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09.30
Mon
*あらすじ
□紀州道成寺では、寺にはなくてはならない撞鐘が永い間失われたままでした。そこで久々に再興し、鐘の法要、鐘供養をすることになりました。寺僧は能力に、鐘供養には女人禁制であるとふれるよう申しつけます。そこへ白拍子と名乗る女が現れ、鐘供養を是非拝みたいと申し出ます。能力は断りますが、女は自分は他の女とは違う、面白く舞を舞うので是非拝ませて欲しいと懇願します。女の無気味な気迫に、能力は舞を見せる事を条件についつい許してしまいます。
 女は入相の鐘が響く落花の中、乱拍子を舞進めます。やがて夜に入り、人々の眠りを誘うと見るや舞は急調となり女は鐘に忍び寄り「思えばこの鐘恨めしや」と鐘を引き下ろし中に消えます。
 能力の報告を聞いた寺僧は、かつてこの寺で起きた鐘にまつわる恐ろしい話を物語ります。
 「昔このところに真砂の荘司という者があった。荘司には一人の幼い娘がいた。またその頃、奥州から熊野詣での若い山伏が荘司の家を定宿にし、娘に土産を与えたりなどしていた。荘司は娘可愛さにあの僧こそおまえの夫よと冗談を言っていた。娘は幼心に本当の事と思いこみ、年月を送っていた。ある年娘は何時まで私をこのままにして置くのか、今度こそ奥州へ連れて行けと山伏に迫ります。山伏は驚き、夜に紛れて道成寺に逃げ込む。寺僧達は、相談して鐘を下ろしその中に山伏を隠した。娘は一念の毒蛇となって、日高川を泳ぎ渡り鐘に巻き付き尾で叩いた。鐘はたちまち赤熱し、中の山伏も焼き殺されてしまった」。
 住僧たちは調伏の祈りを始めます。やがて鐘はおのずから動きだし、鳴り響き、再び鐘楼に上り中から蛇体が現れます。蛇体は杖を打ち振るい、鐘に炎を吹きかけ必死に抵抗しますがついに祈り伏せられ日高川の深淵に飛び入ります。

*物語の進行を追いながら
□この曲は、現在では廃曲になった「鐘巻」を改作したものだといいます。
 道成寺縁起を語る「クセ」などを削り「乱拍子」「急ノ舞」「鐘入り」を眼目に際だたせ、簡略化した作品です。最も大切にされた曲の一つであり、いろいろな演技、演出が考案され、みどころの多い作品です。技術的にも難度が高く、評価の目も技術の成否に向きがちですがドラマとしても秀でています。

□まず鐘が狂言方によって舞台に運び込まれます。
 その巨大さに圧倒されます。狂言方の流儀によっては、アドリブを交えながら吊ります。シテ方の流儀によっては、事前に吊るものもあります。女人禁制をふれ終わったアイは舞台を一巡します。結界(外道などの侵入を防ぐ境界)を表すといい、曲の雰囲気を作ります。

□シテは出囃子「次第」で登場します。囃子は特殊な「手」を打ち、シテは「ウロコ」形に出、鐘を見込み、舞台に入ります。常に鐘への執念を見せます。

□舞の始めは「乱拍子」です。シテは烏帽子をつけ橋掛へ出、鐘を見込み大鼓の急調の一調で舞台に走り込み乱拍子にかかります。大鼓は打ち止め、小鼓の一調になります。静寂な「間(ま)」を小鼓の打音と、鋭い掛け声が区切ります。シテと小鼓は、この「間」を計り合います。時折笛がいろどりを添えます。
 乱拍子は正式には十四段ですが、現在では八段に簡略され、この方が一般的です。「小書」古式では更に短く、六段です。乱拍子の中程で、シテは鐘を見上げ執念を見せます。以上は乱拍子の前半です。後半を「中ノ段」といいます。
 「道成の卿。うけたま。わり。始めて伽藍。橘の。道城興行の。寺なればとて。道成寺とは。名付けたりや。」の句を九ツに区切り謡いながら五段に踏みます。「間」は時間的に半分ほどに短くなります。

□乱拍子は、現在の「中ノ段」に見られるように謡をきれぎれに謡いながら鼓に合わせて足遣をし、足拍子をふんで舞台をまわるという、「白拍子」の芸を元に考案されたようで、金剛流では「墨染桜」など道成寺以外でも舞われた様です。現在では「住吉詣」に子方が乱拍子を踏むことがあるようです。この曲では毒蛇が寺の石段を登る様子だといいます。
 乱拍子の終わり、急の舞のカカリに「名付けたり、や、山寺の、や、」という難解な「や」があります。世阿弥時代には臨機応変に「や」「よ」など間投詞、詠嘆の助詞として使っていたといいます。これを演出として工夫したといいます。

□急の舞は能の舞の中で最も急調の舞です。いかに無駄な動きを省くかに意を用います。
 思惑通りの手順を一つ誤れば、舞は破綻します。舞の足拍子の代わりに身を屈めるに止めるのは人々の眠りを妨げない意といいますが
演者には時間稼ぎかもしれません。数分間の舞に、かなりの体力を消耗します。
□この曲のクライマックスは鐘入でしょう。五十キロにも及ぶ巨大な鐘がシテの頭上に落下します。狂言方六人が運ぶときの様子は演技でもあり、演技ではなしです。実際に重いのです。シテが飛び込んだ瞬間、鐘が落下します。ボクシングのカウンターパンチの状態になり、その衝撃は計りしれません。床に叩きつけられると首尾良く行った証だといいます。
 金剛流では、脇正面から対角線上の笛柱にいる鐘後見に向かって進み、落下する鐘に飛び入ります。タイミングが計りがたく、鐘後見は「手だれ」でなければ勤まりません。

□シテは鐘の中でワキの語りの間に装束を改めます。
 手順はお茶のお点前のようにきめられています。一つでも怠れば、時間切れとなったり舞台の上に置き忘れがあったりします。

□技術的にも最難といわれるこの曲には、更に二つの小書(異演出)があります。
 「古式」と「赤頭」の二つです。常の時、面は曲見、紅無唐織ですが小書では面、孫二郎、紅入唐織に変わります。中年の女から若い女に変わるということです。
 「古式」では烏帽子も金地静烏帽子から前折烏帽子になります。乱拍子は八段から六段に短縮され、足づかいが変わり鐘入の前の型にも変化があります。後シテの蛇体は赤頭になり蛇の脱皮をあらわすという鱗落としはシテ柱を巻くように舞台から橋掛り方面へ巻き、より生々しい演出になります。
 「赤頭」では、後シテは法被、半切姿となります。鐘の中でこれだけの装束を一人で付けることは、秘事、口伝があることは当然ですが至難のわざです。急の舞は常より長く五段です。さすがに上演は少なく、近年上演記録は全くありません。
 この二つの小書の名称は、いつの頃からか入替わったといいます。

□道成寺説話は平安末期、比叡山横川の僧が編纂した「法華経験記」の中の「紀伊県牟婁群の悪しき女」が始めだといいます。
 その後「今昔物語」「元享釈書」などに続きいろいろな文芸が生まれたといいます。「法華経験紀」「今昔物語」の内容はほぼ同じで女は寡婦とし、僧は「年若くして形貌美麗なり」とだけで出身地はありません。寺に押し入った毒蛇は「鐘を巻きて尾を似て竜頭を叩くこと二時三時なり。…毒蛇両の眼より血の涙を流して…本の方に走り去ぬ。…
 大鐘、蛇の毒熱の気に焼かれて炎盛んなり」。今昔物語以降、内容も変化を見せ豊になっていきます。「元享釈書」にいたり鞍馬寺の僧、安珍となり女は十六才の姫君にになったといいます。
 女が清姫となるのは近世中期になってからのようです。室町後期成立の「賢学草子(道成寺絵詞)」では内容がだいぶ変わって、因縁物語に構成されています。終末で、大蛇は鐘を叩き割り僧を巻き取り川に沈みます。日高川に飛び入るという能の結末は、これらから想を得たのでしょうか。

□下掛(金剛、金春、喜多)ではシテ女は中年の女性であり上掛(観世、宝生)は若い女性です。道成寺説話の前期の作品は「寡婦」、後期の作品は「若い女」です。下懸は前期の作品に、上懸は後期の作品に拠ったのかもしれません。「中年の女」と「若い女」では演技、演出上かなりの相違があるのは当然と思われます。
 この曲は、金剛流では若い時期には許されません。これは単に曲の重さだけではなく「中年の女」を演ずる重さ故でしょう。

□道成寺へは、JR伊勢本線道成寺駅から徒歩十分程です。この駅に特急は止まらないので、一つ手前の御坊駅から田圃の中を三十分ほど歩くのも良いでしょう。小高い森の中にあり、門前には土産物屋や宿屋が軒を連ねています。毒蛇が登ったという六十二段の石段を登ると、右に撞楼、跡正面に本堂、左の奥に寺務所があります。講堂では住職が「道成寺絵説き」を面白おかしく語ってくれます。寺には今も撞鐘はありません。鐘供養事件以来、近隣に災厄が続いたため寺は鐘を竹林に埋めたが豊臣秀吉の「根来攻め」のとき持ち帰ったといいます。
現在は京都の妙満寺にあるそうです。
 道成寺からは日高川が豊かな水をたたえているのが見え、海が近く海岸線は松林です。日高川を渡ると、南高梅で名高い南部(みなべ)です。世界にも聞こえた博物学者、南方熊樟や弁慶の故郷もこの地方です。
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09.21
Sat
回国修行の僧が奈良へ行く途中、宇治の里に立ち寄ります。宇治は名所の多いところで、里人に尋ねようと待っています。
やがて僧に呼びかけながら、老人が現れ、僧に数々の名所を教えます。折から朝日山に月が昇り宇治川の光景を写しだします。「山吹の瀬に影見えて、雪さし下す柴小舟、山も川も、おぼろ、おぼろと」、とした宇治川の致景を二人は賞美します。
老人は僧を平等院に誘い案内します。僧は扇の形に残された芝を見て謂われを尋ねます。 
昔、宮戦があったとき、敗れた源三位頼政が扇を敷き自刃した跡であると教え、ちょうど今日がその日に当たるといい「我、頼政が幽霊」と名乗るかと見えて消え失せます。
宇治の里人が平等院に遊びにやってきます。里人は僧に、頼政の謀反のいきさつ、平等院に布陣した事情、頼政自刃のことなどを話し、供養をすすめます。
僧は経を読み夢の中で頼政を待ちます。やがて僧体の頼政が甲冑を着て現れ、この戦で多くの人々が死んでいったが、思えば蝸牛の角の争いのように、愚かなことであったと述懐し読経を頼み、宮戦の模様を語ります。
「治承四年夏、頼政は以仁親王を奉じて挙兵するが、平家方の猛追撃を受け、三井寺を頼むべく落ちて行く。宮の疲労極限に、ひと先ず平等院に休息、布陣、宇治橋の橋板を外し敵を待つ。両軍は川を隔て矢戦を戦う。平家方の田原忠綱は三百余騎を指揮して激流の渡河を敢行、全騎を上陸させる。両軍入り乱れての激戦の末、頼みの強者も討たれ、敗戦を悟った頼政は「埋もれ木の、花咲く事もなかりしに、身のなる果ては、あわれなりけり」と辞世を残し自刃して果てた。」こう語って頼政の霊は、なお回向を頼み扇の芝の陰に消え失せます。

□源頼政は平安後期を代表する歌人藤原俊成に「いみじき上手」と評され、数の勅撰集にも入集、私家集も持つ程の歌人です。この曲の前場の美しい宇治の叙景はいかにもこの歌人にふさわしく、聞きどころです。

□後場のシテ、頼政は専用面の「頼政」と呼ばれる面を掛けます。法体を表す頭巾も頼政頭巾と呼ばれる専用頭巾です。頼政はこの時七十七の老齢でしたが、この面は憤怒を宿した中年の相貌のように見えます。
著名な歌人であり、二度も鵺退治をした武勇の人でした。平治の乱で源氏に呼応して挙兵しながら、後に平清盛側につきました。清盛の信頼厚く官位も破格の従三位に進みました。
こうした環境にありながら、勝算のない清盛打倒の挙兵は全くの謎とされています。複雑怪奇な頼政像から、この面は考案されたのでしょう。平家物語にも、この曲の間語りにも頼政謀反の理由が述べられますが、この能を見るたびに壮烈な割腹をして果てた三島由紀夫を思い出します。

□この能の後場は「働き」「立ち回り」などの舞もなく大半を床几(背もたれのない椅子)にかかって舞います。三井寺に落ちて行く様子、宇治川の両岸に対峙する兵馬のどよめき、田原忠綱の三百余騎の勇壮な渡河作戦を臨場さながらにみせます。能の迫力は舞台狭しと勇壮に舞うだけではないと言う見本のような例です。
09.21
Sat
幽玄して優艶。深い情趣と余情。史上稀な美女、楊貴妃の恋心を描く鬘物の大作。

□唐の皇帝、玄宗は、安禄山の反乱で都長安を逃れる途中、馬嵬が原で臣下の怒りを押さえきれず、寵姫、楊貴妃を殺させました。
安禄山の乱鎮圧後、長安に帰った玄宗は、楊貴妃が忘れられず、政務も手につかないほど嘆き悲しみ、方士に、せめて魂魄の在処なりともたずねるよう命じます。
 方士は天上、冥土、隈なく尋ね、ついに常世の国蓬莱宮まで来ます。
ここは豪壮な宮殿が連なり、漢の宮殿、唐の長生殿、驪山宮をもしのぐものでした。
方士は所の者から教えられ、太眞殿に貴妃をさがしあてます。
 貴妃は孤独を悲しみながらも、在りし日の玄宗との愛を回想し日々を送っています。
方士が玄宗の使いで来たことを告げると、貴妃は玉の簾をかかげて、その艶麗な姿を現します。方士が玄宗の歎きを伝えますと、貴妃は、こうして訪ねて来てくださるのはありがたいのですが、思いがさらに深くなり辛いのです、と言い涙にくれます。
方士は急ぎ帰って報告します。その証拠の物を下さいといいますと、貴妃は形見の釵を与えます。方士は、これは世の中に似たような物があるので信じないでしょう、帝と貴妃と人知れず約束した言葉があればそれを証拠にしましょうといいます。
貴妃は、七夕の夜、「天にあらば願わくば比翼の鳥とならん、地にあらば願わくば連理の枝とならん」と二星に誓ったことを話しました。
 方士が別れを告げますと、貴妃は思い出の羽衣の曲を舞うから、と方士を引き止めます。
そして人の生死について語ります。
 思えばすべての事は夢まぼろしのようなもので、はかない蝶の舞いのようなものです。
はるかな過去から果てしない未来へ流転輪廻をくり返し、生死の終わりはないのです。
人の生について考えると須弥山でさえ永くも千年で命は尽きるのです。まして人間界では老少不定の掟はさけられないのです。
 私はもと天上界の仙女でしたが、人間界の楊家に生まれて来ました。帝に召し出され後宮に入りました、など玄宗との愛の日々を語り、会者定離、こうして別れなければならなかったのですと語り、羽衣の曲を舞います。
 やがて方士は釵を頂き都へ帰っていきます。
 貴妃は、幽明境を異にする私達です。方士に伴われて玄宗のもとに帰ることはできないと打ち沈み、また一人常世の国の宮殿に残ります。

□この能はもっとも能らしい能といわれ「女能の第一である。装束など結構な物にし、立、居、舞など美しく、さして習事はないが、重々と舞うこと」とも言われる三番目物「かずら物」の代表作の一つです。かずらとは女性の髪のことです。
「定家」の式子内親王、「大原御行」の建礼門院とこの「楊貴妃」とを三婦人と呼びます。高貴な三人の女性ということです。この外の曲にも高貴な女性は登場しますが、曲の品格、格式のこともいっているのでしょう。
戯曲的にも優れています。昔から膾炙された「長恨歌」を巧みに、縦横に駆使した名文にしあげています。
この能のポイントは重厚さと品格です。前半は床几にかかり、さしたる型がないので謡に比重がかかり、工夫を要するところです。後半は終始、能の定型、基本の型を連ねて極めて静かに舞います。「道成寺」など型の変化や技術的に難しいものに比し他人から教わることの難しい「間」を克服しなければなりません。「技術」と「間」と両極の技を習得してその人なりの完成に近づくのでしょう。大曲といわれる所以です。

□この能の典拠、長恨歌は楊貴妃の死後五十年、玄宗の死後四十年、唐の大詩人白楽天の手によるものです。陳鴻の長恨歌傳に陳鴻、白楽天、王質夫、三人の遊山のとき話が玄宗、楊貴妃に及び互いに感嘆した。王質夫は酒杯を白楽天の前に挙げ、この物語を詩にしてくれまいかと勧めたとあります。その後白楽天は陳鴻に長恨歌傳を書かせました。

