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12.09
Mon

落葉(おちば)

カテゴリ:落葉
□回国修行の僧が都に上る途中、比叡山麓の小野の里を訪れます。
 ここは源氏物語のなかで浮舟が恋のもつれから投身し助けられ、
出家した故地であることを思いだし回向していると、里の女が呼びかけながら現れます。
女は、同じ物語の中で「落葉の宮の旧跡」もこの所にあると、その跡に案内します。
旧跡は落ち葉に埋もれ、跡形もなく時折鹿の鳴き声が寂しく聞こえます。
女はさらに不遇の皇子、惟喬親王の隠棲跡を教え、この里の名高い炭窯の煙を眺め、
我が胸を焦がして、くゆる煙のようだと呟き姿を消します。
小野の里人が僧に落葉の宮の身の上を詳しく語ります。
僧が落葉の宮の、この里でのことに思いをめぐらし回向していると、香の匂いもほのかに
衣ずれの音とともに落葉の宮がありし日の姿を現します。
宮はこの里でのことを回想し物語ります。
 落葉の宮の夫、柏木は妹宮、女三の宮を愛し落葉の宮との結婚を悔いていました。
「もろかずら、落ち葉を何に拾いけん、名は睦ましき、かざしなれども」
(葵祭りの鬘に飾る葵、桂のような仲の良い姉妹宮だが、どうして落ち葉のようなつまらない
女二の宮を妻にしたのだろう。)
この柏木の歌がもとで女二の宮は落葉の宮と呼ばれるようになりました。
その後、柏木は病を得、後を親友、夕霧に託して亡くなります。
残された落葉の宮は物の怪に悩む母の加持のためもあり小野の山荘にこもります。
 堅物と評判の夕霧でしたが何くれとなく援助しているうちに宮への恋慕を募らせていきます。
夕霧は秋色美しい小野の里を訪ね恋情を訴えます。
慎ましい女、落葉の宮は頑なに拒みます。折から霧が軒の下まで立ちこめ、風が静かに立ちわたり、
虫の音、妻を呼ぶ鹿の声が混じり合う「艶なるほど」の夜でした。
夕霧は宮の心が解けるのを待ち一夜を明かしますが望み叶わず明け方すごすごと山荘を後にします。
こう物語した宮は和歌を口ずさみ追憶の舞を静かに舞います。
夕霧の思い出はしだいに妄執となり、その身に降りかかりますが僧の回向を受け,落ち葉が
ほろほろはらはらと落ちるようにその身も消え失せます。
◆源氏物語に取材した作品は十曲余りあります。
物語のヒーロー、光源氏の青春時代と華やかな時代の若い巻からの取材が殆どです。
源氏物語にイメージする「幽艶」から遠い作品が多く主題の捉え方も各々個性的です。
中でもこの「落葉」は色々な意味で変わった曲です。
この「落葉」は源氏物語という長編のそれも巻末に近い、光源氏の晩年、次世代の物語です。
登場人物に馴染みの薄い、の感は否めません。
主に「柏木」、「夕霧」の巻からの取材で,シテは朱雀帝の皇女、落葉の宮(女二の宮)です。
この落葉の宮は、夫「柏木」が宮の妹宮を愛し宮との結婚を悔いていると言う背信にも
これを深く恨むこともない控えめな女性です。
「柏木」の巻ではいわゆる不倫の罪におののく柏木が描かれ「夕霧」の巻では
執拗なまでに落葉の宮に求愛する夕霧が描かれています。
こうした柏木、夕霧二人の陰にかくれ、ドラマになりにくい落葉の宮をシテに取り上げています。
◆能の中心をなすクセでは、シテにまつわる事柄が取り上げられるのが通例です。
この曲ではシテ落葉の宮のことは語られず夕霧の大将の落葉の宮への想いが主題となっています。
源氏物語の文言をちりばめた秋の夜の山荘の叙景が夕霧の大将の心情と交錯して語られます。
宮の心情描写のようにも錯覚される美しさです。
◆この山荘での出来事の後、落葉の宮は母が亡くなったのを機に
夕霧が修理して待つ一条宮に移されます。
ここでも夕霧は執拗に宮に迫りますが、宮は頑なに拒みつづけ、ついには塗籠にこもります。
頼べき人、柏木を亡くした宮の行く末を案じた侍女「小少将」は、夕霧を手引きして塗籠のなかに導き入れます。
夕霧は半ば強引に契りを結んでしまいます。
終には受け入れざるを得なかった宮の胸中をこの曲の後場で
「さやけき月に妄執の夕霧、身一つに降りかかり、目も紅の落葉の宮は、せんかた涙にむせびけり」と
謡われます。この曲の後場の主題です。
慎ましく控えめな日本の女性の内に秘めた強さが思われる曲です。
◆この曲は幽玄、幽艶一辺倒ではなく、後場にシテの錯乱の場面があり他の三番目物とひと味ちがいます。
名曲、野々宮、夕顔と同類の曲です。
クセの後を受けて舞う「序ノ舞」は最もテンポの緩い幽艶な舞です。
この曲は中庸の位の「中ノ舞」でもよいとされています。狂乱に似た場面があり、
幽玄、幽艶を重視するか、シテの錯乱、内面の描写を重視するかはシテに任されているということでしょう。
シテの錯乱の場面の直後に舞われる「破ノ舞」はシテの錯乱をあらわすテンポの速い舞です。
◆金剛流にだけ伝わるこの曲は上演も希でしたが、近年国立能楽堂、横浜能楽堂、朝日新聞が取り上げ話題を呼びました。
最近、金剛流の定期能などでも演ぜられ見直される機運がみえるようになりました。
見識に深謝を禁じえません。
◇落葉の宮の「落ち葉」は、劣った、不要、の意だそうです。
若い女性を落ち葉に例える、これほどの恥辱はありません。
おおかたの日本人は忍従の女性を尊敬します。”落ち葉”を弁護せざるを得ません。
代表的な落ち葉に、かえで、ゆずり葉、があります。
かえでなどの落葉樹は、赤や黄色に紅葉して秋の山をかざります。
古来、詩歌に歌われ親しまれてきました。
落葉樹は葉に蓄えた養分を幹に取り込み、また葉からの水分の蒸散を防ぐため自ら葉を落として
厳しい冬に備えます。謂わば忍従の木々です。
ゆずり葉は常緑樹で紅葉はしませいん。古い葉が若い葉に代を譲り散っていきます。
代を重ね末永く、の縁起物として正月の飾り物に使います。
◇この曲に登場する『源氏物語』の人々
須磨源氏、明石源氏というのがあるそうです。
源氏物語の須磨、明石の巻あたりまで読んで源氏を論ずる人、転じて知ったか振りをする人と云うのだそうです。
源氏物語は長編のうえに難解です。
四半分にも届かない須磨の巻までであっても読むには、かなりの時間と労力を要します。
まして若菜、柏木、夕霧の巻は巻末に近い光源氏の次世代の物語です。
馴染みの薄いのは仕方がありません。
◇『若菜(上)の巻』
病が重くなり出家を望む朱雀帝は皇女、女三の宮の行く末を慮り光源氏に降嫁させます。
光源氏の友人、頭の中将(致仕の大臣)の子息、柏木は六条院(源氏の邸宅)での蹴鞠の会で
女三の宮を垣間見て恋の虜になります。(能、遊行柳のクセでも謡われます)
◇『若菜(下)の巻』
柏木は女三の宮の姉宮、女二の宮を妻に迎えますが女三の宮を忘れることができません。
思いはつのるばかりでした。
柏木は源氏が紫の上の看病に没頭して女三の宮のもとに行けないことを知り、
宮の寝所に忍び込み、ついに契りを結んでしまいます。
柏木は罪におののきながらも歌を詠みます。
「もろかずら落葉をなにに拾いけん、名はむつましきかざしなれども」
(二人の宮のうちどうして劣った女二の宮を妻にしたのだろ)紫の上が小康を得たので源氏は久しぶりに女三の宮を訪れます。
源氏は思いもよらぬ宮の懐妊を知り不審しますが柏木の恋文を見つけ一切を悟ります。
柏木は罪の意識に懊悩し病の床につきます。
◇『柏木の巻』
女三の宮は男の子(薫)を出産します。
宮は源氏の胸中を思い、耐えられず出家します。
柏木の病状はますます重くなります。死期を悟った柏木は正妻、落葉の宮の行く末を案じ
見舞いに訪れた友人夕霧(源氏の子息)に、これまでの出来事を話し
源氏への取りなしと宮の後事を託し、その後まもなく亡くなります。
律儀な夕霧はしばしば落葉の宮を見舞います。いつしか夕霧の心は宮に傾き始めます。
◇『横笛の巻』
ある秋の夕暮れ、夕霧は落葉の宮、母娘を一条宮に見舞い宮の母、御息所と柏木を追憶します。
御息所は柏木の遺品、愛用の横笛を夕霧に贈ります。
夕霧の歌「横笛の調べは殊に変わらぬを、むなしくなりし音こそ尽きせね」
(かつて故人がふいた笛の音色は故人を悼んで泣く人々声とともに何時までも残るでしょう)
この曲の後場、序ノ舞のあとの、追憶の和歌として一部変えてうたわれます。
その後この笛を源氏が預かります。柏木と女三の宮との子、薫に伝える思惑からです。
◇『夕霧の巻』
夕霧は実直という定評の人です。この巻は実直な男の一途な恋の物語です。
この曲のクセはこの巻を脚色しています。
律儀な夕霧は柏木の遺言をまもり宮母娘を庇護しますが、恋心は抑えきれず募っていきます。
宮の母、御息所が憑きものの加持のため小野の山荘に移り、孝行の宮も後を追い
移り住みます。八月半ば頃(旧暦)夕霧は山荘をおとずれます。
折しも秋色美しく夜に入り霧が立ち込めますます。
夕霧の歌「山里のあわれを添ふる夕霧に、たち出でん空もなきここちして」
(山里の淋しい思いをさせる夕霧が立ち込めて帰る方向も分かりません。
ーおそばを離れられませんー)
この歌はクセの中でシテの上羽(クセの中心部で歌う和歌)でうたわれます。
夕霧は思いのたけの恋情を訴えますが宮は頑なに受け入れません。
明け方夕霧は露にそぼちつつ山荘を後にします。
夕霧が山荘に一夜を明かしたことを知った御息所は驚き、夕霧の本心を確かめようと
手紙を書きます。夕霧の正妻、雲居の雁に文を取り上げられ夕霧は返事が書けません。
御息所は失意のうちに病勢をつのらせ亡くなります。
その後落葉の宮は旧宅、一条宮に連れ戻されます。
宮は出家を望みますが父帝に止められます。夕霧は正妻、雲居雁を怒らせても一条宮に通い、
宮も周囲の状況から受け入れざるを得ませんでした。
まめ男、夕霧は幼馴染みの妻、雲居雁との間に七人、藤典侍(惟光の妹)に五人、
都合十二人の子沢山でした。
◇源氏の在世までの巻を正編とも云うようです。
源氏亡き後の続編とも云うべき「匂宮の巻」に夕霧は、六条の院(源氏の旧邸)に移した
落葉の宮と雲居雁のもとに一晩おきに十五日ずつきちんと通います。さすが律儀、まめ男です。
(梅)
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12.09
Mon
遊行柳 相模国(神奈川県)藤沢の清浄光寺(遊行寺)の遊行上人一行が念仏勧進して
白河の関を越えたところまで来ると道が幾筋かに分かれています。
広い道を行こうとすると、老人が現れ、先代の遊行も通った道だと昔の街道を教え
路傍にある名木「朽木の柳」に案内します。
上人は朽木の柳のたたずまいを見て謂われをたずねます。
昔、西行法師が「道のべつに清水流るる柳かげ」と詠んで以来、今の世までも語り傅えられた名木であると
教え、上人に十念を授けられるとそのまま柳の陰に姿を消します。
上人は所の人に朽木の柳のいわれを聞き、読経し、念仏を唱え月の冴え渡る中、仮寝の床につきます。
やがて烏帽子狩衣の典雅な姿の柳の精が白髪の老人となって現れ、
上人の十念によって草木の身ながら成仏出来たことを喜び、さらに柳にまつわる和漢の
故事を語り、報謝の舞を舞うが、とてもその身は朽木の柳、風に漂うように倒れ臥すと見て
上人の夢は覚め、柳の古木が残るだけでした。

