これまでは、シテ是我意坊、太郎坊とも山伏姿、天狗の仮の姿です。
この中入で、アイ飯室の能力が登場して前場のあらまし、是我意坊のことなどを話します。
能は、前、後場を同一人物が勤めるのが通例ですので、後場の装束替えなど準備が必要です。
アイとは「間」のことですが、単に「つなぎ」とならないよう心をくだくところです。
後場の是我意坊は本来の姿、天狗となって現われます。
「大べし」という極めてゆっくりとしたテンポの囃子にのって現われます。
歩き方も天狗独特です。雲に乗った態だといいます。
舞台に入った天狗は、羽団扇を立て不動明王の態を見せ示威の「イロへ」を舞います
「イロヘ」は謡はなく囃子だけで舞台を一巡する簡単な所作です。
「イロへ」のトメ(終わり)に僧正の車の前に飛び込み車の長柄をつかみ、おどします。
諸神と天狗の争いは「舞働」で見せます。舞動きも囃子だけで舞います。
闘争の場面ですので激しい型の連続です。

□ 明治期、イギリスの登山家がスポーツ登山、近代登山を伝えました。
南、北、中央アルプスなどの高山に登って、ほとんどの山頂に祠が祭ってあるのを見て
同行の人達は天狗の仕業だろうと驚いたといいます。
今でも尾根筋に天狗の像を彫った石塔をよく見かけます。
あるいは羽団扇を持ち、あるいは肩に翼を持っています。昔は天狗は身近な存在だったのでしょう。

□ 能に登場する天狗は空を飛び嵐を起こすなど神通力をもつ怪物ですが、
どことなく愛嬌のあるキャラクターに仕立てられています。
本曲では仏法を妨げようと意気込むが、不道明王が恐ろしいといい、
「大会」では地に落ち殺されかかったところを僧に救われ、
お礼にと神通力で釈迦の説法を再現して見せますが、帝釈天の怒りに触れ退散する。
「鞍馬天狗」では牛若丸を花見に誘うなど、愛すべき存在として扱われています。

□天台山は、中国浙江省の千二百米ほどの山で天台宗の根本道場があり多くの学僧が学びました。
最澄は唐に渡りこの天台宗を学び、比叡山に延暦寺を建て根本道場としました。
その後延暦寺では、中国で天台寺宗を学び帰朝した人を天台座主にすることが行われました。
01.14
Tue
 源氏物語の巻名を連ねたやや長大な曲舞を眼目とした作品です。
曲舞は中程にシテの短い謡をはさんで前後二つに分かれているのが多いのですが
本曲はシテ謡二ヶ所、三つに分かれています。
二段クセと呼ばれています。この三番目物と呼ばれる作品は「序ノ舞」が舞われるのが普通ですが、
本曲と「大原御幸」の二曲には「序ノ舞」がありません。
クセの内容が希薄になるのをさけるためかも知れません。
「舞入り」の小書の時、「中ノ舞」にするのも同じ理由でしょう。

 安居院法印が石山寺、詣での道すがら志賀唐崎あたりに来かかると一人の女が法印を呼びとめます。
女は、源氏物語六十帖を書いたが光源氏の供養をしなかったために成仏できずにいるといい、
紫式部の亡霊であるとほのめかし、光源氏と自分の供養を頼み消え失せます。

  法印が供養していると夜半、紫の衣をまとった紫式部の霊が現われます。
そして布施の代りにと法印の手になる「源氏物語表白」を曲舞にして舞い、
紫式部の後の世の救済の回向を頼みます。
法印は、紫式部という人は石山寺の観世音であって、仮にこの世に現われて、
この世は夢の世であると人々に知らせるために源氏物語を書いたのだと悟ります。

□ 往生要集に、物語など架空の話を弄する者は、人の心を迷わし、妄語戒を犯すものとして
死後「大焦熱地獄」におちるとあります。
 中世の人々はそう信じていたのでしょう。
 鎌倉時代中期に藤原信実が著わしたとする「今物語」という説話集に源氏供養の段があります。

 「ある人の夢に、その正体もなきもの、影のやうなるが見えけるを、あれは何人ぞと尋ねれば、紫式部なり。
空言をのみ多くし集めて人の心を迷わす故に地獄におちて苦を受くる事いと耐え難し
源氏の物語の名を具して南無阿弥陀仏という歌を巻ごとに詠ませて我が苦しみを弔ひ結へ」というものです。

  ある人とはこの説話の著者信実の祖母で俊成の妻、美福門院加賀という人らしいといいます。
この人は源氏物語に耽溺し、地獄に堕ちたという紫式部を初めて供養したといいます。
 その後、読者も又同じ罪を犯した者として、
紫式部、読者すべてを救済する供養が行われるようになりました。
 また宮中でも源氏物語の巻名を詠み込む、または巻名を題にして歌を詠む催しが行われました。
 源氏の供養は当時頻繁に行われ、紫式部は方便としてこの物語を書いとし、
実は紫式部は観音菩薩の化身だったとする説が生まれました。

□ 本曲のクセは、鎌倉中期の人、安居院法印聖覚の手になる「源氏物語表白」を引用して作られています。

  源氏物語表白は源氏物語五十四帖の巻名を連ねた表白文です。
 本曲のクセは、そのうちの二十六帖を取り込んでいます。
 クセの冒頭に「そもそも桐壷の、夕べの煙速やかに法性の空に到り、
箒木の夜の言の葉は、ついに覚樹の花散りぬ」とあるように、
桐壷の巻から末摘花の巻まで「源氏物語表 白」をほぼそのまま引用しています。

「紅葉の賀」から終りの「舞の浮橋」までは、この「表白」を巧みに引用しながら
作者の創意を織り交ぜてつくられています。

表白とは、もともと法会のときの導師が法会の趣旨をしるした文のことをいいます。
01.14
Tue

小督(こごう)

カテゴリ:小督
高倉天皇の寵愛を受けていた小督局は、中宮の父平清盛を怖れてひそかに身を隠す。嘆く帝は源仲国に小督の隠れ家を訪ねるように命じる・勅使の命を受けた仲国は、今宵の八月十五日に小督はきっと琴を弾くに違いないと馬を急がせる。
月澄み渡る秋の嵯峨野を片折戸をしるべにここかしこと探した仲国は法輪寺あたりでようやく琴の音を耳にする。それは小督が帝を重い奏でる「想夫恋」の曲であった。
仲国の訪れをいったんはこばむ小督だが、やがて対面し帝の手紙を読み、変わらぬ情に感涙を涙を流す。名残の酒宴で二人は琴と笛を合奏し、仲国は男舞を舞う。小督の返事を懐中した仲国は再び馬に乗り都へ帰って行く。

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