□楊貴妃は地方官吏の娘でした。17歳の時、玄宗の子と結婚、その麗姿が玄宗の目にとまりました。世間体から玄宗は楊貴妃を道教の尼にして改めて後宮にいれました。
 楊貴妃は美人というだけではなく、歌舞音曲にすぐれ「頭がよく口も巧みで帝の考えに先立って考えを見てとる」才女だったといいます。政治には無関心で妃の最高位、貴妃のなっても政治に口出しすることは無かったと云います。高宗の妃、則天武后が唐朝を一時簒奪、それに習うかのように中宗の妃、偉后が中宗を毒殺、政権を奪ったことはつぶさに知っていたでしょうが政権には全く無関心でした。ひたすら玄宗との愛情生活に没頭しました。 
□玄宗は712年、偉后からクーデターで政権を奪回、「開元の治」と言われる善政をしきました。性格、風貌ともに優れ、書、音楽をよくする芸術家的天分にも恵まれ、自らも楽器を演奏し「皇帝梨園弟子」という楽団を置いたことは名高く、歌舞伎界を梨園と呼ぶ語源になりました。この能にも引用されている「霓裳羽衣の曲」(げいしょうういのきょく)は玄宗が道士に伴はれて月宮(月にある宮殿)に遊び、聞いた音楽をもとに自ら作曲し驪山宮の夜遊のとき楊貴妃に舞はせたといいます。
政権をめぐって夫婦、肉親、争うことが珍しくない世相でしたが玄宗は兄弟仲がよく、そのエピソードがたくさん残っています。白楽天が長恨歌を作ったのも玄宗の人柄を慕ったからだと言われています。

□楊貴妃の最後は酸鼻を極めるものでした。異民族出身の安禄山は並外れた才知で官位を進め、一方楊国忠は貴妃の一族たるを利用して官位を進めました。二人は玄宗の恩寵と権力を争い、安禄山は楊国忠を討つという名目で反乱を起こします。反乱軍が長安に迫り、玄宗は長安を脱出、蜀へ向かいました。途中,馬嵬駅で恐怖、疲労、空腹など、兵士の怒りが爆発、楊国忠を殺しました。次いで貴妃の二人の姉妹などが次々に殺されました。それでも兵士の興奮はおさまりません。最後の決断を迫られ、窮した玄宗は詮方なく宦官、高力士に命じて貴妃に死を賜ります。高力士は仏堂の中で貴妃を絞殺しました。辺りに貴妃の装身具が散乱、無惨この上ない光景でした。貴妃38才。
09.21
Sat
□豊後の国(大分県)の僧が都の寺社、名所をめぐり五条あたりに来かかると、あたりの家の軒端から和歌を吟ずる声が聞こえ、女が出てきます。
 女は中国の故事を引いて男女の仲の儚さや、昔のはかない恋が執心となって成仏出来ず今なおこの世に行き迷っているなど独り言をいい、僧の前にやってきます。
 僧は女に由緒ありげなこの所の名をたずねます。
女は、「ここは昔、源融(みなもとのとおる)の邸宅跡、河原の院で、その後紫式部が「何某の院」と書いたところです。
このところで夕顔の上が物の怪に襲われなくなったところです 」と教えます。
僧は自分は豊後国の者だが豊後は夕顔上の娘、玉葛が母に別れて下った縁もあるので、夕顔の上のあとを弔いたい、なおさらに詳しい話しを聞きたいと頼みます。
 女は、五条辺りの粗末な家で源氏と夕顔上が夕顔の花の機縁で深い契りを結ぶようになったこと、その後、源氏に伴われて行った河原の院で物の怪に襲われ取り殺された恐ろしい話を語り、こうして夢ながら来て話すのです、と姿を消します。
 五条辺りに住む人が来て、僧に、源氏と夕顔のことを詳しく語り、夕顔上の回向をすすめます。
僧は月の冴えわたる中で法華経を読み夕顔上の霊を弔います。
やがて経に引かれて夕顔上が、ありし日の姿で現れ成仏を願う舞を舞い僧の回向で迷いを解脱して成仏出来たことを喜び明け方の雲に紛れて姿を消します。

□この能は源氏物語、夕顔の巻を典拠にした世阿弥の作品です。
この曲のクリ、サシ(クセの導入部)に「そもそも光源氏の物語。言葉幽艶を本として」
又「中にもこの夕顔の巻は殊に勝れてあわれなる」とあり、由緒ある本説(典拠となるべき物語、故事)を説く世阿弥には理想的な題材であったようで能作書にこのようなことが述べられているといいます。
世阿弥はこの作品に、かなりの自信を持っていたようです。

□この能は前場、後場とも「何某の院」が舞台です。
何某の院は風流人、源融(みなもとのとおる。能、融、参照)の旧邸「河原の院」です。
当時は住む人もなく荒れ果て物の怪が出ると恐れられていました。
 こうしたロケーションを背景に前シテは一声で「山の端の心も知らで行く月は」の和歌を口ずさみ次のサシで中国の故事を述べ想う人に去られる不安をもらします。
続くクセではこの「某の院」で物の怪に襲われる恐ろしい様子を語り終曲のキリでも荒涼とした「某の院」の情景が述べられます。
全編いいようのない寂寥感が漂います。
 この能は幽玄、優艶を本義とする「本三番目」ですが、他の三番目物とひと味違う狂乱の要素を含んだ、名作「野宮」と同種の作品のように思われます。

□類曲に「半蔀」があります。
同じ源氏物語、夕顔の巻を典拠にした作品です。
半蔀、夕顔、二つの曲は、いろいろな意味で対をなす作品といえます。
 半蔀は夕顔の花の咲く粗末な小家での源氏と夕顔上の邂逅と愛を情緒のベールをかけ
おぼろおぼろに描いています。
 夕顔は薄幸の女、夕顔の上が、はかなく非業の最期を遂げる物語です。
源氏物語「夕顔の巻」の源氏と夕顔の上との邂逅の前半が半蔀、死別の後半が
夕顔、ということになります。
 「半蔀」の作者は室町時代の細川家の家臣、内藤藤左右衛門といわれ、いわば素人作家、
「夕顔」は能の大成者、世阿弥です。
原文を多用して原典の内容を忠実に戯曲化しようとしているように見えます。

□長老の芸談に、「夕顔」はさびしすぎて趣を出すのが難しい能であるとあります。
 夕顔の巻で夕顔上を無邪気な子供っぽい女性としており、帚木の巻、雨夜の品定めで頭の中将は夕顔上を、弱々しく内気な女と評していますがこの曲の冒頭では、何某の院の名前に不審した僧に「さればこそ始めより、むつかしげなる旅人と見えたれ」と僧をとがめるところなどもあり、夕顔本来の人物像を思わせる描写が少なく感情移入が難しいところに戸惑うのでしょう。

□この能には小書(常の出演の一部を変えた演式)山之端出、合掌留があります。
前場のシテの出「山の端の心も知らで」を幕の内で謡い、序ノ舞の位が、中ノ舞
破ノ舞の位と変わります。
 本来この曲の舞事は序ノ舞又は中ノ舞としています。
序ノ舞は能の中で最もテンポの緩い優艶な舞であり、中ノ舞は中庸の位の舞です。
この能は某の院の恐ろしい中でのシテの心情が主題であり、王朝物ではあっても序ノ舞は無理があるという考え方から中ノ舞でも良いとしたのでしょう。
これを端的にしたのがこの小書です。
序ノ舞から中ノ舞、破ノ舞としだいにテンションを上げて行きます。
端ノ舞は心の高揚をあらわすテンポの速い舞です。
「山端之出」「合掌留」はセットで演ぜられ単独で演ぜられることはほとんどないようです。

□夕顔は通称「かんぴょう」変種に「ひょうたん」があり、よくしられています。
一般にウリ科の植物は黄花で朝開花するものが多いのですが夕顔は、夕方に白花を開かせ名の由来ともなっています。
「よるばな」の異称もあります。夜訪れ、受粉の仲立ちをする虫もいるのです。
インド・アフリカあたりの原産で古くから栽培していたようです。
しかし高貴の家には植えられませんでした。源氏が珍しがったのはそのためでしょう。
全草粗毛におおわれ、葉は大きく、夕顔の巻に「これに(扇)置きて参らせよ枝も情なげなめる花を」というのもそのためです。

☆★☆★源氏物語「夕顔の巻」源氏、夕顔、出会いから死別まで。梗概☆★☆★
その頃源氏は六条の御息所のもとへ通っていました。
その道すがら、たまたま病気の大弐の乳母(めのと)を見舞います。
その隣家のすだれ越しに美しげな女達が源氏の方をうかがっています。
源氏は、この家の板壁に蔓草が這い上がり白い花が咲いているのを目に留めます。
御随身に命じて一枝折らせます。家の中から少女が出てきて風情のない花なので、これに載せて差し上げて下さいと白い扇を差し出します。
扇には歌が添えてありました。
『心あてにそれかどぞ見る白露の光そへたる夕顔の花』
(あて推量ですが、源氏の君かと存じます。光は光源氏をさす)
源氏の反歌
『寄りてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔』
(近くに寄って確かめてはいかがですか)
源氏は乳母子で家臣の惟光に女の素性を調べさせます。
惟光の報告から、女は「雨夜の品定め(帚木)」で頭の中將が話した女のように思えてますます興味をつのらせ、女に近づきます。
源氏は身分を隠し顔も見せないようにして深夜通いつめます。
女は不安げな様子でしたが、身分を明かすことを求めませんでした。
源氏はこの女の内気で頼りなげな子供のような風情にすっかり耽溺します。
八月十五夜、源氏は夕顔の家に泊まります。
隣家からは卑しい人達の生活の声や物音、御岳精進(吉野、金峰山参籠の前の精進潔斎)の声まで聞こえ、源氏を驚かせます。
その夕方、源氏は夕顔を連れ出し某の院に行きます。
惟光、夕顔の侍女右近、御隨身二、三人が供します。
荒れ果てた庭園や人気のない邸内の奥深さは不気味です。
次の宵過ぎ夕顔は物の怪に襲われ取り殺されます。
源氏は右近の話から夕顔の素性を知ります。源氏の予想通り女は、頭の中將の話した女であり、頭の中將との間に子供(玉葛)がいることもわかりました。
夕顔は頭の中將の正妻の実家右大臣家の目を逃れるため乳母の家に姿を隠していたのでした。源氏17歳の夏から初秋。
09.21
Sat

熊野(ゆや)

カテゴリ:熊野
遠く離れた病身の母を想う美女の憂愁

□平宗盛は遠江の国(静岡)、池田の宿の長、熊野を都に留め寵愛しています。
熊野は故郷の病身の母が心配で度々暇を願い出るが許されません。今日も母を案じてうち沈んでいます。
折しも池田から侍女朝顔が老母の手紙を携えて上京します。
手紙は熊野の帰郷の懇願でした。熊野は宗盛に赴き、共に手紙を読みます。
―文ノ段― 母の手紙には、今年の春の桜をも待たず死ぬのではないかと泣いてばかりいます。
親子は一世の契りと云うのに一緒に暮らせないのは孝行の道に外れています。
よくよく事情を申し上げて帰って来てください、とあります。 熊野は帰国を懇願します。
 宗盛は、だからといって今すぐどうと云う事もあるまい、そう気弱ではいけない、気晴らしにと
熊野を清水寺の花見に伴います。熊野は失意のうちに花見車の人となります。
四条五条は着飾った花見の人の波、花は雲霞、まさに春爛漫です。失意の熊野には爛漫の桜も見えず、
花見の喧噪も聞こえず、ただうち沈むばかりです。
車は加茂川沿いから清水への道をたどり六波羅の地蔵堂、愛宕の寺、冥途に通じているという六道の辻、
火葬場の煙の見える鳥辺山、北斗星を祭る北斗堂、そして経書堂、子が親を尋ねると云う子安の塔をすぎて行く。
これらを見るたびに母のことが案じられてなりません。車はやがて清水寺に着き、熊野はそのまま観音の仏前にぬかずきます。
地主の花の下では酒宴がはじまり、御堂で祈る熊野を宗盛が呼びます。
宴席に連なる人々の接待をせざるを得ない熊野は、つとめて明るく振まい花をめで、
当座(即興の和歌)をすすめ、自らも清水寺からの眺めを謡い、舞います。
熊野は宗盛に酒を勧め、宗盛は熊野に舞いを所望します。熊野はしおしおと舞い始めます。
にわかに村雨が降り花を散らします。熊野は散る花が母の命のように思われ、扇で花を受け止めてまわります。
熊野は一首の歌を詠みます。「いかにせん、都の春も惜しけれど、馴れし東の花や散るらん」
さすがの宗盛も哀れに思い暇をあたえます。
これも観音の御利益と喜び、宗盛の気持ちが変わらないうちにと、花見の宴席からそのまま東国の故郷へと帰っていきます。

□俗に熊野、松風、米の飯といわれる名曲。詞章や、節付け、劇的構成に優れています。
老母の手紙を携えた侍女、朝顔の登場は舞台の展開に含みをもたせ期待感を誘います。
老母の手紙の場面は「文ノ段」と称して聞きどころです。抑揚を押さえた口説き調で切々と訴えます。
人々に親しまれた段でした。 
花見への出発では熊野の胸中との対比を見せます。
「車出アシライ」の急調の囃子に後見が花見車を持ち、走り出ます。
宗盛の急な命令に家来達が慌てふためき、牛がなき騒ぐ様子が見えるようです。
花見車の中のシテはあまり表情を見せません。心の中は重病の母のことだけからです。
春爛漫の街の喧噪や、道中の名所を地謡が軽快に謡い景色が手に取るようです。
クセの前後の詞章は特に絶品です。
クセの後半、シテは静かに立ち上がり、清水の舞台からの眺めを舞います。自ずと体がうごきだした風情です。
宗盛に所望されて舞う「中ノ舞」も心ここにあらざる態で舞います。
熊野の悲しみは極限に達し宗盛に和歌をしたためます。
「短冊ノ段」といい、懐から短冊を取り出し扇を筆にして書き付けます。
涙を誘うところで、演出に工夫の多いところです。
 舞台は熊野の憂愁から急転して喜びの帰郷の終曲へ。
幕際へ一気に駆け抜け、橋掛りをいっぱいに使い喜びを表現します。

□熊野のことは、平家物語、「海道下り」に、一ノ谷の合戦で捕らえられた平重衡が鎌倉へ護送されたとき、
池田の宿の長者が重衡に一首の歌を贈った。重衡が歌の主を尋ねると、平宗盛がこの国の国司だったとき寵愛していた人で、
宗盛が上京のとき都に連れ帰ったが国に老母を残していたので
ーいかにせん都の春も惜しけれどーと読んだ東海一の名人ですと答えたとあります。

□平宗盛は清盛の次男です。温厚で人に慕われた長男小松殿、平重盛の死後、平家の棟梁としと一門を率い滅亡に導いた人と云われています。かなり我が儘な人だったようで、例えば源三位頼政の子、仲綱の名馬「木ノ下」を無理に召し上げ惜しむ仲綱の面当てに公衆の面前で恥をかかせ、後に頼政謀反の遠因になったと平家物語にあります。
09.21
Sat
□険阻な戸隠の山中。満山紅葉の中、岩陰に幕うち廻し紅葉狩の酒宴半ばの妖艶な上﨟風の女と侍女。
平維茂は、鹿狩りへ向かう途中、この酒宴の場に来かかります。
貴女の酒宴に心遣いして馬を下り路を替えて通り過ぎようとします。
女は維茂に言葉をかけ酒宴に誘います。
 維茂は女のあまりの美しさと舞に盃を重ね陶然と酔い伏します。
女は「夢ばし覚まし給うなよ」と言い残し岩陰に身を隠します。女は維茂の命を狙う鬼でした。
 やがて男山八幡の末社の神が現れ神剣を授けます。
 夢から覚めた維茂は身の不覚を恥じ、神剣をおし頂き、身構えると、雷乱れ落ち
天地に響き渡り、烈風吹きすさみ、身の丈一丈、火木の角、日月のように輝く眼の鬼神が現れます。
維茂`は神剣を抜き激闘の末、鬼神を退治します。