□この能は優美な舞を優女に舞わせるという「三番目物」に準じた曲です。
しかもシテは朽木の柳の精であり、装束・面は神体のいでたちです。
閑寂な情趣の中に品位をもった、優美とはまた異質の美しさを作り出しています。
 一曲の中心となる「クセ」の導入部「サシ」からクセの前半で柳の故事、唐土の黄帝の臣下貨狄が
柳の葉にヒントを得て初めて舟を作ったこと、玄宗皇帝の離宮、華清宮の美しさを作った詩、
清水寺の草創のとき柳の朽木が楊柳観音になって現れたという和漢の故事が美しい詞章で謡われます。
後半では都の大宮人の雅、四本の木の庭での蹴鞠や源氏物語、若菜巻の蹴鞠見物の女三宮の猫が逃げ出し
猫の綱で御簾があがり柏木が三宮を見初めたこと、が謡われます。
これらの優艶なイメージは「クセ」に続く「序ノ舞」とともに朽木の柳の精の「老体の舞い」に濾過され、
優雅に閑寂な美しさに変質します。
 蹴鞠の場面の「暮に数ある沓の音」や女三宮の猫の場面「手飼の虎の引綱も」のところに
珍しい型があるなど閑寂な老体の能でありながら変化の多い面白い能と言われています。
 草木ながら成仏できた、その報謝の舞「序ノ舞」を舞い上げ、唐土の故事に別れのとき
柳の枝の輪を贈るというが老木ゆえ枝も少ないと上人に別れを告げ、風に漂うようによろよろと倒れ伏し
老の気力の失せたさまを見せ、「露も木葉も散りじりとなり果てて」と、これは上人の夢であったと
閑寂な風情を舞台に残して終曲となります。

□「隣忠秘抄」に、「西行桜の対の能にて位甚だ大事なり。茲にかようの習ありという
事はなし、只一番の大意を一番の習とす。上手、年功の外、若輩のせざる能なり」とあり、
この能を的確に言い得ているといいます。

□この能の作者、観世信光は、「船弁慶」「安宅」「道成寺」などショー的要素の強い作品を
意欲的に作った人だと言われています。
 晩年世阿弥の閑雅幽玄の世界に触発されて、この能を作ったといい、
世阿弥の自信作、老体の桜の精をシテにした能「西行桜」を意識した作品だといいます。
 世阿弥の理路整然とした作風に対し、この能は和漢の故事や詩歌、教典が物語の展開に
脈絡なくつづられているように見えます。
一つ一つの事柄はそれぞれ味わい深く、例えば「サシ」から「クセ」にかけての
展開のように、理解を超えた複合味の感銘を受けます。
信光は七十五歳の時、三条西邸を訪れた折、三条実隆に年齢を聞かれ六十歳と答えたと
あるそうです。自他共に認める精力家であったようです。
この能の閑寂の中に「艶」がほの見えるのも、むべなるかなです。
□この能の見どころの一つ「蹴鞠(ケマリ)」は貴人の遊びで、七間半四方の角に
桜、柳、楓(かえで)、松を植え、数人で鞠を地に落とさず、その下枝より高く蹴上げる遊びです。
師範に飛烏井、難波の二家があり、本曲の蹴鞠の型は飛烏井家の「四段一足」という型だそうです。
もう一つの珍しい型「手飼いの虎」は、猫の異称といいます。
□「道の辺に清水ながるる柳陰」の西行の歌は新古今集、夏に「題不知」として載っています。
 西行物語に「鳥羽殿に御幸ならせ給ひて、はじめたる御所の御障子の絵ども叡覧あるに…
清水流るる柳の陰に旅人の休むさまを描きたる所を」とあってこの歌が載せられているそうです。
興を削ぐかも知れませんが、那須、芦野での詠歌とするのは本曲の作者の造作のようです。

□遊行聖は時宗の僧です。時宗の開祖一遍上人は鎌倉中期の人で、熊野権現の啓示を受け
「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書いた名号札を配って遊行しました。
歴代の法主も、これに習って全国を巡教し念仏勧進しました。
これを遊行と呼び、遊行上人、遊行宗、遊行寺の名が生まれました。
 一遍は観念の念仏を排し口称の念仏、全身全霊で称える念仏を主張し、
信州佐久友野ではじめて踊りながら念仏を称え、平安時代の空也上人の「踊り念仏」を復活しました。

□「奥の細道」で芭蕉は、この地を訪れ「田一枚植えて立ち去る柳かな」の句を残しています。
 西行ゆかりの柳の下にたたずんで思わず時を過ごしてしまったとの感懐で西行の歌の
「しばしとてこそ」を「田一枚植えて」に具象したと注にあります。
□やなぎは柳又は楊柳と書きます。約四百種ありますが、日本には約九十種あります。
一般的に、楊は枝が直立したカワヤナギ、ネコヤナギ類を、柳はシダレヤナギを指します。
シダレ柳は中国からの渡来で、挿し木で殖やした、いわゆるクローン樹木です。
その歴史は古く、千二百年余り万葉集の時代だといいます。
 中国では五月に柳絮(りゅうじょ)と呼ばれる綿毛の種子が雪のように舞うといいます。
雌雄異株で、我が国ではほとんどが雄木であるため、種子が飛ぶ様子をみることはほとんどありません。
六月八ヶ岳の通称ハチマキ道路で、かなりの量のカワヤナギの綿毛が飛んでいて、
カワヤナギにも柳絮があるんだと嬉しかったことを覚えています。
(梅)
12.09
Mon
□ 能には僧がよく似合う。僧は世俗を離れた世捨て人であり、
この世に執心を残して迷うシテ(能の主役)を成仏させる仏の代行者なのです。
ワキ僧はなくてはならないのです。

嵯峨野を訪れた諸国一見の僧、偶然ここにやって来たのか、シテ里女に導かれたのか。
 晩秋の野宮に現れた美しい女性、花々を見慣れて来た日々、これから先、秋になって
花々も枯れてゆく、自分の身の上のようだと言い、昔を偲ぶよすがとてない荒れ果てた
この野宮にあの世から往き来する身の執心はうらめしいなどつぶやきます。
 僧にはここまではその姿は見えず声も聞こえない。
ただこつ然と現れたのです。
女は僧に、ここは昔斉宮に立つ人が身を清めるためにこもったところです。
今日は年毎に行う神事の日です。
どこの誰ともわからぬ者が立ち入るのはさしさわりがある帰れといいます。
いぶかる僧に、七月七日光源氏がここをたずね、その時持っていた榊の枝を
忌垣の内に挿したのを見て御息女は歌をよみ、源氏も返歌をし、
再び心を通わせたのです、と語り
鳥居の奥の仮住まいの跡や小柴垣、今もかすかにもれて見える火焼屋
(警護の衛士がかがり火を焚く処)の火をなつかしげに眺め、
私の内心の思いがあらわれたのだろうかといいます。
僧は七月七日が特別な日であることを悟り、御息所のことをたずねます。
 御息所は皇太子妃でした。前途を約束されながら皇太子の急死で家も衰えて行きました。
そこへ源氏が通うようになりました。そののちあの「生霊事件」
(源氏の正妻葵の上へのしっとのあまり生霊となってついに取り殺した事件=能葵ノ上)
以来源氏の足もいつしか遠のくようになりました。
御息所は源氏との愛を精算するため、斉宮に上った娘宮について伊勢に下向することを決意しました。
さすがに源氏も未練止み難く、人を憚る聖域に御息所をたずねます。
源氏の説得にも御息所の決心は固く、ついに伊勢に下っていきました。
こう語った女は、私こそ御息所ですと名乗り鳥居の陰に隠れるように姿を消しました。
 僧が夜どおし御息所を弔っていると車の近づく音が聞こえます。
(女は橋掛を静かに歩いて来ますが、車に乗った態を表しています。)
いかなる車かといぶかる僧に、車のことを聞かれると思い出します、と心をたかぶらせ
「車争い」(葵祭り見物の御息所のくるまを、おくれて来た葵ノ上の車の共の者が奥に押しやり
、その場所に車をすえた事件)のさまを見せます。
しかしこれも前世の因縁です。迷いを晴らしてくださいと頼み、昔を偲び月下に袖をひるがえして
舞をまいます。
あらためて野宮のたたずまいを見、源氏が訪れたこの野宮の荒れ果てた景色に昔を偲びます。
 やがてここは伊勢神宮をお祭りしているところです。
この日本の神、天皇家の神は死して皆神になるのです。
私のようにこの世に執心をのこしてあの世とこの世を往き来する者を神はお許しになるはずがないと
又車に乗り出て行きました。
「火宅」という迷いの門を出て成仏したのでしょうか。
いや又七月七日、この世に立ちかえるのでしょうか。