□この曲は五番目物、切能と称して、一日の能会の最後に演ぜられる能です。
宗教的、哲学的、又は哀切な内容の能のあと、観客の心をほぐす効果をねらった作品です。
平維茂の命をねらう鬼が鬼女に変身して籠絡し、ついには鬼の正体を現し死闘をくりひろげるという物語で、
前場は情緒的な三番目、鬘物的で情緒性は一級品です。
視覚的にも音楽的にも楽しい五番目物です。鮮やかな舞台転換の妙は比類がありません。
 まずシテの高貴な女性と侍女が登場し、満山、盛りの紅葉の景色を我が身にたぐえて謡います。
 その詞章と節の美しさは古来小謡として愛唱され、昭和天皇の皇后もよく謡われたと聞きます。
 鹿狩りに向かう維茂一行の謡は、武将らしく強吟で謡い、鹿狩りへの期待が明朗闊達に謡われ
見所にも浮き立つ気分がみなぎります。
 女はこの維持を誘惑します。「恥ずかしながらも袂につがり留むれば」と能では珍しい妖艶な型があります。
維持も「さすが岩木にあらざれば心弱くも立ち帰る」と酒席につき「紅深き顔ばせの」
「この世の人とも思われずと、あっさり籠絡されてしまいます。
 酒宴の場はサシからクセ(能の中心部分)で仏説の飲酒戒を引いて、美しい詞章で謡われます。
クセから中ノ舞へ優艶な舞は突然急調となり鬼の片鱗を見せます。
刻々と過ぎる時の流れと共に女の変身が見事です。
 シテが岩陰を擬した作り物に入ると間狂言、男山八幡の末社の神が登場します。
維茂は鬼退治の勅命を受けて戸隠山に来たと説明します。能の本文の中では、維茂は鹿狩りとだけで
場所も険しい山とあるだけです。
維茂も鬼と同じく変装してたことになり、酒宴の場を考え首を傾ける向もあるかも知れませんが能は促われず自由です。
 この前場があって後場の鬼の出現の場面転向がいっそう際だちます。
鬼は「或いは巖に火焔を放ち又は虚空に焔を降らし」と、今時の怪獣映画を凌ぎます。
この鬼は討たれて然るべき邪悪な鬼であって心の負担もなく鬼退治の活劇が楽しめます。

□後シテの面は顰(しかみ)を使います。男の鬼という設定です。
前シテの優女、後シテの男の鬼という想像の落差が面白いところです。
顰はただ邪悪な鬼であり人格を離れた獣的性格を持った鬼です。
 般若を使う流儀もあります。鬼女という設定です。般若は人の情念の形象であり、
ついには成仏得脱の身となるというのが一般的です。曲の理解の相異でしょう。
□戸隠山は長野市の西10キロ程のところにある2000メートルほどの岩峯で、紅葉の名所です。
戸隠宝光社の奥社があり、ここから眺める岩壁の紅葉は見事です。
この戸隠山塊の西にある荒倉山の山中がこの能の舞台であるといいます。
鬼女が維茂に討たれたというところにはキャンプ場があり、立派な能楽堂も建っています。
鬼女達が酒宴を開いた毒の平や鬼女の岩屋なるものもあり、各々案内の看板が立ててあります。
 隣の鬼無里村(きなさ)に鬼女伝説が伝わっています。「都の紅葉という上﨟が戸隠山に流され鬼無里に住みついた。
報復に山賊を働き平維持に討伐された。以来この村を鬼無里と呼ぶようになった」とあります。

□鬼無里村の県道のほとりに維持が紅葉討伐に向かう途次に戦勝祈願をしたという
小社ながら国指定の重要文化財、白髭神社があります。

□平維茂は平安中期の武将で鎮守府将軍。信濃守、出羽介などを歴任しました。
陸奥の豪族藤原諸任を討った説話が、今昔物語にも見え一方信仰深く源信、恵心僧都に帰依したことで知られました。
09.21
Sat

六浦(むつら)

カテゴリ:六浦
「六浦」は横浜市金沢区にある地名です。あまり聞き慣れないが、当時は都の人も知る地名だったのだろう。対岸の安房に渡る港があったのであろうか。
 都の僧が東国、陸奥行脚の途次、六浦の里から安房の清澄寺へ渡ろうとしていると、あたりに由緒ありげな寺があります。聞くと金沢の称名寺といいます。立ち寄って見物することにします。おりしも晩秋。あたりの山は、全山紅葉の真っ盛りです。寺の庭に、ひときわ立派な楓の木があります。不思議にも一葉も紅葉せず青々としています。折よく里の女が来合わせ、僧に楓の木の不思議な話をします。
 昔、鎌倉中納言為相の卿が紅葉狩りにこの寺を訪れた。紅葉の 季節にはまだ早く、紅葉は未だしだったが、寺のこの楓一本だけが 類なく美しく紅葉していた。
為相の卿は「如何にしてこの一本に時 雨けん、山に先立つ庭のもみじ葉」と詠んだ(木々の葉は時雨を得て紅葉すると考えられていた)。楓の木は、この東国の片田舎にありながら、為相の卿ほどの歌人に詠まれる名誉を得たのだから「功なり名遂げた上は、身を退くのが天の道」という老子の教えを守りその後は紅葉するのを止めた。
里の女はこう話し、実は私は、この楓の精ですと明かし、咲き乱れる秋の千草の花をかき分けて姿を消します。
 僧達は称名寺の名に感じながら、称名念仏し経を読みます。秋の夜も更け、月明かりの中に楓の精が現れます。楓の精は草木の心について語ります。
 草木は四季折々、時を違えることなく花を咲かせ、秋には紅葉をみせます。草木にも心があるからですと語り、中陰経の「草木国土悉皆成仏」の仏果をよろこび、風に散り舞うもみじ葉のように華やかに舞い、明け方の木の間に見え隠れする月の光にまぎれて消えうせます。
◆シテは、楓の精を擬人化した若い女性です。人間の愛憎、 心の葛藤を離れた、観る人の心の負担のない清澄な曲です。この能を観ながら、時には舞台の流れを離れて、今まで旅先などで見た山や川や湖、草や木のありさまを思い出したり、空想の中に遊んだりもいいのでは。能は場面を限定、固定せず自由です
草木の精は人間の自然に対する想いの凝縮、人の心のやさしさの発露だろうから時には俗世を離れ、もとの人間に立ち帰る「時」を持つことも大切かもしれません。。情報過多に疲れた現代人には癒しの能ともなるでしょう。
 この能には観る人の空想をかき立てるもう一つの要因があります。
この類の曲のシテは、華やかな装束をつけて舞うのが常ですが、この曲は紅葉しない楓の精で、後場に「更け行く月の夜遊をなし、色なき袖を返さまし」と舞の「かかり」にあるように、無紅(いろなし、赤い色を控えたの意)、の装束をつけて舞います。
若い女性に無紅の装束が興味をひきます。時を重ね、代を重ねて磨かれた審美眼、センスの所産の装束、これもみどころの一つです。

◆ 本曲の出典とされる「いかにしてこの一本に時雨けん山に先だつ庭のもみじ葉」の歌の詠み人、藤原為相は藤原定家の孫で、俊成は曾祖父です。母は「十六夜日記」の作者、阿仏尼という類希な家に生まれました。為相の領地相続訴訟のため母、阿仏尼が鎌倉に下った時、母をしたって鎌倉に下り、鎌倉の歌壇を指導するなど主に鎌倉で活躍しました。
家集に「藤谷集」があり「いかにしてこの一本に時雨けん」の歌もおさめられています。 この歌は、題しらずとなっており、称名寺の楓を詠んだ歌ではないようです。時を経て称名寺の楓の歌であるとなったのでしょう。「藤谷」とは鎌倉の異称です。為相はのちに冷泉家の祖となり冷泉為相と呼ばれました。

◆本曲の舞台、称名寺は横浜市金沢区にある眞言律宗の寺で、一二六七年北条時実の建立です。鎌倉幕府以降、足利氏、小田原北条氏の庇護を受け江戸時代には百石の朱印寺として栄えました。現在でも国宝数点、重文三十数点を持つ名刹です。境内に、これも北条時実が創設した、世に名高い「金沢文庫」があります。時実以降四代にわたって収集された仏典、国書、漢籍は数万巻に及び当時の僧侶、武士に利用された私設公開図書館だったという。「徒然草」の吉田兼好も京から遊学したと伝えられています。
その後、上杉憲実、豊臣秀吉、徳川家康らに持ち出され、散逸しましたが昭和期に入り徐々に集められ、和漢の珍書、二万三千、古文書四千通に及ぶという。

◆このあたりは古くからの景勝の地で、現在でも「金沢八景」の名が残っています。名付け親は明の僧、心越禅師が能見堂からの景観を詠んだ「武州能見堂八景詩」からの命名だといいます。安藤広重の「武州金沢八景」で更にその名は広がりました。八景の中に称名寺の名鐘「称名寺の晩鐘」があります。金沢八景とは「内川の暮雪、小泉の夜雨、瀬戸の秋月、州崎の春嵐(晴れた日の霞)平潟の落雁、野島の夕照、乙艫の帰帆、称名の晩鐘」。現在は開発が進み、首都圏に呑み込まれ、往時の景色をしのぶべくもありません。

◆二条派の歌人、尭恵(じょうえ)法印が文明十七年(一四八六年)から翌年にかけて、美濃の群上から越中、越後、草津、佐野を経て鎌倉に至る紀行「北国紀行」に「金沢に至りて称名寺といえる律の寺(眞言律宗)あり。昔、為相の卿、「いかにして此一本に時雨れけん山に先立つ庭のもみじ葉」と侍りしより後は、此木 青葉にて玄冬まで侍る由聞ゆる楓樹、朽ち残りて仏殿の軒に侍り。「先立たばこの一本も残らじとかたみの時雨青葉にぞ降る。」とあります。
尭恵が為相を偲んで歌を詠んだことは本曲のワキとよく似ています。
これは文明十八年の早春のことであり、楓の紅葉、時雨は晩秋ものですが、常人に非ざる歌人なればとすべきでしょうか。
09.21
Sat

三輪(みわ)

カテゴリ:三輪
◆大和の国(奈良県)三輪山に侘び住まいしている玄賓僧都を、毎日樒(きしみ)、仏前に供える水を持って訪れる女がいます。
ある日、女は僧都に衣を一枚所望します。僧都が衣を与え住家をたずねると「我が宿は三輪の山もと恋しくは、訪ひ来ませ杉立てる門」と古今集の歌を引き、そのあたりですと答え消え失せます。
三輪明神へ日参の所の人が神前の杉の枝に僧都の衣がかかっていると知らせます。
僧都は草庵を出、衣のかかっている杉に行きます。杉に懸っている衣の褄には金色の文字で神詠が書かれていました。僧都が歌を詠み上げると二本の杉の間から妙なる声が聞こえ、三輪明神が姿を現します。そもそも神は濁世の人々を救うため、この世に現れしばしは人と同じ心を持つのだと三輪の神話を語ります。
「大和の国に年久しく暮らしていた夫婦があった。しかし夫は夜だけ通って来る。不審に思った妻がそのわけを尋ねると、実は自分は恥ずかしい姿をしている、昼間はその姿が露わになるからだ。もうあなたとの縁も今夜限りだと云うと、別れ惜しんだ妻は、夫の帰り先を知ろうと、苧環の糸に針をつけ夫の衣の裾に縫い付け、その糸を辿って行く。糸は三輪の神垣の、杉の下枝に止まっていた。こうして妻は夫が三輪の神であることを知った。苧環の糸が三巻残っていたので「三輪のしるしの杉」というのだ」
三輪の神は上人を慰めようと神代の、天の岩戸での舞「神楽」を舞い、「岩戸開き」、の様子を見せます。やがて夜も白々と明け僧の夢も名残惜しげに覚めていきます。

◆後見が杉の作り物を持ち出します。
作り物の上の、左右の杉玉は二本の杉、ご神木の標(しるし)の杉、を表しています。三輪の神前と玄賓の庵が同じ舞台にあり、不自然ですが舞台の都合です。心得て頂くところです。
 ワキ玄賓は桓武、平城天皇が帰依する程の高僧でしたが「世を厭う心深く三輪河のほとりにわずかなる草庵を結び」住んでいたといいます。こうした玄賓の寂寞とした庵のたたずまいが詩情をもって語られ庵を訪ねるシテ三輪の神の化身を神秘的にえがきます。
シテは面、曲見(しやくみ)色無(赤色のない)唐織着流しで、中年の女性で、この場面にふさわしい出で立ちです。
女が所望した衣は、寒さを凌ぐためではなく後に僧都をしるしの杉に導き、女の正体示すためです。クセの、苧環をたどり夫の正体を知る話と対をなしていると見ても味わい深い。
シテは作物の中に入り中入になります。
後見が玄賓にもらった衣を作物の内から外に掛け置きます。
杉の枝に衣がかかっている風情です。シテは作り物の中で装束を改めます。
 シテ、三輪明神は女姿で現れます。頭に頂いた金風折烏帽子が男装を示しています。
クセは三輪明神の神婚説話です。苧環の糸を男の着物の裾に縫いつけ、糸をたどって行くなど説明的ですが珍しい型があります。
 この能では終曲に「伊勢と三輪の神、一体分身」とあり、伊勢の神は「天照大神」で女神ですので三輪の神も神女であるとします。しかしクセでは古事記などの伝承に従って男神です。女神が自分の物語りを男神にして語るという混乱があります。また神は男女、両性を持つという説もあるようです。
クセが終わると、玄賓僧都を楽しませようと、天の岩戸の説話が展開されます。
シテは幣を打ち振り神楽を舞います。
神楽は、日本の神々を主題とした能で舞う、旋律とリズムに特徴がある優美な舞です。
神楽を舞い上げて「岩戸開き」です。作り物の杉の木立は岩戸に変わります。変化に富んだスピード感のある終曲です。

◆三輪の神婚説話は古事記、崇天皇の頃、江談抄、旧事記にあるそうです。
本曲は、俊頼無題抄によるといいます。
「昔大和の国に男女が住んでいた。年を経ても昼間は居ず見ることがなかった。
女がその体を見たいと言うと、男は見ると恐れるだろうがそれでもよければ御櫛笥の中を見よと言って帰った。女が御櫛笥の中を開けてみると小さな蛇が蟠っていた。その男は又来て自分の本当の姿を見て恐れのだからと女に別れを告げるが、さすがに女は別れがたく狩衣の裾に荢環の糸をとじつけ、その糸をたどって行く。糸は三輪の神垣に続いていた。」
今でも三輪明神のご神体は蛇身であると信じられているようで参拝者が好物の卵を神前の杉の根本に供えています。

◆玄賓僧都は、平安初期の法相宗の高徳でした。名聞、利養を嫌い三輪山に小庵を結び隠棲しました。
一族の道鏡が称徳天皇に媚るを嘆き更に遠く伯耆(ほうき)の山奥に隠れました。時には馬子となり、又渡し守となって眞の菩蔀行を修行しました。
たまたま桓武天皇が病を得、宮中に召されました。さすがの玄賓も逃げられないと思い鉢嚢一つを負い、上京し桓武天皇のために祈り病を除きました。
のちに平城天皇の厚い帰依を受け僧官を授ようとしましたが、これを伝え聞いた玄賓は備中湯川寺に逃げました。八1八年寂、八十九歳。
港間の俗説であろうが、越後で渡し守をしていたが弟子に見つかりここも危うしと姿をくらまし以後、行方知れずとなったとも。

◆「岩戸開き」は日本の神話の中で最もなじみ深い神話です。
「天照大神(あまてらすおおみのかみ)の弟神、須佐男尊(すさのおのみこと)の悪行に天照大神は天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまいました。たちまち世の中は暗闇となります。神々は岩戸の前で話し合います。
天鈿女命(あめのうずめのみこと)があられもない姿で舞い始めました。岩戸の外のあまりのにぎわいに、大神は岩戸を少し開き、外の様子をうかがいます。待ちかまえていた大力の手力雄命(たじからおのみこと)が大力で岩戸を引き開け大神を岩戸の外に連れ出します。世の中は再び明るくなりました」
09.21
Sat
人買人の手に渡ったわが子、千満の行方を求めて母は故郷、駿河國(静岡県)を出、清水寺に籠もり観世音菩薩に祈願をこめます。祈りながら眠りに落ち入った母にお告げありました。「汝思う子を尋ねば三井寺へ参れ」と。
―中入― 
すでに狂乱となった母は三井寺に急ぎます。志賀の山越えをして我が国の霊鷲山に例えられる比叡山を遙かに拝み近江八景の、唐崎の一つ松、花園の里を過ぎ三井寺に着きます。  
三井寺では折から八月十五夜、講堂の庭に住僧や稚児達が集まって月見をしています。 
三井寺から見下ろす十五夜の琵琶湖の眺めは格別です。粟津の森、鏡山が月にくっきり浮かび、山田矢走の渡し船も客はなくても今にも漕ぎ出す風情です。
能力が後夜の鐘を撞きます。鐘の音のおもしろさに母、狂女も鐘を撞こうとします。寺僧に咎められますが狂女は中国の故事「昔ある詩人が月の詩を作った時、名句が浮かんだが後句に詰まった。そこで名月に向かって心を澄ますと後句が浮かんだ。あまりの嬉しさに高楼に登って鐘を撞きこれは詩狂だと言った。」と寺僧を説き鐘をつきます。
狂女は鐘の音を色々の仏説にたとえて舞い狂います。―鐘の段―
狂い覚めた狂女は和漢の詩歌や夫婦、恋人との別れの時に聞こえた鐘の音の歌をしみじみ思い出します。―クセー
千満は狂女が母であることに気づき寺僧に國里を問うよう頼みます。千満の声を聞いて狂女は駆け寄り寺僧は制止します。千満は住僧に今までのいきさつを語ります。親子は観音の導きと、鐘の縁で再会を果たし相伴い故郷に帰ります。

□能は曲趣によって五つに分類されています。三井寺は四番目、「狂い物」と呼ばれます。「狂い物」は我が子、夫、恋人、主君などを求めて狂いさすらうというのが主題です。舞も謡いも“物狂い”らしく工夫して作られ、作詞作曲されています。分かりやすく共感のもてる親しみやすい、いわゆる面白い作品が多い。これらは「三番目」の後に演ぜられます。三番目物は、男と女の葛藤、心の奥底をえがく作品が多く観能のあと疲れます。あとの“癒し”を狙った作品群と云えます。
□三井寺は“月と鐘”の能といわれ“物狂い”は作能のうえの方便であるとさえいわれます。月や鐘にまつわる漢詩や和歌が随所に引用され、適所に巧みに運用されています。引用された歌の本来の叙景、情景の域を超えてドラマに深みと拡がりをみせています。謡曲文学の優れた特質です。

□能の狂乱はいろいろなことがらに触発された一時的な心の昂揚であるといわれます。あるときは乱れ、あるときは正気ということです。
前場のシテ、母は思いつめた様子で登場し観音のお告げを受けしずかに退場し狂乱の予兆をみせます。後シテの登場から三井寺えの道行、月下の三井寺からの眺望、鐘を撞くことのワキ僧との問答と、次第にシテの心は昂揚していき鐘を撞く「鐘の段」で最高潮となります。こうした心の昂揚の過程でシテは色々な節、例えば強吟という音楽性を抑えた節などを駆使して謡い、自由奔放とさえ見える程に舞います。「鐘の段」では撞き紐を取っ舞い狂乱の山場をつくります。作り物の鐘楼が舞台に色をそえます。一転してシテは狂い覚め、鐘にまつわる詩歌に想いを馳せる「クセ」をじっくり聞かせ、親子再会の終曲に導きますます。正気と狂気を謡い分け、舞い分けます。「狂乱物」の魅力です。三番目物の後に“うってつけ”です。終曲の親子再会は他の曲では比較的サラリ、ですがこの曲では親の子への思いを濃密にえがいています。子の肩を抱き幕に入るのが印象的です。

□能の狂女は我が子、恋人などを探して旅をします。女の一人旅は、とかく危ないこともあったでしょう。また我が子、恋人などの情報を聞くために人を集めて舞い狂う「狂乱」を見せたのかもしれません。能、【隅田川】に「かの者(狂女)をあい待ち、舟に乗しょうずるにて候」とあります。この船頭のように所の人たちは弱い立場の人を助けたのでしょう。
昔の日本人の優しさが想われます。
09.21
Sat
菊の霊酒を飲み七百歳を保つ少年が帝の治世を寿ぎ「楽」を舞う。

□周の穆王に仕える少年、慈童は不敬の罪を問われ、野獣の住む深山、麗県山に流されます。
時は移り七百年後、魏の文帝の世となります。文帝の臣下が麗県山から流れ出る薬の水の源をたずねて山に分け入ります。
山中の小屋には慈童が七百年を経てもなお少年のままの姿で昔を回想しています。勅使はその姿に驚き数百年も生きた者はない、化生の者であろうと訝ります。慈童は穆王から拝領の枕を見せ、枕に書きつけた二句の偈を菊の葉に書きつけ、その葉から滴り落ちた露を飲み、七百歳の齢を保ったと語りこの菊の酒を自らも飲み、勅使にもすすめ「楽」を奏し帝の治世が千年、万年も栄えるようにと祈り七百歳の齢を授け、群れ咲く菊をかきわけ仙家に入ります。

□ワキ勅使は、唐冠に狩衣姿、ワキツレは洞烏帽子に赤地狩衣姿(赤大臣といい初番物ではきまりの出立)で、他の脇能物(初番目物)と同装です。ワキの唐冠は舞台が中国であることを示しています。
人跡未踏、虎や狼の住む深山にこの正装は「よりリアルに」に馴れた私達には奇異に見えるでしょう。能では「雰囲気作り」「より美しく」を貴び、すべてに優先します。
これによって祝言色が横溢するのです。シテの面は「童子」又は本曲専用面の「慈童」をかけます。この面は永遠の若さを象徴し、神性を帯びた面だといわれています。
頭には「黒頭(くろがしら)」をつけます。人の形でありながら人格を離れた、妖精、幽鬼や鬼畜などに用います。
この曲の見所は「楽」です。唐物(中国に関連するもの)に舞われる舞で、大陸的なおおらかな舞です。独特なリズムと、足で床を踏む、足拍子を多用するのが特徴です。一畳台に皇帝拝領の枕を置き、回りを菊花でかこみます。季節には生花を使い能楽堂は菊の香に充ちます。

□菊は中国渡来の花です。花屋で売られている花は、ほとんどが外国で交配して作られたものが元になっています。元来、日本人は交配が嫌いな自然派のようですが、菊は格別のようです。奈良時代に渡来、江戸時代に改良が進みました。皇室の紋章も菊です。野生種に、イソギク、ハマギク、ノジギク、リュウノウギクなど、きれいで可憐なものがあります。食用のヨモギ、フキ、春菊や野の花の代表タンポポも仲間です。

□本曲は太平記巻十三「法花二句之偈事」に拠るといいます。
「二句の偈」要旨
周の穆王は天馬に乗り辺地までも巡行した。あるときインドに赴き釈迦の説法を聴聞し、法華八句の偈を授けられた。
王が寵愛していた慈童という少年があった。あるとき慈童は誤って王の枕を跨ぎ越え、その罪により深山に流された。
哀れんだ王は八句の偈のうち二句を慈童に授け毎朝この文を唱えよと教えた。
慈童は、もしかして忘れる事もあるかと思い、菊の葉にこれを書き付けた。
この菊の葉に結んだ露が流れ落ち、流れの末の川の水が甘露の霊薬となった。
慈童はこの水を飲み、八百年を経てなお少年の容貌を保ち、換骨羽化の仙人となった。
魏の文帝のとき、帝に召し出されて「彭祖」と名を変え、この偈を文帝に授けた。
文帝はこの教えを受けて菊花の杯を伝え万年の長寿を祝福した。
今の重陽の節句はじめという。

□慈童説話は皇室と仏教のかかわり合いから生まれたといいます。
中世のかなり初期から「即位潅頂」というものが行われ天皇の王位継承のとき、即位の仏教的儀礼化、教義的説明を行ったといいます。
のちに「穆王説話」がこれに附加され流布し、更に慈童説話が加わったと言います。
本曲は、成立当時、慈童が罪を犯し麗県山に流される前場があり「四番物」として上演されていました。現在は小書き「前後の習」に残されています。
これらを考え合わせると「即位潅頂」をかなり意識して成立した作品であるともいえます。
専制君主国家のもとでは、英主の出現が民の幸福を左右することであったし、待たれたのです。本曲の典拠ともいわれる太平記「法花二句の偈」でも、この故事を引いて時の天皇を万里小路藤房が諌めたことがみ見えます。

□穆王が神仙と交わったとする説話は漢籍の竹書紀年・列子・穆天子伝に見えるそうです。この中国の神仙が、釈迦に取って替わり「即位潅頂」に取り入れられ、これに更に慈童説話が付加されたといいます。慈童説話は、我が国でつくられたようです。その契機となったものは漢詩文であるといいます。「風俗通」に「南陽の麗県に甘谷あり山中に菊花開き谷水は甘美にして谷中の三十余家これを飲むに長寿を得たり」とありこれをもとに漢詩文が作られたといいます。
魏の文帝が鐘ヨウに一束の菊を賜った故事(芸文類聚)や、彭祖という仙人が菊を服し七百歳の長寿を保った(列仙伝)故事が和漢朗詠集に詠まれるに至って広く流布しました。
これらから慈童説話が生まれたらしいといいます。
慈童説話の初見は鎌倉中期の眞言宗の学匠、頼喩の「真俗雑問答鈔」に見えるそうです。

□金剛流の小書に「前後の習」があります。
慈童が罪を犯して麗県山に流される場面が前場で現在演じられている場面が後場となる復式能です。この「前後の習」が本来のものだったようです。
徳川の中期に前場を削り、更に祝言色の濃い作品に仕立てました。他の流儀では同じ内容で異曲の「枕慈童」もありますが、上演は稀のようです。
09.21
Sat
□巫女に乗り移る神、神と人との異次元の物語。
千疋の巻絹を熊野三社に納めよとの宣旨をうけ、勅使が熊野に下向して諸国からの巻絹を集めます。
都から巻絹を納める男が途中、音無天神に参詣します。折しも冬梅の香りが聞こえてきます。男は心の中で和歌を詠み天神に手向けます。「音無に、かつ咲き初むる梅の花、匂はざりせば誰か知るべき」音無天神で思わぬ時を費やしたため男は納入の期限に遅参してしまいます。勅使は男を咎め縛らせます。
 やがて神がった不思議な様子の巫女が現れ、その男は私に(音無天神)和歌を手向けたために遅参したのです、縄を解けと命じます。勅使は下賤の者が和歌など詠む筈がないと疑います。巫女はその証にと手向けの和歌の、上の句を男によませ、下の句をつけます。勅使の疑いを晴らした巫女は自ら男の縄を解き、和歌の徳を語り婆羅門僧正と行基菩薩が和歌を詠み交わしたことや神々の和歌を教えます。
 巫女は勅使の求めに祝詞を奏上し、神楽を舞います。巫女の神憑りは次第に激しく「高足下足の舞いの手を尽くし」て舞い狂い、やがて神は上がり巫女は正気にもどります。

○ひとこと
  千疋 一疋は反物二反
  巻絹 軸に巻いた絹の反物。当時は超貴重品。この能では折り畳み竹に挟む。
  神楽 女体の神や巫女の舞い。笛、小鼓、大鼓、太鼓の囃子で舞う。弊を持って舞い後半、笛の譜が変わりシテは弊を扇に変えて舞う。リズミカルで雅な舞。 

□この曲は和歌の徳(恩恵)を軸に展開されるドラマ性の高い能です。和歌は古代から行われている日本固有の詩歌で、神をすずしめ、人を幸せにすると古今集仮名序にあり、能の主題の花形の一つです。この曲では「クセ」で和歌の徳が語られます。
 前半の主役は巻絹を納める都の男です。音無明神に敬虔に祈り和歌を手向けます。凜とした寒気のなかに梅の香りが清らかです。男も清らかにみえます。男を責める勅使の怒りが鮮烈です。
 男は下賎の人です。和歌を詠むには和歌四式など、教養なくては詠める筈がないと勅使が疑うのも至極当然です。男は神に救われます。男が神に和歌を手向けたことや、クセの前置きに述べられる「神は人の敬いに依って威を増し、人は神の加護によれり」に拠ってです。
 神は巫女に乗り移って現れます。つまり巫女は神と巫女の二つを持っています。神は男の縄を解き、和歌の徳を述べます。巫女は祝詞を奏上し神楽を舞い神をすずしめます。

 ○ひとこと
クセ 流麗な文辞で綴られ、一曲の中心をなす。室町時代の芸能、曲舞を取り入れた。 
□巫女が舞う神楽と、巫女に憑いた神が巫女から離れる、キリと呼ばれる終曲部がこの曲の見どころです。特に神楽は、通常は途中で笛の譜が変わりますが、この曲の神楽は総神楽と称して笛の譜は変わらず、終わりまで弊を持って舞い通し、神憑りを強調します。  総神楽は重く扱われます。
「不思議や祝詞の巫女物狂」と巫女の神気はいよいよ昂ぶり熊野全山の神々が巫女に憑き、舞い狂い「高足下足の舞いの手を尽くし」と絶頂になり、いきなり巫女は弊を投げ捨て神は上がり巫女から離れます。劇的な結末です。高足下足とは当時の舞いの型(振り)の名称でもあろうか。
09.21
Sat
□源義経の愛妾、静御前の霊が若菜摘みの女に乗り移り、義経が兄頼朝に追われ雪の吉野
の山中を逃げ惑う苦難、捕らえられた静が頼朝の面前で義経追慕の舞を舞ったことなどを題材にした作品。同装の憑依の女と、静御前の霊が影のように寄り添うごとく舞う相舞が見どころ。静は白拍子、聞こえた舞の上手でした。出典、義経記。

□吉野勝手神社では正月七日、若菜を神前に供えることを吉例にしていました。
神官の命で女が菜摘川で若菜を摘んでいると、呼びかけながら一人の女が現れ、帰ったならば神官の人々に一日経を書いて私の後を弔って下さいと頼みます。菜摘の女が名前を尋ねると名乗らずとも疑う人があったらその時あなたに乗り移って名乗りましょうといって消え失せます。
菜摘の女はこのことを神官に報告します。不審する神官に菜摘の女は、実は私も不審に思い、と云うや否や急に様子が変わり声色も変わります。静御前が乗り移ったのです。神官が舞を所望すると、静の霊が憑いた菜摘女は以前、勝手明神の宝蔵に納めた舞の衣装があると云って出させそれを着けて舞い始めます。やがて静の亡霊も現れ相伴って、夫、義経が頼朝の命を受けた吉野の衆徒に追われ、吉野山中を逃げ惑い、難渋した様子を舞い謡います。さらに吉野の山中で捕らえられ、鎌倉で頼朝夫妻に強要されて舞った舞を、夫を偲びつつ舞い、回向を頼み消え失せます。

□この能はシテよりもむしろツレが働きます。ツレの比重の大きい能です。両シテ物として扱われ、シテと同等の技量が要求されます。もう一つの見どころ、静御前の霊がツレ菜摘女に憑く緊迫した場面はシテの位で演じなければなりません。

□この能一番の見どころはシテ静の霊と、ツレ菜摘の女の相舞だとします。
静の霊が菜摘女を操るように動かし静の霊は影のように寄り添って舞います。
相舞は他にも数曲ありますがシテとツレが全く同じ型で舞うのはこの作品のみです。装束も全く同じものを着て舞います。クセから序ノ舞までツレとシテは影のように寸分違わず動くことを理想とします。いきおい親子、兄弟、息のあった二人で舞うことが多いといいます。能には付きものの面に視界を制約されながらピタリと型を合わせることは至難の業です。綿密な打ち合わせを重ねることは云うまでもありません。然りながら人には避けられない「癖」、「身体上の違い」があり型に多少のズレが生ずることは避けられません。この事実を割り引いて観るか否か観る人によるでしょう。
昔からとかくこの相舞は重荷だったようで影のように完全に合わせるには無理があると廃曲にした流儀もあり、また菜摘女だけに舞わせ静の霊は腰掛けて見ているという演出も案出されたといいます。 

□この能の魅力は相舞だけではありません。劇的な内容を情緒豊かな作品に仕立てていいます。極論かもしれないが相舞なくても魅力的な作品といえます。先に述べた菜摘女に静の霊が憑くところも魅力的ですが、雪の吉野山中の逃避行、クセも美しい詞章で謡われ、さらに魅力的です。
終曲近く静御前が頼朝に舞を強要され「しずやしず、しずの苧環くりかえし、昔を今になすよしもがな」(時間を後戻りさせて昔を今にする術はないでしょうか。)とうたいます。
涙ながらの舞であったであろうと静の心中が思いやられ哀れをさそいます。

□義経と静の受難は堀河夜討と呼ばれる事件から始まります。頼朝の刺客、土佐坊正尊の襲撃をうけたのです。義経は頼朝と対抗することを決意、叔父源行家と結び、後白河法皇に乞い頼朝追討の宣旨を得たが、頼朝出兵を聞いた畿内の武士は動揺しそのため支持が得られず、止むなく九国地頭職を頂き摂津から船出、西国を目指します。出航まもなく嵐に遭い難破、弁慶の進言をいれ天王寺で静とわかれます。畿内を転々とし吉野に潜入、ここで静と再会しますが数日を経ずして再び離別、静は蔵王堂で執行に捕らえられ鎌倉に送られます。頼朝夫妻の求めに鶴岡八幡の回廊で舞い、義経追慕を謡いました。その後、静は男児を出産、頼朝はその子を由比ヶ浜の海に沈めさせました。許された静は京に向かったがその後の消息は分からないといいます。静十代のおわり頃と想像されるとも。
義経の追求、探索は厳しく義経主従は再び奥州の藤原秀衡を頼り落ちて行きます。