□前シテ里女の次第のあとの上歌に「仮の世に行き帰るこそ恨みなれ」としみじみ述懐するくだりがあります。
又後シテ御息所は一声で「秋の千草の花車我も昔にめぐり来にけり」とのべます。
あの世からこの世にたち帰るということです。
 源氏の正妻葵の上の急死の後、側近も世間でも「こんどこそは正室に」と取り沙汰していました。
源氏に見捨てられたという恥辱感、その発端となった「車争い」など耐え難い思いを抱いての
伊勢下向の御息所にとって、野宮の忌垣を越えるという禁を犯してまで御息所を訪ねた
源氏の誠意と愛を確かめたという思いは、計り知れないものでした。
このため死後もこの「思い」は「妄執」となり源氏が御息所訪ねた日
「長月七日」にこの世に立ち帰り「宮所を清め神事をなす」のです。
 この類のおおかたの能は「成仏の御法」を得て終曲となります。
「妄執」も迷いの「火宅」をも受け入れ長月七日の日毎にこの世に源氏との思い出を求めて
立ち帰ることを暗示してこの曲は終曲となります。
この「妄執」こそがこの曲のテーマなのです。

□この野宮と同類の曲がもう一曲金剛流に残っています。
「落葉」です。これも源氏物語の出典で朱雀院第三皇女、女三宮の話です。
気に染まぬまま源氏の子夕霧の大将を受け入れざるを得なかった女心がテーマの曲です。
 三番目大小物(大鼓、小鼓、笛だけで太鼓を省き幽幻を旨とした曲)に
「破の舞」のあるのもこの二曲だけです。テーマが「四番目狂乱物」的だからでしょう。
この「破の舞」を金剛流では二ノ舞ともいい雅楽から出た名称といいます。
野宮の笛のカカリ(吹き始め)はイロヘカカリで「思い入れ」をねらったものです。
シテの心情を表して効果的です。
 野宮の作者は不明のようですが、この「四番目」的素材を三番目物に仕立てた
作者の非凡さがうかがえます。

□野宮神宮は嵯峨野の奥まったところにあり、観光の波に洗われながらも今も静かなたたずまいです。
小督が平清盛の難から逃れ住んだのもこの地であり「露うち払う」程の僻地だったのでしょう。
斉宮は天皇の即位ごとに伊勢神宮に奉仕するため皇女、王女の中から選ばれ宮廷外の適宜の所に
野宮を作り、三年潔斉の後、伊勢に下る例であったようです。
嵯峨の野宮は史実なのか、源氏物語に因んで作られたものかもしれませんが、
野宮の跡が固有名詞になったのでしょう。

□能「野宮」は、まず舞台正面に小柴垣のついた鳥居が据えられます。
鳥居で隔てられた見所(客席)と舞台は鳥居の内であったり外であったり
また冥界の内、外でもあります。 小柴垣は源氏が榊の枝を挿した忌垣であったりもします。
原作では御簾の下から差し入れたとありますが、能では柴垣が都合が良いのです。
シテは常にこの鳥居、小柴垣に心をとめて舞うといいます。
前シテが手にして出る榊の小枝は、源氏の愛の象徴として大事なものです。
この能の出典源氏物語「さかき」の巻名もこの榊に因んでいます。源氏二十三才の秋。

□この能の典據となる源氏物語は皇子、光源氏の生涯とその後をつづった長大な物語です。
西暦1000年頃、藤原為時という人の娘紫式部によって書かれました。
実名はわからないようで、紫は物語中の「紫の上」から、式部は当時侍女に与えられた
官位だったようです。
 紫式部は関白藤原道長の娘、一条天皇の妃、彰子の侍女として道長に招かれました。
一条天皇には多くの妃がいました。貴族の中で教養のある、たとえば歌道などに秀でた
女性を、妃達は競って召し抱えました。
伊勢大輔、赤染衛門、和泉式部など、後世に聞こえた才女がいました。
 当時は和歌、漢詩の時代で、源氏物語のような「物語」のたぐいは女性の「おあそび」
として全く評価されませんでした。
式部は源氏物語の一部を公開しただけで大半を出し渋りました。
歴史の闇の中に埋もれるところを世に出したのは中宮彰子の功績でしょう。
12.09
Mon

八島(やしま)

カテゴリ:八島
都の僧が西国行脚の途次、八島の浦に立ち寄ります。あたりの塩屋に泊まろうと主の帰りを待ちます。
やがて、月の出や、沖の漁り火の美しい八島の浦の情景を賞でながら塩屋の主従が漁から帰って来ます。 
僧が、都の者だと名乗ると主は家の中に請じ入れ、都といえば懐かしい、私たちも以前はと言いかけ、涙に咽びます。
僧は、この八島での源平の合戦の有様をたずねます。
主は、源義経の勇姿や、平家方の悪七兵衛景淸と源氏方の三保谷四郎との錣(しころ) 引きや奥州以来の家人佐藤継信の戦死の有様など語ります。
あまりに詳しい話に僧は驚き、主の名を尋ねます。
主は義経の霊であるとほのめかして消え失せます。
 僧の夢うつつの中に甲冑(かっちゅう)姿の義経が現れます。
義経はこの合戦中に誤って弓を取り落とし、敵中、身を呈して取り返したこと、このことを練さめた僧尾十郎兼房に、まことの勇者は命は惜しまず名を惜しむものであり、末代までの名誉のために弓を取り返したのだと武士の道を説いたことなどを語ります。
やがて修羅道の時になり、平教経との戦いの様を見せますが夜は波の彼方からほのぼのと明け初め、その姿は見えなくなります。
 能もその時代によって観る人の受け取り方が違うのかも知れない。
この曲は「えびら」「田村」と共に三修羅といい戦いの悲哀を描くものではなく戦勝の曲と云われ目出度い曲とされてきました。八島の浦の戦いでの義経の勇姿、しころ引き、弓流しなどが生き生きと描かれます。さらには狂言方の重い習い、那須与一の扇の的の武勇伝を作った演出もあります。終曲で武人が落ちるという修羅道の戦いが語られますが、これも八島の浦の戦いの再現です。修羅道の苦しみはありません。
 義経は国民的英雄として伝えられて来ましたが、また悲劇の将としても語り継がれてきました。
前場に、春の海の静かな夜景、都を偲ぶ老翁、継信、菊王の死、終曲の戦いのどよめきが波の音、カモメの声、松を吹く風になっていく、一抹の哀愁も漂います。
12.09
Mon

雪(ゆき)

カテゴリ:
□清浄無垢な雪の精を主題にした、小さくまとまり小品ながら
幽玄の香気のたかい佳曲です。
廻国行脚の僧が奥州から天王寺参詣を思い立ち、摂津の国(大阪府)
野田の渡りまで来ると、今まで晴れていた空がにわかに曇り
雪が降ってきます。
途方にくれた僧は、ひとまず雪の晴れ間を待つことにします。
何処からともなく「雪の賦」を吟じながら女が現れます。
僧は不思議に思い、素性を尋ねます。
女はただ自ずから現れたのだと言い、自分が何者であるかも分からず
それ故に迷っていると訴え、この迷いを晴らしてくれるよう頼みます。

僧は雪の精であると悟り、仏の功徳を信じて成仏するようにと
教えます。
女は、降りしきる雪の中で袖をひるがえし、報恩の舞を舞います。
やがて東雲も近くなり、梢にかかる雪の花のように女は消え失せます。

□この曲は金剛流にだけある曲で、作者不詳、古くは上演記録に乏しく、
いつの成立か分からないようです。
昔は重く扱われていましたが、詞章、節付ともに平易で
現在では初心用として親しまれています。

シテ雪の精は、山と呼ばれる作り物の中に入っています。
引廻しという紺地の布を下し、シテが姿を現します。
自ずから現れたということです。
「暁梁王の苑に入れば雪群山に満てり」と和漢朗詠集、
謝観の「雪の賦」を吟じます。一面の雪景色が現出します。
この「雪の賦」は、枕草子に
「雪なにの山に満てり、と誦したるはいとをかしきものなり」とあり
親しまれた賦だったのでしょうか。(なにの山、は群山の意訳)
クセのあとの廻雪の舞、序ノ舞は異演出、小書のとき笛が盤渉調に変わります。
曲中の足拍子も雪踏の拍子と言い音をたてず踏みます。
この廻雪の舞の由来は、文選、曹子建の「洛神賦」によるものです。
洛水のほとりで女神に出会ったことを詠んだ賦で、
女神の身のこなしを「流風の雪を廻らすが如し=雪がつむじ風に
舞あげられたように揺れ動いている」と詠んでいます。
「和漢朗詠集」は、平安時代、1020年頃、藤原公任によって
撰ぜられました。「和漢」とは「和」は和歌、「漢」は漢詩の意味です。
漢詩文には「漢」の作者に当然ながら我国の作者も撰ぜられています。
「朗詠」とは、本来は良い声で詩文を口ずさむという意味でしたが
撰者公任は佳句麗章を吟誦する意としているといいます。
古来愛誦されてきました。
「文選」は、500年前半頃、梁王朝(中国)第一武帝の長子
昭明太子が、親しい文人らと周から梁に至までの賦、詩、文章の
すぐれた作品を選び、体系立てて編纂した書です。
作者不明のものを除き、百三十余人女性二人を含みます。