□義経を扱った作品は抜群に多く人気曲もかなりの数にのぼります。幼名牛若丸から奥州平泉、衣川の最後まで年代順に作品を並べてみると義経の一代記になるほどです。
 義経受難の作品を年代順に並べると、堀河夜討ちは活劇の「正尊」、摂津国大物の浦から西国へ落ちて行く、超人気曲の一つ「船弁慶」、吉野潜伏の「吉野静」と「二人静」、最後の脱出行、奥州落ちの、これも超人気曲「安宅」となります。
09.21
Sat

藤戸(ふじと)

カテゴリ:藤戸
戦乱の狂気の中、一武将の野心のために殺された男の恨みとその母の悲嘆。

□源氏方、佐々木三郎盛綱は、藤戸の戦いで先陣〈いちばんのり〉の功を立て、その恩賞に備前(岡山県)の児島を賜り、新領地に入り何事でも訴訟ある者は申し出よと触れさせます。
盛綱の前に、中年の女が進み出、罪もない我が子を殺された恨みを訴えます。
盛綱は隠し通そうとしますが、女の追求に抗しきれず事の次第を話します。
 平家は備前の児島に、源氏は藤戸に陣を張ったが、児島と藤戸の間の水道に隔てられ、舟がなかった源氏方は攻める事ができなかった。
盛綱は浦の男からこの水道を馬で渡ることのできる浅瀬を聞き出すが、この男が又別の人に同じように教えるのではないかと、男を殺し海に沈める。
盛綱は女に男の供養、妻子のことも考えようと約束して女を家に送らせます。
 盛綱が、男のあとを管弦講で弔っていると男の亡霊が現れ、理不尽に殺された恨みを切々と訴え、その凄惨な有様を再現して見せます。男は悪龍となってその恨みを晴らそうと現れたが思いの外の弔いを受け、恨みも晴れたと述べ、成仏の身となって消えて行きます。

□戦争という狂気を、被害者と加害者との立場を劇的に描いた作品です。                  
能といえば幽玄、優雅と思いがちですが、この曲のようなドラマ的に優れた曲もあります。
能は五種類に分類されていますが、これは主題の便宜的な分類であって、現行曲、二百曲余りその描くところ、意図するところはそれぞれ違います。
 佐々木の三郎盛綱は新領地に意気揚々いります。鎌倉時代の歴史書、吾妻鏡に、盛綱の先陣は頼朝が、下し文(御教書)に「昔より河水を渡る類ありといえども未だ馬をもって海浪を凌ぐの例を聞かず」と述べたほどの功名だったわけです。
この盛綱が漁師の母の悲嘆に事の次第を語ります。戦いの狂気から覚め、良心を取り戻した瞬間であろうか。ワキ方の重い習いであり、聞きどころです。
 能「善知鳥、うとう」に「とても渡世を営なまば武、農、工、商の家にも生まれず」というのがあります。この過酷な身分制度のなかで男の母は、我が命を賭して「亡き子と同じ道になして賜ばせ給え」と理不尽に我が子を殺した盛綱を糾弾します。鬼気迫るこの母の激情に人の心の奥底を見る心地がします。

□後場は殺された男が幽鬼となって現れます。痩せ男の面に黒頭(頭髪)、杖をついてでます。「痩せ男」は氷見宗忠(室町時代、不詳とも)の創出で、死人の相を写したと云われ、地獄の責め苦に憔悴した相貌です。黒頭は妖怪、幽鬼の類を表します。
 男は浮洲の岩の上で刺し殺されます。男が指し示す右手の向こうにその岩が見え、男の無念が凝縮します。刃に擬した竹の杖が氷の如くギラリとひかります。一番の見どころ、昔から伝説の多い名場面です。男はそのままうみに投げ込まれ、汐に引かれ漂います。その様を、杖を肩にみせます。やりようのない寂寥感です。
 男は手厚い供養に、仏の衆生済度の弘誓の船に乗り、かの岸、極楽に往生します。
男の幽霊は「思わざるに御弔いに」と述べます。
今の世では想像もつかない過酷な身分制度の中で最下層の賤しい漁師が、事情がどうであれ、それも管弦講の弔いを受けるとはまさに「思はざる御弔い」だったのです。
仏の慈悲も下賎の者にはきびしい時代だったのです。
09.21
Sat
義経に謀反の野望あり、との梶原景時の讒言により兄源頼朝に追われる身となった義経は、
九州へ落ちのびるため尼崎大物の浦(兵庫県)に着く。
弁慶は義経が愛妾、静(しずか)御前を伴っていることを知り、時にそぐわないと静を都に帰すよう進言します。
義経の同意を得た弁慶は静の宿を訪ね、この旨を告げます。驚いた静は、ことの真偽ただそうと義経の御前へ出ます。義経は静にひとまず都へ帰るよう説得します。
別れの酒宴に弁慶は静に一指し舞うよう勧め、静は涙に咽びながら中国の故事を引いていつか兄頼朝の嫌疑が解ける日が来ると、謡い舞い義経一行を励まします。
舟出の時になって義経は突然延期を命じます。弁慶は、これは静に名残を惜しむためだといい、決然と舟子に出航を命じます。
今まで穏やかだった天気が急変し暴風雨となり大波が荒れ狂います。波間から西国で亡びた平家の一門の怨霊が浮かび上がります。中でも平知盛の幽霊は長刀をふるって襲いかかります。義経も太刀を抜いて応戦します。弁慶は必死に数珠を押し揉んで五大明王に祈り、ついに怨霊は引く汐と共に消え去ります。

◆見どころの多いこの曲は前後二場に分かれています。前場は義経と静の別離を主軸に展開します。幽玄の情趣を旨とする三番物、鬘物的です。
静御前は、白拍子でしたから「別れの舞」は詞章も白拍子的に作られており情緒的です。
義経は静の夫ですが、子方が演じます。能ではよくある手法です。
後場は全く違う人物、平家の猛将平知盛が主役です。ここでは間狂言も活躍します。
静かな海にのんびり漕ぎ出し、天候が急変、荒れ狂う海の様子、怨霊が襲いかかる場面の「波頭」など後場の主役、平知盛の幽霊の出現を盛り上げます。
この曲の小書(曲の情趣を強調するための異演出)に「白波の伝」「波間の伝」があります。思い切った演出で型も更に激しくなります。金剛流の業物として知られています。

◆1185年の春、源義経は平家を壇ノ浦に破り、平家は滅亡しました。
同年秋に義経は、兄頼朝に追われる身となり吉野山に逃れ、愛妾静も同行しました。翌年吉野山の衆徒の離反でここも危うくなり、静は都へ返されます。
途中、静は捕らえられ鎌倉に送られました。鶴岡八幡宮に頼朝、政子夫妻に召され「吉野山、峰の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき。しづやしず、賎の苧環くり返し昔を今になすよしもがな」と歌い、義経を追慕して舞いました。
その後、静は男子を出産しましたが、頼朝はこれを由比ヶ浜の沖に沈めさせました。
 静は、京の白拍子でした。芸を母の磯禅師から受け継ぎました。鎌倉から京へ返された後のことは不明といいます。

◆後シテの平知盛は清盛の子で、平家きっての猛将でした。「鵺」退治で名高い源頼政の挙兵に宇治で戦い、翌年源行家と戦い、その軍功で権中納言に昇進しました。
1183年木曽義仲と粟津で戦って敗れ太宰府に逃れましたが、知盛の長兄小松殿、重盛の御家人緒方の三郎の離反で讃岐の屋島に拠っていました。
 木曽義仲が、都に進駐した際、兵の狼籍で院宜により頼朝の追討を受けたことや、また備中、播麿での平家との戦いで敗れたこともあり、義仲は平家の総大将、平宗盛に和議を申し入れました。
宗盛は受け入れようとしましたが、知盛はこれに強く反対し拒否しました。
1185年三月壇ノ浦で義経・範頼軍と戦い敗れ平家滅亡を悟った知盛は、安徳天皇、その母建礼門院、清盛の妻二位の尼の人水を見届け、乳母子の家長を供に海に入りました。33才でした。
09.21
Sat
奈良の都に名高い、曲舞の名手、百萬の舞を見せる。シテは休みなく舞尽しの能。

春の嵯峨野、清涼寺に少年を連れた男がやってきます。
男は奈良、西大寺のあたりで迷子のこの少年を拾い、清涼寺の大念仏に来たのです。
男はこの少年に面白いものを見せたいと門前の者に頼みます。門前の人は女物狂、百萬を呼び出すためにわざと下手に念仏の音頭をとります。
この念仏に誘われるように百萬が現れ男を笹で打って追い払い、音頭をとり―車之段―さらに子を思う心情をうたい舞います。―笹ノ段―

 一世限りの親子の道に執着して子を思う心の闇をはらすことができない。やっと世を渡る身でありながら、その上『子は三界の首枷』となるのか。牛が重い車を引き続けるように私はどこまでも子にひかれて行くのです。
百萬はさらに自分の身なり、やぶれた着物のことなどを謡い舞い、乱れ心ながら信心をするのも我が子に逢うためです。仏様どうぞ我が子に逢わせて下さいと祈ります。
 少年は母であることに気づき、男によそごとのようにたずねるよう頼みます。
男が郷里や、どうして狂人となったのかとたずねると、百萬は幼子に生き別れになったので心が乱れてしまいました。こうしてあちこちの人に恥をさらして歩くのも子に逢うためで、ただただ仏様におすがりするだけですと答えます。
 我が子に逢うための舞です。百萬の舞を見てくださいと、故郷を狂い出た心情や、奈良から清涼寺までの道中の様子、春の嵯峨野の景色や清涼寺釈迦堂のいわれなどを曲舞に謡い舞います。―曲(クセ)―

「人のほんとうの故郷とは一体何処なのだろうか。雲や水のように定めのない身の果てを思い、つらい月日を送って来た末、二世を契った夫とも死別してしまった。更に西大寺の柳の木のあたりで我が子も行方しれずになってしまった。
どうすることもできない思いが重なり奈良の都を出、三笠山をかえり見、佐保川を渡り山城に出、井出の里の玉水に浅ましい我が姿を写し見、足にまかせていくうちに嵯峨野の清涼寺に着いた。お参りしてあたりを眺めると花の散り浮く大堰川、人の世も同じだが盛りを過ぎて散り始めた嵐山の山桜、松の尾や小倉の夕霞、この美しい景色の中を着飾ったいろいろな人がお参りに集まって来るのが見えます。
まことにこの寺はありがたく尊いことです。この寺の釈迦如来の尊像は、私どものように末法の世にあって迷いの多い人々を導くため神通力をあらわし、インド、中国、わが日本、
と三国を渡り、この寺にご出現されました。
お釈迦様の安居の説法は御母摩耶夫人のご供養のためでした。仏様でさえ御母をいとおしくお思いでしたのです。ましてや人間としてどうして母を思ってはくれないのです、と子を恨み、我が身を託ち、そして祈りました。親子が逢う願いをこめた百万の舞を見てください」
 これほど多くの人の中にどうして我が子がいないのだろうと百萬は群衆の中に我が子を探し回りいよいよ狂乱となり、御仏のご誓願によってどうぞ我が子に逢わせてくださいと仏前にぬかずきます。
都の男は、見るもいたわしいと子を引き合わせます。
百萬はもっと早く名乗りでてくれたら、このように恥をさらすこともなかったのに、と言いながら、よくよく考えてみるとこれもこの寺のご本尊釈迦如来のお導きで逢うことができたのです、仏の力のありがたいことよと奈良の都へ帰っていきました。

□この能には、他の狂女物に少ない、華やかさと浮き立つものがあります。
シテの登場や、これに続く歌念仏、当時祇園会に出たという女曲舞の舞車を引くさまを模したものという「車ノ段」、続いて「笹ノ段」と息もつかせぬ華やかさです。
烏帽子に長絹姿がいっそう華やかさを増します。このいでたちは「芸をする人・曲舞の芸人」ということを意味します。百萬は中年の女性ですので赤い色の無い「紅無し」の装束をつけるのがきまりですが「紅入り」を着せたい雰囲気です。笹は狂女をあらわします。

□この能は、当時有名だった女曲舞「百萬」の曲舞ぶりを再現するのが目的の能であるといいます。子を求める狂女は、脚色の一手段のような感じさえします。
「狂い物」につきものの「狂いの段」や、狂乱をあらわす「カケリ」もありません。行方しれずの子や恋人、主君を思う切羽詰まった心情が希薄のように思われます。
 この能の原曲「嵯峨物狂」は、世阿弥の父、観阿弥の得意曲であったといいます。観阿弥はこの百万の所縁の乙鶴から曲舞を習い、能に取り入れました。観阿弥はこの乙鶴から百萬の舞いぶりを聞いていたのでしょうか。
百萬と乙鶴の年齢のへだたりは30才ほどだったといいます。
この「嵯峨物語」の「クセ」は「地獄の曲舞」でした。後に世阿弥が現行のように改めたといいます。「地獄の舞曲」は現在「歌占」のクセで舞われます。この曲のクセを作った世阿弥は「地獄の曲舞」に匹敵する「クセ」をと心をくだいたことでしょう。

□百萬は室町時代、1300年中頃、奈良にいた実在の女曲舞です。奈良、百万ヶ辻に住んでいました。西大寺の念仏会でわが子を見失い、のち嵯峨の念仏会で再会したと南都坊目遺考にあるそうです。

□「百万」伝説がもう一つあります。所も同じ清涼寺。この寺は唐招提寺の円覚上人が広めた融通念仏の大道場でした。この円覚上人は幼時迷子になり寺に拾われ、後に高僧となりました。
母を求めて諸国を遍歴し、融通念仏を広め播磨の国で母に再会しました。上人の念仏会に集まる群衆十万、人々は十万上人と呼びました。十万上人の母だから百萬と呼んだ、とあります。清涼寺は本曲の舞台としてまたとない場所といえるでしょう。

□曲舞は、下級の陰陽師の系譜を引く下層民の声聞師の職業の一つでした。鼓に合わせ直垂(ひたたれ)姿で舞う男の舞いでした。
のちに水干(すいかん)立烏帽(たてえぼし)の男装の女曲舞いや児曲舞(ちごくせまい)が人気を集めたといいます。
京の祇園会には奈良の女曲舞による舞車も出たといいます。織田信長の「敦盛」で知られる、幸若舞も曲舞の一派と言われています。

□物狂の能の筋立てはいろいろです。思いもよらない事情で別れた子や夫、恋人や主君を求めてさすらいます。
当時は物狂を演ずる芸能者、あるき巫女、たたき白拍子といわれる人もいましたが、実際「思う人」をたずねて諸国をさすらう人たちがいたのでしょう。所々で「物狂い」を見せて人を集め「思う人」を探したのだろうか。
能「隅田川」では船頭が「かの者を待ち船に乗せうずるにて候」とあります。
人々はこの物狂の人たちを憐み、いろいろな形で援助したのでしょう。女性の一人旅には「物狂」は都合が良かった事情もあるでしょう。
09.21
Sat
野上の宿(岐阜県関ヶ原)の長者(女主人)は、子供の時から手塩に掛けて育てた花子という遊女を追い出します。
というのも、花子は東国下向の途中、投宿した吉田の少将と深い契りを結び、互いの扇を取り替え、再会を約して別れたが、それ以来花子は、うつつない有様になり、扇ばかり眺め他の座敷に出ようとしません。人々までが花子を中国の故事の班女と呼ぶようになり、ついに宿の主人が怒ってしまったからです。
花子は行くあてもなく野上の宿をさまよい出ます。春霞の立つある春のことでした。
 吉田の少将は、所用を終え帰国の途中、花子との約束を果たすため野上の宿に立ち寄ります。約束の時は過ぎ、秋風が立つ頃になってiいました。従者に事情を聞いた少将は、仕方なく帰京し、花子との再会を祈願しようと加茂神社に詣でます。
 野上の宿をさまよい出た花子は、恋慕の果てに物狂となり、加茂の社に狂い出て、少将一行と図らずも来合わせます。
 少将の従者に、狂えと促され、班女(花子)は和漢朗詠集などの詩歌や、玄宗皇帝と楊貴妃の愛の故事を引いて舞い狂います。
 班女の扇を見た少将は、野上の宿で花子と取り交わした扇であることに気が付きます。
こうして二人は扇の持つ不思議な縁で再び結ばれます。