□この曲の評価は二つに分かれるようです。
森羅万象、なんでも捉えて戯曲にしてしまうのが謡曲の特色です。
古来多くの文芸の題材となった雪は、能でも恰好の題材です。
しかし、この曲の主想、脚色、修辞ともに平凡で、場所も歌枕に
ほど遠い野田であり、凡作であるとする。
簡単である点は評価を与えています。
一曲の中心をなす「クセ」には多くの曲で難解なものが多く、
この曲も多少難解です。
「クセ」は美しい文章を美しい曲節で聴かせるのが目的の一つであるからです。
この曲の「クセ」に源氏物語「浮舟の巻」匂宮(のおう)の歌
「君にぞ迷う道には迷はず」が採り入れられています。
雪の精の、心の迷いを表す修辞に使っています。
この歌は、匂宮が浮舟に贈った恋の歌です。
雪の精の迷いは、自ずから現れ自分自身をも認識できないという
迷いであり、清らかな迷いです。この曲には不適切であるとします。
凡作という一つの理由でもあるようです。

又佳作とする評価もあります。
ワキ僧の出は簡潔で、シテ雪の精の清楚な出現を助けています。
雪の精が口ずさむ「雪の賦」の借景も適切であり、この曲の
清楚なイメージを決定づけています。
終曲のキリで雪の精が消えてゆく表現も、余分の修辞を排し
淡雪の如くです。
三番目鬘物の夢幻能として、そのエッセンスを集めたともいえる
佳曲であるとします。
12.09
Mon
□ 回国の僧が須磨の浦の松風、村雨の旧跡をたずね、経念仏して弔います。
日も暮れたので、あたりの塩屋に泊まろうと塩屋の主を待ちます。
 須磨の浦の海辺に二人の女が汐汲車を引いて現れ賎しい身の上を嘆きます。
やがて二人は汐汲の歌をうたい、波に戯れ、月に戯れて潮を汲み、
汐汲車を引き我家の塩屋に帰ります。
 二人は僧に松風、村雨の幽霊であると名乗ります。
松風は行平のことを語り、行平の形見の烏帽子、狩衣を着、恋慕のあまり狂乱となり、
狂乱の舞を舞います。
やがて夜も明けて波の音、松に吹く風の音、鳥の声に僧の夢はさめます。
 詩人野口米次郎はこの曲を「情、景兼ね備える詩劇の逸品は松風に止めを刺す」と絶賛したそうです。
歌枕の名勝須磨の浦と源氏物語須磨の巻を背景にくりひろげられる汐汲の情趣、
形見の装束をまとっての狂乱の舞、改作者世阿弥が言う「事多き能」で見所、
聞き所の多い能です。長編ですが割愛できにくい名作です。
 小書(替えの演出)の多いのも古来大事にされてきたからでしょう。
シテのセリフも多く変化に富み心理描写の多い曲で演ずる側には難曲といえます。
(梅)
12.09
Mon
「山姥の山めぐり」を曲舞(くせまい)につくり、百魔山姥とあだ名を付けられ、すっかり有名になった京の遊女が親の十三年供養のため善光寺詣に旅立ちます。
越後、越中(新潟、富山)の国境の境川に着き、これから山越えとなるので所の人に道の様子をたずねます。
所の人は、三つの道がある、中でも上路越という善光寺のご本尊の阿弥陀様が通った道があるが、険難で乗り物はおろか、高貴な女性には無理だと教えます。
遊女はご本尊の通った道ならば、修業の旅でもあるからと上路越をしようと峻険を登っていきます。
急に日が暮れ、あたりが暗くなります。
一行が困惑していると遠くから、宿を貸しましょうと声が聞こえ女が姿を現します。
女は一行を我が家に案内し、宿を貸すについて訳があります、山姥の曲舞を謡ってほしいと所望します。
一行が不審すると女は、遊女に、あなたが芸道の奥義を極め、都で名声を上げたのは「山姥の曲舞」を作ったからです。
それなのにほんとうの山姥のことは少しも心にかけてくれないと恨み言をいい、歌舞伎音楽の仏事で供養してくれたら私も極楽に往生できるのです、そのために現れたのだと本当の山姥であることを明かします。
遊女は断ると恐ろしいことになると思い、謡おうとしますと女はこれを制して、夜になったら謡いなさい、その時本当の姿を現しあなたの曲舞の謡で舞いましょうと姿を消します。

月光のもとで遊女は笛を吹きます。
やがてほんとうの山姥が姿を現し峻険な上路の景色を求べます。その恐ろしい姿に怯える遊女に山姥は「山姥の山めぐり」を謡うよう促します。
遊女が謡い始めると、山姥は遊女の謡いに合わせて舞います。
舞い納めた山姥はさらに本当の「山めぐり」のありさまをみせて、いずこともなく姿を消します。

世阿弥の申楽談義に「山姥、百萬、是等は皆名誉の曲舞ども也」又「能作書」に「百萬、山姥などと申したるは曲舞まひの芸風なれば、大方やすかるべし」とあるそうです。
当時、流行した「山姥の曲舞」に前後を書き足して一曲にまとめ上げたということで世阿弥の云う「本説」らしいもののない能のようです。
後場の次第「よし足引の山姥が」からクセの終わり「山めぐりするぞ苦しき」までが曲舞であって「中入」までの前場、終曲部の「キリ」が書き足した部分ということになります。

作者、世阿弥の山姥と、曲舞の山姥との間には違う山姥像があるように見えます。世阿弥山姥は、まだ高い日を俄かに暮らし、居場所を瞬時に変え山河を駆けめぐる霊力を持つのですが、都の遊女に、あなたが有名になったのは私のことを曲舞に作ったからだ、なのに少しも心にかけてくれないと恨み言をいい、私がここに現れたのは、私の名の功徳を確かめるためだといい、さらに、私のために歌舞音曲の佛事をして極楽往生させてほしいと助けを求めるなど、人間臭さのある山姥です。このクセ(曲舞)は、本来の曲舞に作者の手が加わっていると言われています。どの部分かは想像の域のようでが興味の湧くところです。

能に登場する鬼は嫉妬が昂じて鬼となったもの、人を喰う、もとからの鬼、反体制の鬼など様々です。
嫉妬の鬼は女性が多く、調伏され成仏します。男の鬼は、ただただ人をさらい喰う邪悪な鬼が多いようです。
この能の鬼女は、生まれた所もわからず、雲水のように山野を漂い姿を変えて人を助ける。鬼というよりはむしろ仙女のたぐいでしょう。「野守」という能に狩場を守るという少し似た鬼がありますが、他に外に例がありません。

曲舞が流行した時代の人達は、生活の中に仏教があったのですから理解も容易でしたことでしょうし、現代人とは違う感動もあったことでしょう。
現代人には仏教、特に禅の思想は今や神秘の世界です。現代の人がこの曲に惹かれる一つの要因は、人々の空想を掻き立てる未知の世界、この曲でも重い意味を持つ深い山、空、海と共にその神秘性にひかれるのでしょう。

前場の「などか妾も輪廻を離れて帰性の善所に到らざらん」や終曲部の「廻り廻りて輪廻を離れぬ妄執の雲の塵積もって山姥となれる」の「輪廻」とはなにか。「輪廻」は車輪のように六道に流転、生死するという人間の定めだそうですが、人間に非ずという山姥に輪廻があろう筈がありません。山廻りという山姥の境涯と解しても疑問は残ります。

後場のシテの出現の一声は四つに分かれているように思います。
1・あら物凄の深谷やな、と上路の山の険しさをうたいます。
2・寒林に骨を打つ、霊魂泣くなく前生の業を恨み、塵野に花を供する天人。返すがへすも幾生の善を喜ぶ。 (この世で悪行を行った者が死後、己の墓の白骨を鞭打ち、又、善行をして天人となった者が、己の墓に花を手向けたという仏典の話だそうです)
3・いや善悪不二。何をか恨み、何をか悦ばん(クセの邪正一如、色即是空も同義語ということらしい)
4・萬箇目前の境界。懸河渺として巖峨々たり。山又山―以下略(眼前に現れた景色を見ればといい、又上路の険しさを謡います)
このシテの一声の不連続性をどう考えればいいのでしょうか。

この能の舞台、上路(あげろ)は、新潟県西頸城郡青海町にあり、北陸線、市振(いちぶり)と親不知(おやしらず)駅の間の山中にあり標高200メートルほどのところに五十戸ほどの集落があります。
海沿いのルートが近いのですが、親不知の難所があり、その上、追い剥ぎが出たそうで上路越は迂回路だったようです。
上路周辺には、山姥神社、山姥日向ぼっこ岩、山姥がお手玉にして遊んだという山姥遊び石があり、峠に山姥が住んでいた洞窟があります。
京都から善光寺詣のルートは高山からの飛騨越えがあり、この方が近いようです。飛騨越えルートに比べ上路ルートは、道中、旧蹟、歌枕が多くあるそうです。

善光寺は、長野市にある奈良時代からの霊場で、本尊は百済から伝来したと伝えられる阿弥陀如来です。
寺伝によれば、難波の堀の中から、本尊を本田善光という人が拾い上げ信濃に持ち帰り、これを本尊して善光寺を創建したとあります。

12.09
Mon
高砂の神松、羽衣の天女の松、鉢木の人情の松と、松三つを揃え、
東京金剛会七十周年の初回に備えた選曲でしょうか。
劣勢ながら七十年の星霜に耐えた会、支えた会員の気骨稜々、声援だけでも送りたい。

この能は「祝言の隋一なり口伝秘事多し」と伝書にあるそうです。
初番目脇能の代表作といわれています。
阿蘇の宮の神主友成は海路、都見物にのぼる途中、播州の名所、高砂の浦に立ち寄ります。
さわやかな春風の中、海辺の松の下を掃き清める老人夫婦に出合います。
友成が高砂の松と相生の松は国を隔てているのに、どうして相生の松というのかとたずねると
老人はこれ古今集の序によるものだ、私たち夫婦は相生の松のように
高砂と住吉に分かれて住んでいるが、夫婦の愛情には変わりはないのだと夫婦の道を説き、
松のめでたい和漢の故事を語り、実は私たちは住吉、高砂の神である、住吉で待とうといい残して
小舟に乗り、折からの追い風に帆を孕ませて沖の彼方、住吉へ去って行きます。
友成は浦の人を呼び、改めて高砂の松のいわれを聞きます。
浦の人は船を新造したので、このような奇瑞を見た友成を乗せるに、よい乗り初めであると
月の出を待ち後を追います。
月明かりの早春の岸辺に住吉の明神が現れ神官を鼓舞して囃させ颯爽と神かぐらを舞い
神の恵みと君の正しき政道、民の寿福を寿ぎ舞います。

□高砂は脇能の代表、祝言第一の能といわれています。
脇能とは天下泰平五穀豊穣を祈願する神事に似た、能の根本といわれる「翁」に付随して
演ぜられる祝言能のことです。
各役に秘書口伝が多いのも、古来大事にされた曲であることを示しています。
演劇的にも文学的にも優れ、古来これほど親しまれた曲は少ないとまでいわれます。
和漢の古典の引用が多いのも抜群で、このため我々現代人には複雑難解の感もあります。
当時きわめて身分の低い芸人でありながら、これほどの古典に接することができた作者の境遇がしのばれます。

□この曲には、祝言、めでたさ、などをあらわす事柄がいくつかあります。
これが渾然と絡まっていてわかり難いところがあります。
「松」。この能は松の能かと思われる程の松づくしです。
まず老夫婦が現れ高砂の松の下を掃き清めることろから物語りは始まります。
脇能独特の演出が松を強く印象付けます。
「サシ」から「クセ」で松のめでたさが述べられます。
松は四季にも葉色、姿を変えることなく永遠不変、その姿は高貴であり
秦始皇帝(しんのしこうてい)に爵位を授けられたほどの木であると述べ
「松の葉の散りうせずして色はなほ、まさきの葛、永き世のたとへなりけり
―中略―相生の蔭ぞ久しき」と結んでいます。
つまり、松は永遠不変の象徴であるとします。
 「和歌」須佐之男命(すさのうのみこと)が出雲に大宮造りした時の詠歌が
和歌の始まりであるとすることから、和歌は国を豊かに守ると考えられていたようです。
古今和歌集眞名序に「天地を動かし鬼神を感ぜしめることわざ」とあります。
この曲には、これらを踏まえた和歌賛美が随所でうたわれます。
和歌をさして「言の葉」「敷島」とうたいます。
 「老」祝言の能のシテは老体が多いです。それは、神、神の化身は老体がふさわしいし、
長生は人の唯一の願でもあるからでしょう。
本曲でも、この「下蔭の落葉かく、なるまで命ながらへて。なほいつまでか生きの松」
長生を達成した喜びがうたわれます。
「君が代」天皇の治世でしょうが、室町、徳川将軍でもあるのでしょう。
君主国家では、為政者によって民の禍福が左右され、民は為政者に尭舜、延喜天暦の治を希求したのでしょう。
本曲の初めの地謡「四海波」は江戸城の謡初めに楽頭、観世太夫が将軍の前に平伏したままで謡ったそうです。
治まる治世を「枝を鳴らさぬ」と謡っています。
この能は、これらの「ことがら」、国家の最小単位である夫婦の和合、寿命の長久、国土安穏などを
松の永遠不変をかりて寿ぐ能のようです。

□ワキはものものしい五段一声(眞ノ次第)の囃子で登場し、儀式神事を思わせる型をして
祝言能の雰囲気を盛り上げます。
シテとツレの老夫婦の登場は、神の化身ですので一層荘重な眞ノ一声です。
二人向き合って老の感慨を謡います。
老の悲しみ、苦しみではなく、永らえた命のよろこびと解すべきでしょう。
この一声から、上歌までは、屈指の美文で聞きどころといわれています。
相生の松についてワキにたずねられ、二人は夫婦の道を説きます。
婚礼の祝言に「四海波静かにて」の小謡や「高砂やこの浦舟に帆を上げて」のワキの待謡をうたうのは、
これによるものでしょうか。
“高砂や”よりも“四海波”を謡うべきだとしますが、将来へのいわゆる船出には
“高砂や”の方が納得です。
複式能の常ですが、この能の前場には、さ程の型はありません。
華麗な大臣装束のワキやワキツレ、端麗な老人夫婦の雰囲気が爽やかな囃子、謡とあいまって
祝言色が横溢、堪能です。
初同(最初の地謡)の「四海波」は定型通りに舞いますが、老体を排して強く舞うという習いです。
「クセ」と中入前のシテが住吉に向うところに凝った型があります。
「クセ」の後半にシテは立ってサラエを取り直し松の葉を掻く型をしますが「久」の字を書く習いです。
中入前では両の袖を広げ、帆を張る様をします。共に前場の見所でしょう。
□ 後場は、スピード感溢れた、千変万化の舞台が楽しめます。
「松根に倚って腰を摩れば」と松の長寿にあやかる風習のようなもの、
「梅花を折って頭に挿せば二月の雪、衣に落つ」の華やかさ「さす腕には悪魔を払い、おさむる手には寿福を抱き」の
抽象のおもしろさ、などなど。
圧巻は急調の神舞でしょう。
能はしずしずと舞うものという能に不案内の人に見て欲しいものです。
能の終わりにシテは、シテ柱に向い足拍子を二つ踏みます。
陰の拍子といいます。
祝言能では、見所に向き三拍子を踏みます陽の拍子といいます。
この拍子はワキが踏むこともあります。

□本曲の「サシ」に「松花の色十廻りと言へり」つまり松は千年に一度花を咲かせるとあります。
西王母の桃の如しということもあるかもしれませんが、松の花は地味で花とは認められなかったのでしょう。
松の花は毎年春、新芽の頭頂につけます。果実はいわゆる松ボックリです。
日本には海の近くに黒松、内陸部に赤松、高地にハイ松、五葉松、種子島、屋久島地方に天然記念物の
種子久五葉がありますが、松食い虫の被害で風前の灯と聞きます。
日本人の好物、松茸は赤松に限らず、松科の木の下には種を選ばず生えるそうです。
ただし、味の方は解りません。
(梅)
12.09
Mon

田村(たむら)

カテゴリ:田村
□春たけなわの清水寺を東国の僧一行が訪れます。
満開の櫻の下を掃き清めながら、「そのまま仏の手向けの花となったことだ」と
感嘆し櫻を愛でている少年に出会います。
僧は少年にこの清水寺の来歴を訊ねます。
「昔延鎭という僧が音羽の滝の滝壺から千手観音を見つけた。
又、音羽山に七百年住んでいるという行叡居士に一人の檀那(施主となる
信者)を待って大寺院を建立せよと命ぜられた。坂上田村麿が檀那となり
大寺院を建設し千手観音を本尊とした」と語ります。
又、少年は清水寺から見える名所を教え、「値千金」の春の夜を
僧と共に楽しみ、舞い遊ぶと見て田村堂の中に姿を消します。
僧達は夜もすがら法華経を読誦します。
月明かりの花の下に甲冑姿の坂上田村麿が現れ、平城天皇の宜旨を受け
鈴鹿山の鬼人を平げた様子を再現してみせます。
「鬼神は黒雲の中から、真っ赤に溶けた鉄の雨を降らせつつ
大軍勢に姿を替へ襲いかかった。そのとき味方の軍勢の旗の上に
千手観世が現れ、千本の手ごとに千本の矢をつがえ、雨、霰(あられ)のように
放ち鬼神はたちまち亡びてしまった」
観世音の仏力を賛えてこの能は終わります。

□修行僧は劣悪な条件のもとに旅をしました。
他の能によく見える「憂き旅」だったのです。本曲には、春ののどかな
状景だけで「憂き旅」は出てきません。明朗な曲を予感させます。

□シテの少年は童子という面をかけ頭に「カシラ」という長い頭髪をつけています。
神性をそなえた少年をあらわします。
僧は少年に清水寺の由来を尋ねます。少年が話す清水寺縁起は節をつけない
日常の会話で語ります。特に「語り」といいます。
また清水寺から見える都の名所を教えますが、これも「名所教え」といい
能の構成上の型式になっています。

□この名所教えの途中で、シテは月が出て来たことに気付きハタと手にした
箒を取り落とし、感嘆の声を上げます。
この月が出た事に気付くところや、箒を落とすところに色々工夫をします。
能の演者は観客にはわかってはもらえないだろうと思うような所にも
細かな工夫をします。
気付かずとも、その集積が「気」となって「厚み」を作るのだと考えるからです。

□月の光に照りそう櫻の美しさに、シテは思わず僧の袖を取り
僧をいざないます。情緒のあふれるところです。
僧の袖を放してシテは「クセ」を舞います。のどかな春の景色と本尊の観世音の
大慈悲を讃えた謡曲文学の中でも屈指の美文です。
音羽の滝の流れ落ちる様や、「天も花に酔へり」など美しい型を連ねて舞います。
「クセ」は一曲の中心をなすもので能以前からあった芸能「クセ舞」を
能にとり入れたことから出た名称です。
本曲には前場後場と二カ所あり、他の能にはない珍しい構成です。
クセを舞い終えたシテは「その名いかなる人やらん」と問う僧に
「我が行く方を見よ」と清水寺境内の「田村堂」の中に入り姿を消します。
坂上田村麿の化身であることを示しています。

□シテが幕に入ると中入です。「中入」とは前場と後場の間のことをいいます。
清水寺門前の人が出て僧の問いに答えて話をします。「間語り(アイダカタリ)」といい
この曲では清水寺の縁起を語ります。