◆我が子、又は恋人などを探し求めるという筋立ての「狂い物」と呼ばれる能は前場が簡潔で、短いのが多いようですが「班女」はその中でも、きわめて短い曲です。
宿の女主人の間狂言が登場し、シテ花子を呼び出し解雇を申し渡します。
シテは遊女の身上の悲しみを二、三句謡い、さまよい出るシテの様子を地謡がこれも数句謡い、もう中入です。ここでは間狂言(あいきょうげん)が活躍します。
憎々しげにシテを叱りつけ追い出します。間狂言の独壇場です。シテは悄然と中入りします。短いながらも引き締まった前場です。

◆ワキは都の貴族で少将ですから正五位の高官です。出立も白大口に長絹、又は単狩衣(袷狩衣よりも高位)です。帰国した少将がただちに加茂に向かったのは加茂神社が縁結びの神だからです。
 この曲はもともとワキ少将の従者のワキツレの外に都の者のワキツレがいたのではないかといいます。(隅田川のワキツレのような)花子とは初対面のはずのワキツレが「いかに狂女、何とて今日は狂わぬぞ」「さて例の班女の扇はいかに」と言うのは不自然だというのが理由です。同じ例が「葵上」にもあります。
◆後場のシテは方袖を脱いでいます。狂気をあらわします。
我が子を探し求める狂女(隅田川、三井寺など)は狂い笹と呼ばれる笹を例外なく持っていますが、恋人を探し求める狂女(本曲と花筐)は笹は持ちません。この能は扇をもとに展開します。扇がキーワードだからでしょう。本曲に小書、笹之伝があり、この時は笹を持ちます。

◆ 間狂言が演じる宿の長とは宿駅の長、また娼家の主人を指すそうです。
能では朝長、江口、熊野などに例があります。
当時の旅行者は任地や領地に赴く貴人や裕福な商人、行脚僧などで庶民の旅行者は少なかったそうです。
中には切羽詰った事情の人や本曲のような狂女もいたのでしょう。狂女は方便でもあって治安の悪い中での女の一人旅は身を守る一つの方法であり、舞い狂い、人を集め、探し求める我が子や恋人の情報を集めたのでしょうか。情にこうした宿にも泊めてもらったのかも知れません。隅田川に「かの者を待ち船に乗せうずるにて候」というのがあります。
当時の人情がしのばれます。時代は下りますが「奥の細道」に「ひとつ家に遊女もねたり萩と月」。
◆「班女」は前漢の成帝の女官、班捷妤のことです。
趙飛燕姉妹(ちょうひえん)に妬まれ、寵を奪われて成帝のもとを去り、後に秋になると捨てられる夏の扇に自身をたとえた詩「怨歌行」を作ったといいます。 捷妤は、女官の意です。
クレオパトラや楊貴妃もそうであったと聞きますが、賢く聡明な才女であることも
歴史に名を残す美女の要件であるのでしょうか。

◆この能は「扇」がキーワードになっています。
能は必ずと言っていいほど扇を手にして舞いますが、それだけにとどまりません。扇を「逢うぎ」に通じさせ、物語は展開します。扇を効果的に使い、少将に扇を見せるよう命ぜられて、シテ花子は「人に見することあらじ」と懐に抱いて隠したり、「なほ裏表あるものは人心」と扇の裏表を見たりなど美しい型があります。
本曲は能二百数十番の中でも一、二を争う艶麗な曲だといわれています。ひたむきな女の恋心を和漢の詩歌をふんだんにちりばめた美文でうたいあげます。作者、世阿弥も自信作だったようで芸論に例に挙げているそうです。世阿弥は確固たる典拠、本説を力説していますが、この曲には典拠はなく、班捷妤の故事を媒体に想念を広げ脚色した作品です。

◆扇は中国の団扇をもとに平安時代初期に考案されたそうです。桧扇と蝙蝠扇があり、それぞれ冬扇、夏扇と呼んだようです。夏扇が現在の扇に近いそうです。
 能では中啓という、親骨を外側に曲げ、拡がった形の扇を使います。お坊さんの持つ大啓を中くらいに狭めた扇の意といいます。扇は風を起こすだけではなく、身を守る、幸を呼ぶなどと考えられ親しまれてきました。
09.21
Sat
半蔀 突き上げ式の窓。源氏は半蔀の奥に仄見える夕顔を見初めた。傍らに夕顔が咲いていた。(源氏物語、夕顔の巻)

□都紫野、雲林院の僧は、夏安居の修行が終わりに近くなったので、夏安居の間、仏前に手向けた花の供養を行います。
 何処からともなく女が現れ夕顔の花を手向け僧に五條あたりに住んでいた者だと意味ありげに言い残し立花の陰に姿を消します。
所の人に光源氏と夕顔の話を聞いた僧は、五條の夕顔の上の旧跡を訪ねます。旧跡は昔のままの佇まいで、雑草が生い茂っています。小家(小さな粗末な家)の中から和漢朗詠集の詩を吟ずる女の声が聞こえてきます。
夕顔の霊であろうと思った僧は昔の、花のような姿を見せたならば跡を弔いましょうといいます。
 半蔀を押し開け夕顔の霊が姿を現します。この小家で源氏と邂逅したこと、夕顔の花が桟縁となって深い契りを結んだことなど、この小家での思い出を語ります。
夕顔の霊は思い出の舞を舞います。夜明けの鐘が鳴り鶏の声も聞こえて、姿は半蔀の中に消えていきます。
□この能はまぼろしのように儚く死んだ薄幸な女性、夕顔の上と光源氏との出会だけに焦点を絞り、情緒のベールをかけ、おぼろおぼろと描いた作品です。
 出典の源氏物語、夕顔の巻では、この夕顔の上を無邪気な子供っぽい女性として描かれているといい、また帚木の巻「雨夜の品定め」で頭の中将は夕顔を弱々しく内気な女と評しています。この能はこうした夕顔の上を描いています。
 この能の間狂言が「夕顔の花の精現れたるか又は夕顔の上の御亡心にて候べし」と語るようにこの能の主人公、シテの夕顔は花の精なのか、夕顔の上その人なのか判然としないといいます。存外作者の意図だったかもしれません。

□この能の作者は内藤藤左衛門とします。
あまり聞き慣れませんが細川家の家臣の一族であったようで他に「俊成忠度」があります。
 同じ夕顔の巻に拠った作品に世阿弥作「夕顔」があります。骨格のしっかりした、世阿弥らしい作品です。世阿弥はこの作品にかなりの自信を持っていたようです。
 これら二つの曲、「半蔀」、「夕顔」は同じ三番物ですが趣に格段の相違があります。
作品の優劣はともかく上演頻度は「半蔀」の方がこれも格段に多いようです。

☆★☆★物語の展開を追って☆★☆★
ワキ僧が「名乗り笛」で登場します。
笛だけの演奏で静かな雰囲気が流れます。僧は一夏安居(いちげあんご)の間、仏に供えた花の供養を行うと述べます。
一夏安居とは、夏の間、行脚(あんぎゃ)修行を止め、座禅修行をすることです。
「花の供養」に女が夕顔の花を挿し添えます。花は夕顔の上を暗示します。能ではよく使われる手法です。

□シテの登場もきわめて静かです。大・小鼓と笛の静かなテンポの「アシライ」で登場し、一の松に立ち「手に取れば手(た)ぶさに汚る立てながら。三世の仏に花奉る」と独白します。奉るべき夕顔の花も持っていませんし、立花に挿し添える所作もありません。
観る人の想像にまかせます。
シテは唐織り着流しの里女で現れます。市井の普通の女性と言うことです。女は僧と夕顔の花について問答し、夕顔の花の供養を頼み、i今はこの世には無き身だが、五條あたり住んでいた者だと夕顔の霊をほのめかして立ち去ります。夕顔の上の霊とも夕顔の花の霊とも名乗りません。
面は孫次郎を使いますが、清楚さや夕顔の花の霊を強調するときは小女の顔の小面を使います。
これで前場は終わりです。きわめて簡潔でしかも情緒横溢です。後場への期待感と、イメージがふくらみます。

□所の人「間(アイ)」が僧のもとに花の供養にやって来ます。僧に乞われて、光源氏と夕顔の上とのことを物語ります。
この「アイ語り」は、その曲のあらましを語ることが多いのですが一曲の中心をなす「クセ」が前場にあり「アイ語り」が「クセ」の後になる曲も珍しくありません。このとき「クセ」の内容が「アイ語り」と重複して二番煎じのような印象を与えることもあります。
この曲は「クセ」が後場にあり「アイ語り」の内容が「クセ」でより祥しく情緒的に語られ相乗効果を上げています。

□「アイ語り」が終わると、後場です。
後見が藁屋を運び出します。藁屋には夕顔の蔓が這いかかり、ヒョウタンが下げられていますが「引廻し」という布が掛けてあり中は見えません。夕顔の上が生前、住んでいた小家です。中にはシテが入っています。
ワキ僧は、座を立ち小家に向かい二,三歩あるいて止まり、雑草の生い茂った、小屋のたたずまいを謡い、寂しい秋の情景を演出します。まさに「ワキ僧は二歩三歩して着きにけり」簡潔にして要を得ています。
淋しげな一声の囃子をうけ、小家の中からさびしい秋の風景を作った詩を吟ずるシテの声が聞こえてきます。
後見が静かに「引廻し」を下ろします。珍しさと意外性を貴ぶ能の演出です。見慣れていても息をのむところです。
シテは半蔀を押し上げ「藁屋」を出ます。後見はシテの半蔀を開ける所作、「型」に合わせて後から突上竹で押し開けます。後見はシテの「型」とズレないよう意を用いるところです。

□藁屋を出たシテは「クセ」を舞います。前半は源氏物語、夕顔の巻の中の、源氏が初めて夕顔の家に泊まった様子や惟光に夕顔の花を折るよう命じたことを語ります。クセの中ほどでシテは扇を開きます。扇は惟光を招き寄せたり、折り取った花であったり、又それを載せた扇だったりします。
源氏が扇面の花をつくづく見入る「型」のあと源氏に花の名を問われて答えなかったら、この扇が源氏の手に触れることもなく、深い契りを結ぶこともなかったでしょう、と懐古してとめます。
一般に「クセ」は定型の「型」を連ねて舞いますが、この曲は説明的、具体的な情景を表す「型」が多く使われます。

□クセの終曲に地謡が源氏の反歌「折りてこそ」と静かに謡います。序ノ舞の序曲のようでもあり、クセの内容の序ノ舞への移入のようでもあります。
序ノ舞が終わるとシテは「折りてこそ、それかとも見めたそかれに」と上ノ句を謡い、地謡は受けて「ほのぼの見えし花の夕顔」と下ノ句を謡います。「クセ」「序ノ舞」「キリ」の間の不連続線が消えてあまりあります。
「序ノ舞」は能の舞いの中で最も静かで優雅な舞です。
能の舞は、舞の種類によって心の昂揚、戦い、示威、遊舞、歓喜、懐古をあらわします。いずれも謡いはなく、鼓、笛の演奏で舞います。
終曲は鶏の声、鐘の音など、夜明けの状景をノリ良く謡い舞い、文句のように「又半蔀のうちに入りて」と藁屋の中に入り、とめます。扇で頭を隠すのは、消え失せてしまったこと、僧の夢であったことを示します。

□本曲には「小書」立花供養があります。色とりどりの花を華道の立花に活け、舞台の正面先、又は後方大小前に据えます。後見二人で持ち出すほどの大がかりなものです。
シテは夕顔の花を持って出、立花に挿し添え「手に取れば」と謡います。
後の藁屋は橋掛に出します。そのためシテの型は常とかなり変わります。
立花は出さず、これに準じた型をする「替え型」の小書もあります。
この「立花供養」の方が本来の演出であるのではないかといわれています。

□舞台後方に据えられる半蔀藁屋に「ひょうたん」がぶら下がっています。奇異に思われる向きもあるかもしれませんが、夕顔の上の家であることをしめしています。夕顔は通称「かんぴょう」「ひょうたん」は「かんぴょう」の変種で、もとはおなじです。
一般にウリ科の植物は黄花で朝開花するものが多いのですが夕顔は、夕方に白花を開かせ名の由来ともなっています。「よるばな」の異称もあります。インド・アフリカあたりの原産で古くから栽培していたようです。
高貴の家には植えられませんでした。源氏が珍しがったのはそのためでしょう。
全草粗毛におおわれ、葉は大きく、夕顔の巻に「これに(扇)置きて参らせよ枝も情なげなめる花を」というのもそのためです。

☆★☆★源氏物語「夕顔の巻」梗概☆★☆★
その頃源氏は六条の御息所のもとへ通っていました。その道すがら、たまたま病気の大弐の乳母(源氏の乳母、惟光の母)を見舞います。
乳母の隣家のすだれ越しに美しげな女達が源氏の方をうかがっています。
源氏はこの家の板壁に蔓草が這い上がり白い花が咲いているのを目に留めます。御随身に命じて一枝折らせます。
家の中から少女が出てきて、茎や葉に風情のない花なので、これに載せて差し上げて下さいと白い扇を差し出します。扇には歌が添えてありました。
「心あてにそれかどぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」(あて推量ですが、源氏の君かと存じます。光は光源氏をさす)
源氏の反歌
「寄りてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔」(近くに寄って確かめてはいかがですか)
源氏は乳母子で家臣の惟光に女の素性を調べさせます。
惟光の報告から、女は「雨夜の品定め(帚木)」で頭の中將が話した常夏の女のように思えてますます興味をつのらせ、女に近づきます。源氏は身分を隠し顔も見せないようにして深夜通いつめます。女は不安げな様子でしたが、身分を明かすことを求めませんでした。
源氏はこの女の内気で頼りなげな子供のような風情にすっかり耽溺します。
八月十五夜、源氏は夕顔の家に泊まります。隣家からは卑しい人達の生活の声や物音岳精進(吉野、金峰山参籠の前の精進潔斎)の声まで聞こえ、源氏を驚かせます。
その夕方、源氏は夕顔を連れ出し某の院に行きます。惟光、夕顔の侍女右近、御隨身二三人が供します。
荒れ果てた庭園や人気のない邸内の奥深さは不気味です。次の宵過ぎ夕顔は物の怪に襲われ取り殺されます。悲しみのあまり源氏は病の床につき一命も危ぶまれるほどでした。
源氏は右近の話から夕顔の素性を知ります。源氏の予想通り女は、頭の中將の話した女であり、頭の中將との間に子供(玉葛)がいることもわかりました。夕顔は頭の中將の正妻の実家右大臣家の目を逃れるため、乳母の家に姿を隠していたのでした。源氏一七歳の夏から初秋。
09.21
Sat
皇子に頂いた花籠を廷臣に粗末にされて舞う抗議の「狂い」。漢王が死別した最愛の后を、反魂香を焚き呼び寄せた故事の重厚な「李夫人の曲舞」、能の面白さを凝縮した見所二つをもつ狂女物の傑作。
越前の国味眞野(福井県)に住んでいた男大迹皇子(おおあとめのおおじ)は急に皇位を継ぐことになり急ぎ都に上ります。皇子は寵愛していた照日の前に別れを告げる暇もないまま使者に文(手紙)と花筐(花籠)を届けさせます。
たまたま里帰りしていた照日の前は文を読み、皇子との来し方を懐かしみ形見を抱いて里へ帰っていきます。
帝位についた皇子は継体天皇になり都を玉穂の都に定めます。秋のある日、帝は紅葉狩りの御幸に出かけます。
 帝を慕うあまりに心が乱れ物狂いになった照日の前は侍女を伴い玉穂の都へと急ぎます。
田舎育ちの二人は都の方角も分からぬまま、南に渡る雁を道しるべに、南の都に急ぎます。途中、御幸の行列の前に迷い出た二人は廷臣に咎められ侍女が手にした花籠を打ち落とされます。照日の前は狂乱状態となり、廷臣を咎め、味眞野での皇子の思い出を語り今となっては越えられない身分の隔たりを嘆き泣き伏します。「狂い」
 廷臣から、面白く舞い狂うようにと宣旨が伝えられます。照日の前は帝の面前で舞うことを喜び、どの様にして思いを伝えようかとしずかに舞い始めます。舞は「李夫人の曲舞」、漢王が最愛の后、李夫人との死別を悲しみ、その姿を絵に描かせたが思いは増すばかり、ついには反魂香を焚いてその面影を招きよせた故事にわがわが身の慕情を託します。
 帝は狂女が照日の前と気づき花筐のことも思い出し、やがて伴い還幸します。