□僧達の読経にひかれて坂上田村麿が甲冑姿で現れます。
面は武將の顔「平太」をつけています。
鎌倉時代の武將荏柄平太の顔を写したものといいます。
上衣の法被(はっぴ)は両肩を上げ、甲冑に見せます。
僧の問いに、田村麿と名乗り舞台を一巡して威勢を示し、舞台眞中後方の
床几に腰を下ろし、天皇の命により凶賊討伐に赴くと語り「クセ」になります。
「クセ」は、討伐の道中の様子を床几にかけて語り、途中から立ち
戦いの心意気を勇壮に舞います。舞い終えて「カケリ」になります。
「カケリ」は謡いはなく囃だけで舞います。凶賊との戦いの様子です。
「カケリ」を舞い終えると「キリ」です。
能の終曲部分です「キリが良い」などと言いますが、その語源になった言葉です。
「キリ」では、すさまじい敵の攻撃や、これを観音の加護で打ち破った様子を
激しい動きを連ねて舞い、そのまま終曲となります。

□今回は小書「長床几」で演ぜられます。長く床几に座っているという意味です。
小書は常の演出を一部変えて演ずることをいいます。シテの扮装と
面が「平太」から「天神」に変わります。終曲部分「キリ」の型どころを床几に掛けて
舞うなど常より重厚な演出になります。
「天神」はその名の通り菅原道眞が太宰府に左遷された時の憤怒の相を
写したものです。強さを強調したものです。

□能は曲柄によって五つに分類されます。
本曲「田村」は二番目物又は修羅物といいます。
二番目とは、正式な能会の五番立ての時、二番目に演ぜられる事からで、
又、修羅物とはシテが武將であって、仏説に戦いを、こととする
武人は死後、修羅道という地獄に堕ちるという事からこう呼ばれます。
修羅とは、阿修羅の略で争いを好み、仏法を妨げる悪魔の名です。
もともと修羅物は、仏法守護の仏、帝釈天と阿修羅の争いを作った
ものだったといいます。

現行曲の修羅物は、本曲「田村」を除き全て源・平の武將がシテです。
源氏は「八島」「箙」の二曲で「田村」を加え勝修羅と言います。
シテが戦勝の武將であり、武家社会で生まれた呼び名でしょうか。
平家は圧倒的に多く十数曲あり、敗戦の將ですので負け修羅と言います。
これらの武將は「花鳥風月」「詩歌管絃」をたしなむ優雅な人として
描かれる事が多く、激しい戦闘の場面はもちろんですが、敗戦の悲哀や
人の世の無常なども主題となります。
終曲には、二,三曲を除いて多くが修羅道の苦しみを訴え
僧に回向を賴みます。

□本曲「田村」は唯一源平の武將ではありません。
世の無常や敗戦の悲哀、修羅道の苦しみなど「負」の言葉が全くなく
明朗、闊達な曲です。
前シテが神性をもった童子であったり、脇能(神を主題とした能・翁の直後
抱き合わせて演じられることからついた名称)の趣をもった
さわやかな能であると言われます。
「クセ」が前後に二つあるのも他に例が無く異色です。
前のクセは「清水のクセ舞」を取り込んだものといいます。
道行ようの後のクセもクセ舞(鎌倉後期、室町時代の芸能)から
採られたものかもしれません。

□坂上田村麻呂は平安初期(七五八年~八一一年)の武將で、桓式、平城
嵯峨、三代の天皇に仕えました。
征夷大将軍として東北の蝦夷を平定するなど武勲をたてました。
日本後記に田村麿は赤い顔をして黄色のひげを生やし、並々ならぬ
体力があり、寛容な人柄で士を遇したとあるそうです。
金剛流の謡本には「田村麿は身長五尺八寸(一九一センチ)、胸の厚さ
一尺二寸(四〇センチ)身を重くする時は、一百一斤軽くしようとすれば
六十四斤と意のままになった。目を怒らせば禽獣もおそれ伏し
平常談笑する時は、小児も馴れ親しんだ」とあります。
日本後記は漢文体で、読むに難解です。上記のような記事もあるかもしれませんが
それらしきものは見つける事が出来ませんでした。
田村麿は、平安期を代表する猛將です。その後の文芸の武勇談に恰好の素材でした。
そうした作品の中にあるのかもしれません。
清水寺建立のことは「今昔物語」「源平盛哀記」にあり、
本曲はこれに拠ったものだといいます。
本曲の小島寺の僧の名は「延鎭」ですが、両物語は「賢心」としています。
                                  (梅)

12.09
Mon
昔、在原業平が妻を偲び涙を流して渡ったという東国の果ての大河、隅田川。
この物語の舞台です。
このところの雨続きで水嵩がましています。この渡しの渡守は、
そう多くは往復できないので一度に少しでも多く渡そうと旅人を待っています。
旅の商人に続いて、狂女が渡しにやって来ます。
大勢の見物の人を引き連れています。女は都、北白河の人で人買いにわが子を
さらわれて心が乱れ、子を求めてこの隅田川まで下ってきたのです。
女は渡守に舟に乗せてくれるよう頼みます。渡守は、お前は狂女だろう、
面白く狂ったら乗せてやろうといいます。
すかさず女は、隅田川の渡守ならば「日も暮るる舟に乘れ」というべきでしょう、と
伊勢物語の故事を引いて切り返します。女はさらに、水面の白い鳥の名を
渡守に尋ねます。渡守は、あれは鴎だと答えます。女はたとえ鴎であっても、
この隅田川の白い鳥をどうして都鳥と答えないのかと又伊勢物語を引いて
やりこめます。

女はしだいに狂乱となり、東の果てのこの隅田川までやって来て妻を偲んだ
在原業平の心情を思い、我が子を思い、舞い狂います。
心を打たれた渡守は、舟の上で狂うなと念を押し舟に乗せます。
対岸から念仏の声が聞こえてきます。
渡守は向いの岸につくまでにと、人買いに連れられて来た少年が
旅の疲から病になり、この川岸で亡くなった事を語り、今日は丁度一年になるので、
所の人が集まり、大念仏会をしているのだと話します。

世には似たような話があるものだ、くらいに聞き流していた女は、
少年が都北白河の人と聞きだんだん我が子である事に気づいてゆきます。
女は、少年の生地、父の名、少年の年、その名を梅若丸と聞き
我が子である事を確かめ悲嘆にくれます。渡守は、実の母の念仏を亡者も喜ぶだろうと
女を大念仏に加えます。大念仏に唱和して少年の声が聞こえ、その姿が現われます。
女は、「あれは我が子か」と取りすがりますが少年の姿は消え消えに失せてしまいます。
やがて東の空も明けて行き、我が子の姿と見えたのは塚の上の草だったのでした。

□物語の進行を追いながら

後見が柳の小枝をつけた塚の作り物を運び出します。梅若丸の墓です。
中には子方が入っています。最近では、子方の出番の直前に出す事もあります。
ここから能は始まります。

□ワキが登場します。続いてワキツレが登場し、
長い道のりを旅してやっと着いたと述べ、狂女がやってくるとワキに教えます。
向こうにワイワイ、ガヤガヤと見物人をしたがえた狂女の姿が見えます。
渡守は狂女も乗せてやろうと待ちます。

能のワキは劇としての場の設定や雰囲気作りを受け持つのが常の役目です。
この能のワキはシテに伍して重い比重を占めています。
装束は段熨斗目素袍上下(だんのしめ、すほう)です。
身分のない船頭にしては、いかめしい出で立ちですが
シテ狂女と伊勢物語問答する程のワキと考えればうなずけます。
ワキは名乗り笛という笛だけの演奏で登場します。
「この間の雨で水嵩がましたので、一度に多くの人を渡したい」と
言いますが、流儀によってはこれはなく「大念仏があるので多くの人を
集めている」とふれるのもあります。

□シテが登場します。独白のように子への思いを述べ
「カケリ」を舞い、都の女であると名乗り、子を失って狂気となり、子を探して
この隅田川までやって来たと述べます。

狂乱物の能のシテの登場の第一声は、狂乱状態を示す「一声」を謡うのが常です。
この能の「一声」は必ずしも狂乱の「一声」とは思われないところもあります。
演者によって、時によって、狂乱の気持ちで謡うか、子の行方を案ずる
親の心情を述べる気持ちで謡うか、分れるところでしょう。
手にした笹は狂女をあらわします。
続く「カケリ」は狂乱の舞です。舞や囃子に緩急をつけ不安定な狂女の
心の乱れを表現します。「カケリ」を舞い終え、シテは
自分の身の上を語り、はるばるの旅の末、隅田川に着いたと述べ
「着き足」という、足を一歩前に出し、引き揃える型をします。
一つの目指すところにようやくたどり着いたという、象徴的な型です。
これでこの能の導入部は終わり、次の狂乱に続きます。

□シテはワキと伊勢物語を種に問答し「狂い」を舞います。

物狂いは、その場所、時、など折々の事柄を種に、見物の人と
問答し、歌い、舞ったのでしょう。この能は、所は「名にし負う」隅田川、
特上の「ネタ」です。当時、伊勢物語は広く知られていました。
狂いは伊勢物語九段を引いて始まります。渡守の、「狂女ならば面白く狂へ
さもないと舟に乗せない」に狂女は「隅田川の渡し守ならば、日も暮れる、
舟に乗れ(伊勢物語の一節)」というべきなのに舟に乗るなとは、
隅田川の渡守らしからぬことは云いなさいますな」と応じます。
渡守は白い鳥の名を聞かれ「あれこそ沖の鴎(かもめ)候よ」と狂女の
期待通りに答え、狂いを誘発し「狂いの段」へ誘い込みます。
「狂いの段」は、曲中唯一の「型」どころ、見どころです。

 笠に手をかけ「遠く来ぬるものかな」と遠望し、「我が思ひ子はありやなしやと
問えども答えぬはうたて都鳥、鄙の鳥とや(田舎者の鳥)」となじり、
「乗せさせ給え、渡守」と懇願するなど「狂い」らしいリアルな型が連続します。
この「狂いの段」で一区切り、前半の終わりです。
物語は一転して愁嘆場へ向かいます。

□ワキ渡守は、舟中で哀れな少年の話をします。

シテ狂女、ワキツレの商人は舟に乗ります。渡守は、棹を手に、二人の後に立ちます。
能では棹は水棹と櫓とを兼ねます。ここでは、水深のある川ですので櫓でしょう。
渡守は少年の死の経過を語ります。節もなく型もない、日常の会話で語ります。
特に「語り」といいます。
この曲の「語り」は他に抜きん出て秀抜です。
この曲一番の聞き所です。節も型もないだけ、「緩急」「めりはり」など
話術の粋をつくします。
この「語り」の中で、シテ狂女は次第に少年が我が子である事に気付いていきます。
わずかな動きでしだいに高まっていく心の動揺を表現します。

□子の死を確認したシテは悲嘆にくれます。

母親の嘆きは「クドキ」で語られます。「謡い」と「語り」の中間で謡い、
訴える内容の軽重を工夫します。「クドキ」の最後を地謡が謡い
「この塚を掘り返して我が子の姿を見せて下さい」とシテは塚の前に行き
土を掘り返すリアルな型をします。
続いて地謡は、世の無常を詩情豊かに謡います。

□ワキは大念仏の場にシテを誘います。

ワキはシテの首に鉦をかけ、撞木を渡します。地謡は念仏を三返唱え
シテの謡をはさんで三回繰り返し念仏会の盛り上がりを見せます。
 念仏の所々にシテは鉦を打ち鳴らします。鉦の打ち方に心得があるといいます。
地謡の声の中から梅若丸の念仏が聞こえてき、シテ母は鉦を打ち止め、聞き入ります。

□シテは「今一声こそ聞かまほしけれ」と叫び念仏を唱えます。
塚の中から梅若丸の亡霊が現れます。

親子は駆け寄り手を取り交わそうとしますが、亡霊は塚の中に消えます。
母は塚に寄り添いかき抱きます。
作り物の上を左右に分ける型で表現します。両手で顔を覆い泣き崩れる型をして
終曲となります。「シオリ」というこの泣く型は常は片手です。
両手は嘆きの深さを表します。
能が終わったことを示す留拍子は踏みません。
この能の余韻を損なわないためです。

○ 物語の背景

□この能が出来た中世は、人買いの横行した時代だったようです。
この能の他にも人買いを扱った作品が多く残されています。
彼らは買い取るだけではなく、甘言を弄して少年、少女、果ては立派な青年、
夫婦までも誘拐しました。

□母親は子の行方を「行方いづくと定むらん。あら定めなの賴みやな」と
嘆きます。流儀によっては「道行き人に言伝てて行方を何と尋ぬらん」とうたいますが
まったく「アテ」がなかった訳ではありません。
「三井寺、桜川、柏崎、高野物狂」などの曲での子の行き先は、寺院の高僧の
もとであり、「百万」では都の身分のある人のもとでした。
人買いの話ではありませんが、「経正」の僧、行慶は人目もはばからず
平経正を愛し、経正の戦死の報を聞き「夜も日も明けず」嘆き悲しんだと
伝えられています。少年を愛する風習は、当時は珍しい事ではなかったようですし、
僧の戒律にふれることではなかったといいます。
子の行き先には、こうしたこともあったのかもしれません。

□母親はこれらを頼りに「アテ」を探し歩き「アテ」らしき所で「狂いの芸」を
見せて人々から情報を集め、又路銀を得たのかもしれません。
いつの世でも女性の一人旅は危険がつきものです。物狂いは恰好の
手段だったのかもしれません。船頭が「かの者(狂女)を待ち舟に乗せうずるにて候」と
いうように、人々の善意で旅を続けました。いつの世でも善意の人はいるものです。
狂女物に登場する女性は、かなりの知識人であり、上流の人であったことがうかがわれます。
「狂いの芸」は即興の芸だったのでしょうから彼女達の博識、上流の女性の
優雅な姿が身を助けたことでしょう。

□本曲の作者、観世元雅と父、世阿弥との間で子方を出す、出さぬの論議があった事が
世阿弥の「甲楽談義」にあるようです。
現在では「子方あり」の演出が多いようですが「子方なし」の演出もあり、
作り物の中で、子方の声だけ聞かせる演出、子方を全く出さず
子方の謡は地謡が代わる演出があるようです。

□物狂いの能は、失った子や夫を尋ね歩き、ついには再会します。
この「隅田川」一曲だけ、再会したのは我が子の亡霊だったという悲劇です。
この悲劇を終始、しめやかに演ずる行き方もあるでしょうし、又
前場のシテは子の死を知らないのだから、狂女らしく舞った方がよい。
明暗の落差が大きければそれえだけ印象は深いという演じ方もあるでしょう。
演じ方に大きな差のある曲でもあります。
□本曲の梅若丸の供養の大念仏会は、嵯峨の清涼寺釈迦堂で行われた
念仏法要が始まりだといいます。
この大念仏を始めた円覚十万上人は捨て子で、寺に拾われ僧になりました。
大念仏会には常に母との再会を祈願したと伝えられているといいます。

□春日部の満蔵寺、向島の木母寺に梅若塚というのがあり旧跡とされます。
本曲はフィクションですので、後世に作られたものでしょう。
木母寺の縁起には、梅若丸は父、吉田少将、母は美濃国野上の宿の長者の娘
花子とあるそうです。つまり能「班女」の後日譚というわけです。
「隅田川」「班女」狂言「花子」は三部作だという人までいると聞いた事があります。

□伊勢物語第九段

昔男ありけり。その男身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に
住むべき所もとめにとて往きけり。―中略―なおゆき々て、武藏の國と下總の
國との中に、いと大きなる河あり、それを隅田川といふ。その河のほとりに群れゐて
「思ひやれば、限りなく遠くも來にけるかな」とわびあへるに、渡守「はや船に乗れ、
日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らんとす。皆人ものわびしくて、
京に思ふ人なきにしもあらず、さる折しも、白き鳥の嘴と足と赤き、
鴨のおおきさなる、水の上に遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人知らず。
渡守に問ひければ、「これなん都鳥」といふを聞きて、「名にし負はばいざ言問はん
都鳥わが思ふ人はありやなしや」と詠めりければ、船こぞりて泣きにけり。

(梅)
12.09
Mon

砧(きぬた)

カテゴリ:
九州、芦屋の某は、訴訟のため上京、三年が経ってしまった。
さすがに留居宅が心配になり、侍女・夕霧を帰し、この年の暮には必ず帰ると伝えます。
 妻は夕霧に空閏の淋しさを嘆き、三年の在京は夫の心変わりであろうと
恨みごとを言います。
 折りしも里人の打つ砧の音が聞こえてきます。妻は唐土の故事を思い出します。
漢の武帝の臣、蘇武は匈奴に使いして捕えられ抑留されます。
故郷の妻子は夜寒に寝覚めがちの夫を思いやり高楼に登って砧をうった。
その心が通じたのか、はるか北国の蘇武の夢に砧の音が届いた、というのです。
 妻は夕霧ともども砧を打ちます。折りしも松を吹く西の風の音が聞こえます。
東の京の夫へ吹き送れと西風に砧の音を託します。
 都の夫から使いが来ます。この暮にも帰国できないとの知らせでした。
暮れの帰国を疑いながら、それでも必ず帰国すると自らの心をも偽り信じてきたけれど
夫の心変わりは本当であったかと落胆し、心は乱れ、ついに死の床につきます。
 妻の訃報に急ぎ帰国した夫は、せめて妻の霊と話をしたいと巫女に梓の弓を
引かせ、霊を呼び寄せます。
邪淫の罪で地獄に落ち、その責め苦に憔悴したすがたで現れた妻は、
夫の不実を責めますが、夫の手厚い法華経読誦の弔いに成仏します。

□「かようの能の味ひは末の世に知る人あるまじ」(申楽談義)と、いったという作者、
世阿弥の円熟期の自信作といわれています。
室町後期から上演が途絶え幕末頃、復曲され、その間、謡物として
伝承されたといいます。
それ故か、謡と演出が、なじまないという指摘もあるようです。
能は代を重ね受け継がれ磨かれて来た芸能という認識からの指摘でしょうか。
この能は、作者のなみなみならぬ情念がことばを尽くして語られています。
演ずる側も見る側も曲趣を捉えるに苦労の多い能なのかもそれません。

□ごく短時間のうちに三つの場面が変わります。
ワキ芦屋の某が侍女、夕霧に帰国を命ずる京都の場面、ワキが退場の橋掛かりを
渡っているうちに、夕霧は帰国の途につきます。
道行(みちゆき)の謡も短く、旅のつらさや、途中の景色、旧跡の様子を
述べることもなく舞台右向こうへ二、三歩出、また、鼓の前へ行き
京から芦屋までの遥かの時空を示し、九州芦屋に到着します。
この二つの場面は、ごく短く、サラリと舞台設定の責は十二分に果たして
冗長をさけています。後の大部分は芦屋の留守宅が舞台です。

□夕霧の帰国は空閨(くうけい)の妻に変化をもたらします。
夕霧は「慰み多き」花の都の香を鄙の住まいに持ち帰ります。
妻の空閨は閨怨に変わっていきます。
二人は砧を打ちます。
砧には蘇武の妻や、北の辺境を守備する兵士の妻達の思いが込められています。
妻はこの砧に思いを託し、夫の心をつなぎ止めようとします。
悲痛な妻の叫びがきこえます。
シテは砧をじっと見つめ、風の行方を見定め、西や東の方角を指し示す方を多用します。
西は妻の在所、東は夫の住む都です。

□「砧の段」は一曲の頂点、見どころ聞きどころです。
室町末から幕末まで、謡い物として磨かれてきました。節扱いは屈指の美文と、
あいまって美しい。
前半は、同類の能と同じようにサラリとはこび、後半、砧を打つ場面で極度に静まり
序破急を逆に妻の悲しみを強調します。
 夫の帰国の延期や妻の死は、ごく簡単に述べられ、高密度の「砧の段」のあと、
清涼感さえ感じられ、余韻が消えません。

□中入後、夫の弔いは悲痛です。
夫の心とはうらはらに地獄から現れた妻は、夫の不実をとがめるという
女の性の悲劇を描きます。
このキリでは、夫への恨みが主題です。
夫の不実を責める強い型が随所にあり、印象的です。
結末は、急転して妻の成仏です。同類の能のパターンを踏襲していますが、
この能にして納まりがよく、余韻がながく残る結末です。
舞台に出された砧台は、妻の恋慕の象徴です。前、後場を通して重い位置を占めます。