□この能は「李夫人の曲舞」を見せるために作られたもののようにさえ思われます。この曲舞は観阿弥が漢書や白楽天の詩を題材に作り、その子、世阿弥が前後を作り能にしました。観阿弥は「曲舞」を女曲舞の名手、乙鶴に習い能に採り入れたことでも知られています。

□この能に作者世阿弥はもう一つの見どころ「狂い」を作りました。
冒頭、速いテンポの謡で花筐を打ち落とされたことに抗議して舞います。足拍子は怒りです。やがて謡は静まり皇子の伊勢神宮への信仰をかたります。
謡は再び急調になり身分に隔てられ叶わぬ恋に泣き伏し留めます。

□眼目のクセは三つの場面に分かれています。まず漢王が壁に写した李夫人の肖像画に寄り添い嘆くところを描き、次に物言わぬ肖像画に飽き足らず、反魂香を焚き李夫人の霊魂を呼び寄せる場面、李夫人の寝所にこもり、更に深い嘆きでしめます。
シテは限られた動き、微かな仕種で帝の慕情、霊魂の出現を表現します。静かに舞はじめ次第にテンポを上げ最後に急の位で帝の激情を見せます。
「狂い」「クセ」共に掛けことば、枕詞などの修辞が少なく平易で解りやすく、美しく且つ重厚な詞章です。 
「狂い」「クセ」は鑑賞価値が高くその部分だけを舞う「仕舞」として好んで上演されます

□男大迹皇子、継体天皇は500年前半の天皇で即位の経緯はこの能の通りで日本書紀十七に記載があるといいます。照日の前は架空の人のようです。
クセの帝は前漢第七代孝武帝をさすといいます。李夫人は孝武帝寵愛の夫人で和漢朗詠集などにもあり楊貴妃と並び著名であったようです。
09.20
Fri
三保の松原(静岡県清水市)の漁師、白龍が釣りに行こうと浜辺に出ると、空から花が降り、音楽が聞こえ、いい香りがあたりにたちこめます。見ると松の枝に美しい衣がかかっています。家の宝にしようと取って帰ろうとすると、天女が現れ、その衣は天の羽衣といって人間が持つものではない、返してくださいといいます。羽衣と知った白龍は羽衣を返そうとしません。羽衣がないと天に帰れないと天女は悲嘆にくれます。さすがに哀れに思った白龍は羽衣を返し天人の舞楽を見せてもらいます。
羽衣を身につけた天女は月の都、月宮殿のありさまを語り、三保の松原の風景を舞楽につくり、舞いながら羽衣をなびかせ愛鷹山、富士山を眼下に月の都へ帰っていきます。

□数ある能の中で羽衣ほど、観る人をも、演ずる人をも「幸せ」な気持ちにする曲は少ないかも知れません。
白龍が三保の松原の景色を謡うと晴朗たる春の朝風がからだの中を吹き抜けます。天上から降り立った天女の姿も、ことばも舞も清らかで美しい。
長老の芸談に「羽衣は“空”の能である。小さなことにこだわらず、のびのびと大きく舞うものだ」とあります。
白龍に衣を取られて悲しみ仰ぎ見る空、衣を返してもらっての歓喜の舞は空の中です。空は時代は移っても人間の未知への憧れ、希望の象徴であり、メルヘンの生まれ所です。
終曲に天上へ飛び去る天女をジッと見送る白龍の姿にこれらを見るような気がします。

□羽衣伝説は世界各地に伝わっていて、日本でも駿河、近江、丹後の国風土記に見えるそうです。作者が駿河の国、三保の浦を選んだのは理由がありそうです。
弓なりの海岸線の向こうに富士山が浮かび、天女が降り立つ絶好のところです。
とくに富士山を「染命路の山」仏説に云う諸仏、天仙の住む須弥山に見立てました。
この能の曲(クセ、曲舞からの名、曲の中心をなす)に「笙、笛、琴、箜篌」(しょう、ちゃく、きん、くご。楽器の名)孤雲の外に満ち充ちてという句があります。これは大江定基(寂昭法師)の臨終の詩によるものです。聖衆来迎(人が死ぬ時極楽浄土からいろいろな菩薩が紫雲に乗って迎えに来るという仏説)の様子を作ったものです。
 この能が作られた中世の人々は深く仏教に帰依していました。人生の最終の目的は極楽浄土に行くことでした。この能を見ながら夕日に赤く染まった富士山を、西側はいつも茜色に染まっているという須弥山に見立て、孤空に花降り、音楽聞こえる聖衆来迎の様子を思いえがき法悦の世界に入っていったのでしょう。作者の意図でもあったかもしれません。
 信仰心が薄くなった現代の私たちには想像も及びませんが、現代人はそれなりにこの曲の持つ清らかなメルヘンの世界に魅了されよう。
09.20
Fri

鵺(ぬえ)

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頭は猿、尾は蛇、手足は虎、怪物「鵺」。天皇に憑き祟たろうとしたがかええて殺された。消え行くものの悲哀、魂の救済を求める孤独な心情を描いた作品。前場のクセで源頼政が鵺を射殺するところを描き、後場では頼政の功名と、それに対比させて鵺の暗い境涯を描く。
修行の僧が三熊野参籠を終え西国に下る途中芦屋の里で(兵庫県)里人に宿を乞います。
里人はこの所の掟で旅人に宿を貸すことを禁じられているので州崎の御堂に泊まれとすすめ、ただし夜な夜な光る物が上がるから心するようにと注意します。僧は法力をもって泊まると御堂へ上がります。
夜更け朽木のような、舟のようなものが近づいて来ます。乗ったものをよく見ると、人の形ながら異形の姿です。里人のいう光る物の正体であろうと言葉を掛けます。
異形の者は、昔、源頼政に射殺された鵺の亡霊であると明かし回向を頼み、その時の有様を語ります。
「その頃、近衛院は、丑の時刻になるときまって苦しみ出す。きっと変化の者の仕業であろうと、源頼政に退治するよう命じる。
頼政が重藤の強弓を引き絞り、尖矢で射落し、郎党、猪隼太が刀の柄も掌も通ればとばかり刺し殺した変化の者の正体は聞きしにまさる恐ろしい姿の鵺であった。」
こう語った鵺の亡霊は再び虚舟に乗り、暗い夜の海に消えて行く。浮きぬ、沈みぬ、見え、かくれ、闇の中に悲しげな啼声が残ります。
宿を断った里人が僧の様子を見にやってきます。
僧に乞われるままに里人は頼政の鵺退治の話をし供養を勧めます。僧が読経を始めると、経を唱和しつつ鵺がその恐ろしい正体を現し、頼政に射殺された時の有様を語り、帝につき祟ったが、かえって殺されたのは天罰に当たったのだと述懐します。
頼政は、その時の功により帝の賞賜を受け、天下に名を上げたが、自分は虚舟に押し込められ淀川に流されこの芦屋の浮洲に流れ着いて朽ち果て、虚船の暗きからあの世の暗きに落ちて行ったのだといい、仏の救済を求め月の光とともに海中に沈んで行きまます。

□能のワキに僧が多いのは、僧は迷える亡者を彼岸に引導するからであり、能の題材にはこうした亡者を扱った話が多いのです。中世の人々の深い信仰心が思われます。
信仰心を失った私たち現代人には何か異次元の世界の様に思われますが、思考の基礎が現代の日本人と違うので、理解し難いところが多々あるのは仕方のないことです。
里人(アイ狂言)とワキが泊まるところをめぐって問答します。
アイは中入(前場と後場の間)でその能の主人公の話を語るだけのことが多いのですがこの能では舞台の進行に参加して舞台の雰囲気作りをします。
 前シテは妖気のただよう幽霊面、怪士(あやかし)をかけ、舟をあやつる水棹を手にして現れます。舟は観客の想像にまかせます。
「クセ」には「平家物語巻第四ぬえ」の文章がほぼそのまま採り入れられ、頼政の鵺退治の様子が描かれます。鵺の正体や心情は語られず頼政の活躍だけが語られます。鵺の姿のままのシテが頼政になって弓を引き、射落とされた鵺を郎党、猪の早太が走り寄り刺し殺す、二人の役を一人で演じます。殺された鵺は、その暗い境涯を暗示するかのように虚船に乗り暗闇に消え前場を終えます。
 ※メモ クセー中世の芸能、曲舞から採り入れた形式。節と詞章に優れ一曲の中心。 
 ※虚船 空船、丸木をくり抜いて造った船。

□中入にアイ狂言が僧の求めに応えて頼政の鵺退治の物語りをします。アイの語りは、前場の「クリ」から「クセ」の内容とほぼ同じです。話の繰り返しになりますが、場面転換、後シテの装束替えに必要な時間です。
 ※中入りー前場が終わりシテなどがいったん退場する。

□後場のシテは赤い頭髪に「猿飛出」という専用面をかけ、鬼畜、鬼神の出で立ちで登場します。背に挿した棒状の物は打杖といい鬼女、鬼畜の類の持ち物です。木の枝を形どったものともいいます。先端とその下の突起は枝の名残です。
有難いお経の功徳に引かれ浮かび出たと合掌し「仏法、王法の障りとならんと」と言いつつ舞台を一巡、皇居の上を飛行して天皇を苦しめ頼政の矢先にかかって地に落ちたと舞台の端に崩れ落ちます。唯一怪物としての存在感を見せる場面です。
 この後場でも頼政の武勲が重点的にえがかれます。帝から下賜の剣を宇治の大臣が代わって受け「ほとぎす名をも雲居に上ぐるかな」と歌人でもある頼政の文武を讃えます。
ここでも鵺姿のシテ一人が頼政と宇治の大臣を演じます。「弓張月のいるに任せて」と下ノ句を付ける頼政の姿はこの上なく晴れやかです。御剣を戴き御前を退出します。
頼政に射殺された鵺は虚舟に押し込められます。角柱から舞台中央へ、さらに橋掛の方へ「流れ足」を使い、二回転し膝をつきます。淀川を流れ下り浮洲に流れかかって朽ち果ててゆく様を表します。
立ちあがったシテは扇を開き、ワキ座前から一ノ松へ「招き扇」で行き、飛び回って膝をつき袖を頭上にかけトメます。
「招き扇」は後世を月の光のよう照らしてほしい、袖をかずくのは海中に沈んだことを表現しています。留め拍子は踏まず前に一足出て留めます。余韻を損なわないためです。
□終曲に鵺が魂の救済を求めるところに和泉式部の歌「冥きより冥き道にぞ入りぬべき、はるかに照らせ山の端の月」が引用されています。歌意を鵺の心情に転じて、巧みな引用です。著名なこの歌は、拾遺和歌集に「性空上人のもとに詠みて遣わしける」として採られています。法華経の経文を踏まえた作で、敦道親王との恋を闇路に喩えたといいます。

□性空上人は、播磨国書写山円教寺の開祖。皇室、貴族、文人から遊女まで各層の帰依者があったといいます。藤原道長、その娘上東門院彰子も熱心な帰依者でした。ある時、彰子は和泉式部などを伴い書写山をたずね、やっとの思いでたどり着いたが、貴人嫌いの上人は居留守を使い会おうとしませんでした。がっかりして帰った式部は、上人に結縁を求めるこの歌を送ったのだともいいます。面白い話ですが、真偽は又別です。

□この能は、五番目、鬼畜物として扱われています。鬼畜物の能は、現在能が通例ですが、この能は複式夢幻能です。暗い道の果てから魂の救済を求める鵺が情緒的に描かれ、怪物ながら人格を与えられた二番物、修羅物に近い作品です。金剛流に現在能「現在鵺」があります。

□鵺は「とらつぐみ」という鳥の異称。夜半から早朝にかけて鳴き、その声は人の口笛に似て悲しげだといいます。中世の人は「よみつ鳥」といい、鳴き声は忌むべきものとしたといいます。
 この能の鵺の正体とは何だろうか。この能では「仏法、王法の障りをなす悪心外道の変化」とだけです。何かミステリアスな臭いがします。然らばこれを討った頼政と云う人物は如何なる人物か、詮索するのもこの能の楽しみの一つでは。
平家物語の鵺は「頭は猿、胴(むくろ)は狸、尾は蛇、手足は虎」ですが、この能では胴の狸がぬけています。この頃も狸はおどけものだったのか、能には不向きのようです。

□源頼政は武将で弓の名手、歌人としても優れ、藤原俊成に「いみじき上手」と評され新古今集、詞花集、千載集、の勅撰集に入集、私歌集に「頼政集」があります。
源義朝が、平清盛の熊野詣の留守中に兵を挙げ、起こした平治の乱では、日和見をきめこみ果ては清盛にくみし、一門の怒りを買いました。清盛の信任厚く昇殿を許されたが、更に「人知れず大内山の山守りは木がくれてのみ月を見るかな」と詠み75才にして破格の三位の官位を賜り、源三位と呼ばれた。
治承4年(1180年)以仁王の平家追討の令旨を奉じ兵を挙げたが敗れ、宇治平等院で自刃しました。頼政挙兵の報に清盛はにわかには信じようとせず数回問い直したといいます。
数々の頼政の不可解な行動に、鵺のような男と評されたといいます。えたいの知れない人物、あいまいな態度を今の世でも「鵺」といいますが。この複雑な性格を表すためか、能「頼政」では「頼政」という専用面を用います。
頼政辞世「埋木の花咲くこともなかりしに身のなる果ては悲しかりけり」。
09.20
Fri

巴(ともえ)

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□女性を主人公にした唯一の修羅物(戦の能)。
木曾義仲の愛人であり武将でもあった巴は、巫女となり死後も義仲最期の地、粟津原に義仲の霊を弔う。通りすがった同郷の木曽の僧に、義仲の最後の有様を語り、長刀をふるって追手と戦う在りし日の姿を見せ、尽きせぬ慕情を語る。見どころ聞きどこ魅力たくさんの能。

□木曽の僧が京へ上る途中、栗津原を通りかかると、松陰の祠に手を合わせ涙を流している女がいます。僧は不審に思い言葉をかけます。
僧が木曽の人であると知ると、女はこの社は木曽義仲を祀っている、と教え同郷の縁で弔ってほしいと頼み、名が知りたければ里人に尋ねよと夕暮れとともに姿を消します。
 僧は社の前で一夜を明かしつつ読経していると甲冑姿の巴の亡霊が現れます。 
巴の亡霊は義仲の自害のとき、供するよう懇願したが許されず、木曽に落ちのびるよう命ぜられた恨みを語り義仲の最後の様子を物語ります。
 栗津原の戦いで重傷を負った義仲は、巴を供に落ちて行きます。追いすがる敵を見て巴は主君を松陰に導き一人敵中に割って入り奮戦し追い散らします。
かくして松陰に行ってみると主は既に自害して果てています。
巴は泣く泣く形見を携え、一人淋しく木曽へ落ちて行きます。

□前シテは小面に唐織り姿の若い女です。情緒的を旨とする、三番目物の出で立ちです。暮れて行く琵琶湖、湖面に響く入相の鐘の音、巴の心情を写すかのように哀愁を誘います。
後シテは武者の梨打烏帽子に唐織を壺折に着て甲冑を表し、白の大口袴、武者の袴を穿きます。太刀を腰に長刀を持ちます。
 木曽に落ちて行く場面で烏帽子、唐織りを脱ぎ太刀を水衣に包み隠し持ちます。軍装を解くことを意味します。後見が手伝いますが一人で脱ぐこともあります。このときは手順が決められており失敗を防ぎます。この前場と後場の扮装の著しい差違は、目を驚かすような舞台転換ともなっています。
勇壮な戦闘の場面などや、主君との別れなど、強吟、弱吟を駆使して謡い分け効果を盛り上げるのもこの曲の特徴です。強吟、弱吟とは能のセリフ、つまり謡曲のことで、弱吟は他の歌謡とほぼ同じ旋律です。強吟は他にない謡曲だけにある声明のような旋律です。

□義仲は巴に殉死を許しません。平家物語には、義仲は最後の時まで女連れで有ったと云われるのがくち惜しいとあります。この能ではお前は女である、隠れ忍んで生き延びる手立てもあろうと思いやりを見せます。
巴は「死骸に御暇申しつつ行けども悲しや行きやらぬ」と女の慕情を見せ「涙と巴はただ一人落ち行きし執心を弔いて」と切なく留めます。
巴は聞こえた剛の者でしたが、この能では「熊坂」や「船弁慶」のような長刀の扱いはしません。あくまで女性として優美に扱うのが心得です。長刀や太刀も小振りのもを使うこともあります。