□「衣ぎぬの砧の音が、枕に、ほろほろほろほろとか、それを慕ふは涙よなふ。
涙よなふ。」―閑吟集―閑吟集は、室町期の小歌集です。
もちろん能「砧」をもじった小歌でしょう。「衣ぎぬ」は
男と女が逢った翌朝、重ねて脱いであった着物を、おのおの着て別れるという
意、衣―着ぬ、だそうです。
世阿弥以降の成立ですから、世阿弥は草葉の陰で苦笑したかもしれません。
 砧は庶民の女の秋の夜の仕事であり、寂しい秋の風物詩でした。
「和漢朗詠集」、「擣衣」の項に、北の辺境守備に送られた兵士の妻が砧を打つ
切々たる白居易の詩や紀貫之の和歌など、和漢の詩歌が採られています。
この能にはこれらの詩歌がちりばめられています。
 蘇武の説話は、「漢書」や「蛍の光、窓の雪」や「勧学院の雀」で知られている
唐代の教科書「蒙求」にあり、平家物語にもあるそうです。
これらには蘇武の妻が砧を打ったというのはなく、和漢朗詠集の注釈書からのようです。
 この「擣衣」は中世の詩歌人に強い影響をあたえ、
近世では浄瑠璃や箏曲(そうきょく)などにも作られているそうです。

□芦屋は福岡県の遠賀川の河口、玄界灘に面した古代から栄えた歴史の地です。
魚介類も豊富で、豊かな港町です。
能「桜川」の母子は、この地に住んでいたという説もあるそうです。
 源氏物語の玉葛が筑紫から逃げ帰る途中、恐ろしい思いをした響灘は、
玄界灘に重なっていて、ともに海の難所として知られています。
特に冬の季節風は激しく恐れられています。
12.09
Mon

阿漕(あこぎ)

カテゴリ:阿漕
□人の心のあわれを誘う晩秋、神の国、日向の僧が伊勢参宮にのぼり、
はるばるの海路を経て阿漕が浦に着きます。
古歌にも詠まれた名所なので見物しようとしているところへ、
釣り竿をかついだ老人が近づいて来ます。
老人は独り言をブツブツと言っています。生業が苦しいのは自分だけではないが
どうして選りもにもよって仏戒を犯し、殺生をする漁師の家に生まれて来たのだろうかと
我が身をかこっています。
僧は老人を見て、源平盛衰記にある和歌を思い出します。
「伊勢の海、阿漕が浦に引く綱も、度重さなれば顕れぞする」。
老人も、古今六帖の歌「逢うことも阿漕が浦に引く綱も度重なれば顕れぞする」の
歌を教え、さらに漁師のような下賎の者でも、名所旧跡に住んでいると
自然に風流心が備わり、和歌の道の人達に劣ることはないと自負します。
僧は阿漕の謂われをたずねます。「昔この浦は伊勢神宮の神前にお供えする
魚を捕る所で、神への恐れもあるので固く漁を禁じられていました。
所の漁師は固く禁漁を守っていましたが、阿漕という漁師は漁への執心のあまり
夜な夜な忍んで網を引いていました。
度重なるうちに露見して捕らえられ、
この浦に沈められました。
阿漕は死後も密漁という悪名を残し、冥土では地獄の責めに苦しみ、
そのうえ西行法師が出家前に、忍び妻に執念を燃やしたとき、阿漕、阿漕という
たとへに引かれ、責め一人にされたことは悲しいことです。」老人はこう語りました。
僧は老人が阿漕の幽霊で生前、悪名を立てられた恨みを述べるために
来たのだと気付きます。
やがて老人は憑かれたように網を引きはじめます。
突然、突風が吹き、波立ち、漁の火も消え、老人の叫び声を
残して、ことごとく消え失せます。
老人はもとの地獄へ引き戻されたのです。

阿漕の身の上を哀れんだ僧は、回向の法華経を読誦します。
やがて四手網を担いで憔悴した面持ちの阿漕の霊が現れます。
地獄に落ちたのは自ら作った罪の因果なのだから世の中を恨みはすまいと
独り言をいいますが、また急に物に憑かれたかのようにキッと沖を見据え、
神前の贄の綱は、まだ引いていないようだといい、あたりに人の気配のないことを
確かめ、しのび忍びに綱を引き始めます。
生前、恋の道のたとえになったことや、禁漁を犯すほどの漁への執念は、
死後も娑婆への執心となって、再びこの世にたち帰り、網を引くのです。
網を仕掛け、四方の隅々から丹念に魚を追い込みます。
浄土へ引導するはずの僧の読経も、耳には聞こえても心にはは届きません。
やがて魚で重くなった網を念入りに引き上げます。
突然火の波が押し寄せ、人も、網をも焼きます。
あたりは地獄となり、生前、捕った魚は悪魚、毒蛇となって襲いかかり
猛火はその身を焼きます。
「助け給へ」と叫び声を残して漁師は地獄の底へ消えていきます。

□この能のワキは、流儀によっては日向の在家の人という設定もあるようですが
金剛流では西国の僧です。
「伊勢も日向も隔てなき(伊勢も日向も同じ神の国の意)」とあるので
日向の僧と解してもいいかもしれません。
日向は天孫降臨の国であり、伊勢は伊勢神宮、能野三山など神道の中心地です。
特に能野三山は、神仏習合、修験道の所縁(ゆかり)の地でもあり、
日向の僧という設定は妙を得ているといえます。
僧が神社に参詣することは、能でも「巴」に、行教和尚が宇佐八幡に詣で、
「かたじけなさに涙こぼるる」と詠み「春日竜神」では、明恵上人が入唐渡天の志の
成就を、春日明神に祈願する、などがあります。
清水寺には、地主権現が祀られていますが、寺院の境内に小さな神社が
祀られているのは少なくありません。

□この能は「善知鳥(うとう)、鵜飼」と共に、三卑賎(さんぴせん)と呼ぶそうです。
釣竿を肩して現れたシテ、老人は「せめては職を営む田夫ともならず」と悲嘆し
「善知鳥」のシテは「とても渡世を営まば士農工商の家にも生まれず」と嘆きます。
たとえ生活のためであれ、仏戒、殺生戒を犯すことは許されざる所業であり
士農工商という人間社会の身分の中にも入らない身上であるというのです。
仏戒という抑圧に生きる中世の人、とくに卑賤の人達が想われます。

□老人は僧に古今六帖の歌を教え、身は賤しいが、名所旧跡に住めば
和歌の人なみに風流心がそなわるのだと自負し、実は六帖の「逢うことも阿漕が浦に
引く網も」の歌は、この浦の海人の詠んだ歌だといいます。
(流儀によっては「かように詠まれたる」このように詠まれた海だからの意、もあります)
阿漕の霊には二つの妄執があります。一つは「語り」で、老人が語る密漁であり
もう一つは「クセ」で謡われる西行の恋のたとえに引かれたことです。
六帖の歌の詠み人が、この浦の海人であることは、この妄執を更に重くしたというでしょうか。
つまり老人の風流談は、ただの風流談ではなく、
これは次の「語り」や「クセ」の伏流になっているのかも知れません。

□平家物語の異本、源平盛衰記は、源平の争いが主軸ですが、
他の戦記物と趣を異にして挿話、逸話がかなり盛り込まれているそうです。
「巻八、讃岐院事」に「さても西行、発心の起こりをたずねれば源は恋故とぞ承る。
申すも恐れある上臈(じょうろう)女房(宮中の高位の女官)を思懸かけ進らせけるを
「あこぎの浦ぞ」という仰せをこうむりて思い切り、無為の道にぞ入りにける」とあり
「伊勢の海あこぎが浦にひく網もたび重なれば人もこそ知れ」の歌がそえられています。
「この仰せを承って西行が読みける。思ひきや富士の高根に一夜寝て雲の上なる
月を見んとは。この歌の心を思うには、一夜のちぎりは有りけるにや」この能には
全くの蛇足ですが、あまりにも西行がかわいそうなので。
この西行伝説は、「古今六帖」の読人知らずの歌、「逢うこともあこぎが島に引く鯛の
たび重なれば人も知りなん」から作られたといいます。
定家と式子親王を連想させます。

□古今和歌六帖は、紀貫之が娘のために編んだとも、又貫之の娘、源順、その他、
いろいろな説があり、定説がないそうです。鯛という題でこの歌があるそうです。
この歌の「阿漕」は何か伝説がありそうですが、それらしきものはないそうです。
この能の「阿漕」という人物は、この能の作者の創作だそうです。
この集を「古今和歌集」と混同しないでと友人の忠告がありました。

□この能には網を引く場面が二つあります。
前場の終わりと、終曲の中入り後の二つです。
二つの場面は、全く意味が違います。
前場では、阿漕の化身が、この世での生業としての綱を引きます。
この場面に後場の地獄を暗示する演出が付加されます。「にわかに疾風吹き」と謡は
急変、激しい型が連続し、釣竿を投げ捨て中入となります。
能には、しばしば見られる演出ですが、中でもこの阿漕の中入は傑出しています。
見どころの一つです。

□後場は、阿漕の亡霊が四つ手綱を担いで現れ、綱を引くことへの執念を述べ
執心の網を引きます。この網を引く場面は「イロヘ」といい、謡はなく
大小鼓、太鼓、笛の演奏で舞われます。
いちばんの見どころです。「イロヘ」はカケリ、働き、立ち廻りなどとも呼ばれ
「働き事」と総称されます。
中には善知鳥(うとう)や山姥など、手の込んだものがあります。
「イロヘ」が終わるとシテは地獄の業火に焼かれる態で、網を投げ捨て
後見座へ行き一呼吸置きます。
ここまでは阿漕の亡霊がこの世に立ち帰って網を引くのですが、
この後はキリと呼ばれ、あの世の地獄のありさまです。
猛火に焼かれる焦熱地獄、酷寒のため身体が裂け、蓮の花に似るという紅蓮地獄
生前捕った魚が悪魚毒蛇となって襲いかかるなど、凄まじい地獄のありさまを
多彩な型で現出します。
重量感のある結末となります。

この能は名作の誉れは聞きませんが、解説書の多さは随一に近く、愛好者の多さを思わせます。
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