□巴は木曽義仲の乳母の子、乳兄妹で、愛人でもありました。「平家物語」に「色しろく髪ながく容顔まことにすぐれたり」とあり大変な美貌だったといいます。強弓を引き、荒馬に乗り、一騎当千の武将であったと平家物語や源平盛衰記にあります、その戦いぶりは、すさまじいものであったことは、想像に難くありません。
栗津原の戦いでは剛の者と評判の高かった御田八郎師重の首を鞍の前輪に押しつけてねじ切って捨てたとあります。義仲は自害のとき巴の殉死を許さず帰国を命じます。時に元暦元年1月(1184年)のことでした。後、巴は尼となり越後の国、友松に住んだという。
源平盛衰記では鎌倉に送られたが和田義盛の懇願に許され義盛の妻となり一子をもうけたとも。義盛敗死後、尼となり越中に赴く。生没不詳。

□木曽の義仲は父、源義賢が源義朝の子義平に討たれたため、乳母の夫で木曽の豪族中原兼遠のもとで成人したといいます。
 以仁王の令旨に兵をあげた源頼朝に呼応して挙兵、以来各地で平家軍を破りました。
寿永二年に平家の大軍を倶利伽藍谷で破り入京します。
都に入った義仲は、政治への介入、兵の狼藉で後白河法皇と対立、長年の源頼朝との覇権争いも表面化します。源範頼、義経兄弟率いる大軍に破れ、わずかの手兵で京を落ち、近江の国栗津で討たれました。
09.20
Fri

天鼓(てんこ)

カテゴリ:天鼓
中国、後漢の時代、王伯という人の妻、王母はある夜、天から鼓が降り下り、胎内に宿る夢を見、懐妊します。子の名を天鼓と名付けます。
その後、本当の鼓が降り下ります。打てば妙音を発し、聴く人を感動させます。
時の帝はこれを聞き、召し上げようとしますが、天鼓は鼓を惜しみ鼓を抱いて山中に隠れます。
帝は天鼓を探し出し、呂水に沈め鼓を召し上げ宮殿に据え置き打たせますがどうしてもなりません。親子の間柄なのだからと父、王伯を召して打たせるよう命じます。
官人は宜旨を伝えるため王伯の家に赴きます。王伯は、子を失った孔子や白居場の悲しみの故事を思い出し、歎いています。
宜旨を伝えると、王伯は、しかるべき人が打っても鳴らない鼓を老人が打っても鳴るはずはない、これは重罪の者の父親として殺すためなのだろう、我が子のためなら身を捨ててもよいと宮殿に赴きます。
王伯は帝の御前で生きとし生けるもの、親子の情のないものがあるだろうかと訴えます。
やがて時も移り、官人は王伯に鼓を打つよう促します。
老人が疑いながらも鼓を打つと不思議にも妙音が聞こえます。
帝は親子の證に鳴ったのであろうと感動し、老人夫婦には数々の宝を与え、天鼓のあとを
管絃講で弔うことを約束します。
帝は呂水のほとりで、天鼓の跡を弔う管絃講を催します。
月明りの水上に天鼓の霊が現れ、管絃講の弔いを喜び、例の鼓を打ち鳴らし舞楽を舞いやがて幻のように姿を消します。

□本曲との係りは無いが「天鼓」の名は、後漢書に「雷鳴とともに雉子に似た石が落ちた。大きさは一丈ほど。名を天鼓といい、落ちた所に必ず大戦がある」とあり、又、王喬伝の項に「王喬が参内する度に門下の鼓がひとりでになり、王喬の死後は再び鳴ることはなかった」と二つの例が見えるといいます。仏説には天上の楽器として「天鼓」の名が見え、七夕の二星の牽牛の異名も「天鼓」だといいます。本曲にも「星も相逢う空なれや…二星の館の前に」と採られています。

□本曲の前場は、我が子を失った老人の悲嘆が主題です。
天鼓は少年であり、その父が老人というのは常識的に見れば奇異に思われますが、能の特徴的な作劇法です。老人の嘆きがより切実に迫ります。
 市井の人でありながら扮装は高貴な出で立ちです。面は小牛尉をかけ、着付けは小格子厚板という装束を着ます。これらは高貴な人、神の化身の老人の出で立ちと同じです。老人の悲しみを純化させる効果もあるでしょう。

□後場は少年天鼓の舞が主題です。
頭には黒頭(くろがしら・ライオンのたてがみ状の頭髪)を付け、扇の代わりに唐団扇(とううちわ)を持ちます。頭髪は、少年が亡霊であること、唐団扇は中国の話であることを示します。
本曲は、遊楽物ともいうべき作品です。舞いの面白さを主眼としています。
前、後場を通して、理不尽に殺されながら、恨みの場面がなく、前場は愁嘆場ながら、さわやかな作品です。

□中国や我が国の帝王の治世では、民を苦しめる残虐な行為が、日常茶飯事に行われていたように錯覚しがちです。帝王の時代には、民を哀れみ、安んずることを第一とする、尭、舜(中国古代の帝王)の政治理念がありました。臣下も、民も、常にこの物差しで為政者を見守っていました。
だんだん歪んで行く現代の民主主義を思うとき、逆に昔に憧れを覚えるのは危険でしょうか。
09.20
Fri
源頼光は重い病気に罹り床に就いています。頼光の侍女、胡蝶が薬を持って見舞い、励まします。さすが武勇の頼光も唯ただ死期を待つばかりだと弱音をいいます。
夜更け怪しい僧体の男があらわれます。男は、病を得たのも蜘蛛の仕業なのだと頼光に近づくやいなや千筋の蜘蛛の糸を投げかけます。頼光は蜘蛛の妖怪とみて枕元の名刀「膝丸」を抜いて斬りつけます。妖怪はなおも糸を投げかけつつ姿を消します。ただならぬ物音に
家来、独武者が駆けつけ頼光が斬りつけた妖怪の血のあとを見つけます。―中入―
頼光の家来達は妖怪を退治しようと残した血の跡をたどります。血痕は葛城山中の古塚に続いていました。塚を崩すと蜘蛛の妖怪が現れ君が代に反乱を企てたのだと蜘蛛の糸を投げかけます。蜘蛛の糸にさんざん苦しめられますが激闘のすえ蜘蛛の首を打ち落とし都に凱旋します。
□この能は「五番目、切能」です。心の負担も無く文句なく楽しんで頂き一日の能会を締め括ります。「五番目物」に登場する妖怪の類は人に害をなす、退治されて当たり前のキャラクターに作られていることが多にようです。
 土蜘蛛は大和朝廷に征服、迫害された日本の先住民である縄文人、日本に先住民があったかはともかく、そうではないかとの説もあります。
蜘蛛には赤い血はありません。曲趣から、それほどうがつこともないでしょう。
現在の蜘蛛の糸は明治初期、金剛流宗家、金剛唯一が考えだしたものです。それまではテープのように巾も広く投げる回数少なかったようです。以来舞台は格段に華やかになりました。
09.20
Fri
□平経正は幼少の時から北山、仁和寺御室の御所(守覚法親王)に仕え、寵愛されていました。法親王は、一ノ谷で戦死した経正を悼んで僧、行慶に経正愛用の琵琶を手向け、管弦講の追善を催させます。
 夜半、管弦の音に引かれ幻のように、おぼろおぼろと経正の霊が、唐の詩人、白楽天の詩を吟じながら現れ、生前親王から授けられた琵琶、「青山」への執心、親王の恩顧を述べます。
 僧都行慶は経正が、若年ながら人の道を守り、詩歌や管弦の道に親しんでいた事を偲びながら手向の琵琶「青山」を弾きます。
経正の霊は昔に還えり、鳳凰の翼のように袖を翻し夜遊の舞に興じます。
 にわかに「修羅道」の苦しみが経正を襲います。修羅道の責めに苦しむ自分の姿を恥じて、経正の霊は灯火を消そうと火の中に飛び込み暗闇の中に姿を消します。

 ○メモ
  管弦講 管楽器(横笛など)弦楽器(琵琶、琴など)を演奏して死者を弔う法要。
  靑山  玄象、獅子丸とともに唐から渡来した琵琶の名器。
  鳳凰  古代中国の想像上の霊鳥。五色の羽を持つ。
  修羅道 怒りや争いの絶えない地獄。多く武人が落ちる。

□経正の亡霊は仄かな灯火のなかに「有るか無きか」に冥界の空気を引きずって現れます。
この、おぼろおぼろの中で、法親王から受けた恩徳を語り生前手慣れた琵琶、靑山への執心を述べ、いかにも神経の細やかな、詩歌、管弦好きの優雅な青年公達像を彷彿とさせ、静かな情緒の時が流れます。「クセ」は和漢朗詠集の詩や霊鳥、鳳凰の故事が美しく謡われます。軍装のまま、鳳凰が翼を広げたように華麗に舞う経正を修羅道の苦患が襲います。経正は宮廷貴族でありながら又武士でもあるのです。若年といえども戦いという宿命は避けられません。それ故いっそう哀れが心に沁みます。クセのあと舞う「カケリ」は、常は戦いの様子ですが又、夜遊の名残とも次の地獄の苦患の導入とも思っていいとおもいます。情緒的な前の場面と、後の地獄の場面とが、なめらかに無理なくつながります。キリと呼ばれる終曲の戦闘場面は、手際よく「型」として理想的に纏まめられ魅力的です。 
 出典の平家物語に経正戦死の記述が有りません。当然ながら終曲部、キリは経正の最後の場面ではなく経正が落ちた地獄、修羅道の有様です。降りかかる矢を払うと、その剣は我が身を切り、その血は猛火に変わり我が身を焼く、まさに地獄絵を見るようです。

 ○ひとこと
  クセ  中世の芸能、曲舞の型式を取り入れた一曲の中心部。見どころ聞きどころ。
  カケリ 戦闘やその苦しみ又、狂女物の狂乱のさまを表す舞。囃子だけで舞う。

□経正は平清盛の弟、経盛の長子です。一ノ谷の戦い(一、一八四年)で討たれました。
弟の敦盛が一六歳だったことから推して、少年から青年の過渡期だったろうか。面も一六又は中将を使います。
平家物語「経正都落」に、戦乱の慌ただしさの中、甲冑姿のままで法親王を訪れた経正は慣れ親しんだ琵琶「青山」を、これほどの名器を田舎の塵にするのは残念だ、と返上し別れを惜しみ、歌を読み交わします。経正の歌「呉竹の懸樋の水は変われども、なを住み飽かぬ宮の内かな」。琵琶の腕前も相当なものでした。「青山の沙汰」に、経正一七歳の年、宇佐八幡の勅使として下った時、神前で秘曲を手向け「宮人は皆、涙で袖を濡らし、聞いても解りそうもない奴まで村雨の音と間違えなかった」。経正は琵琶「青山」、弟敦盛は名笛「小枝」と兄弟ともに管弦の名手でした。
経正の歌はこの能の前半に、宇佐八幡のことはクセに採られています。

 ○ひとこと
  十六 少年の公達の面。一六才で討たれた経正の弟、敦盛の顔とする。
  中将 貴公子の面。在原業平を模した。業平の官位、中将に因む。

□仁和寺は京都、御室にある真言宗の寺です。色々な建物が長い回廊で繋がれ、八八八年宇多天皇が出家して御所としたという風格をかんじさせます。
庭の「御室桜」がよく知られています。花が大きく一重ですが、枝先が太く八重桜の姿です。
09.20
Fri

龍田(たつた)

カテゴリ:龍田
諸国の寺社に法華経を納める僧が龍田明神に参詣しようと
龍田川のほとりにやって来ます。
川向こうから女がその川を渡ってはいけないと呼びかけます。
僧が不審していると女は、ここは名に知られた立田川です。神慮も思わず、
安易に渡れば神と人との中を絶つことになります。この川に錦のように
散り浮く紅葉は、当社の神体だからですと言います。
僧は、今はもう紅葉の季節もすぎて川には薄氷が張っています。
許して下さい、渡ります、と言いますと女は更に
藤原家隆の歌「龍田川紅葉を閉ずる薄氷。渡らばそれも中や絶なん」を引いて
心ない僧だと戒めます。
女は、自分は巫女であると名乗り、明神への道案内をしてあちらこちらと
宮巡りしているうちに、実は私は龍田姫であると名乗るやいなや御身から光を放ち
社殿の中に入ります。
僧達は所の人から龍田明神の謂れを聞き、通夜をして神の告げを待ちます。
やがて社殿は鳴動し、玉垣も輝き出し、龍田姫の神が姿を現わします。
御世を守る天逆矛を守護する神瀧祭神とは当社のことであり、民も安穏に
国土も豊かなのも当社のお陰であると述べます。
さらに龍田の川や山を、代々の歌人が賞賛した歌を詠んだことを語り、
氷に閉じられた紅葉を賞で、あらためてこの川を渡るべきではないと語ります。
やがて時刻も移り、龍田の神は「神楽」を奏し夜明けの風に散り飛ぶ紅葉の中を
神上がりします。

□本曲の紅葉の川を渡ることについての問答は、風流問答といわれて、
能ではよく使われる手法です。多くの場合これらの問答は、曲の流れの中の
一場面に過ぎませんが、本曲では前場の中核になっています。
後場では「クセ」に続き「キリ」(終曲部)でも紅葉が強調され
全編紅葉で埋め尽くされています。
前シテは、底に冷たさを秘めた女性であり、中入りに身体から光を放つ神の
本性を現わします。
背景の龍田の御神木、紅葉がシテ女の神秘さを引き立て、清澄な神々しさが全編に満ちています。
後シテの龍田姫の神が舞う「神楽」と共に、本曲の主題をなすものです。

□本曲は優艶を主題とする「三番目」、ドラマ性の「四番目」
神事物の「略初番目」として演じられます。
当然ながらその場合によって、シテの演じ方や装束も変わります。
演者には演じ難い作品でしょう。
類曲に「三輪」があります。三輪は静寂な僧の庵を折々訪ねる女が
衣を所望する前場や三輪説話とあいまって、三番色濃い作品です。
「三輪」は神が巫女の姿をかりて出現しますが「龍田」は神体そのものの来現です。
その故であろうか、金剛流では「三輪」よりも「龍田」を一つ上位にするといいます。

□前場の「氷れる時も龍田川」の歌の作者、藤原家隆は、鎌倉前期の歌人で
従二位、宮内郷、藤原俊成門下で藤原定家と並び称されました。
後鳥羽上皇の寵臣で和歌寄人となり、新古今集の撰者の一人です。
私家集に「壬二集」(玉吟集とも)があり、薄氷の歌はこの集に収められています。
□龍田神社は奈良県生駒郡にあり、祭神は天御柱命(あめのみはらしらのみこと)
国御柱命(くにのみはしらのみこと)で、龍田彦、龍田姫と同神であると
みなされているといいます。
又、国家鎮護の根本である天逆矛(あまのさかほこ)の守護神、瀧祭の神(伊勢神宮
御裳濯川に鎮座)と龍田の明神は同体であると、「神皇正統記」に見えるようです。
又、かつて金剛流の拠点であった東大寺もほど近く、境内に金剛流発祥の地の
顕彰碑があり毎年二月に奉納の会が催されます。

□「神皇正統記」は、1340年代南朝方の廷臣北畠親房によって著わされました。
神代から後醍醐天皇の子新村上天皇までを説いた書です。
南朝方はもちろん、北朝方、神官、武士など広く読まれたといいます。
親房の子顕家は、後醍醐天皇に朝廷の改革を進言する上奏文を奉りました。
顕家戦死の七日前のことであったといいます。
31才の青年公卿の言は実に堂々たるもので「神皇正統記」執筆の直接の契機と
なったといいます。
その後、現代の昭和の戦後まで、多くの刊本、注釈書が刊行されました。
日本人の思考の基になった一つであるといわれています。
明治維新の業には、大きな支えの一つであったといわれています。

□天下泰平、五穀豊穣を祈願する「初番目」といわれる神の能には
「神道」の神が多く登場します。日々の生活習慣に密接に結びついた最も身近な
神々だったからでしょう。
現在私たちは、人の形の神に慣れています。
古来日本人は、樹木や岩石など自然の様々なものを神が降り立つ「依代」として
崇めてきました。
森羅万象、風雨、雷など自然現象は神の具現でした。
今トレンディのエコロジーから「神道」は生まれたことになり、古ぼけてダサイように
見えて実は一番新しい宗教といえます。
神道は教理、教説を超越した宗教であるといいます。
時代を包み込みながら人々の生活にとけこんで来ました。
奈良時代に仏教が伝わると仏教思想を取り入れ、江戸時代には幕府の政治理念の
一つであった儒教を取り入れてきました。
殊に仏教との習合は千数百年に及び、どこまでが仏教でどこまでが神道なのか判然と
しない程で全く不可分の形でした。
神社の本殿に仏像が安置され、僧がお経をあげ、護摩を焚いたといいます。
明治維新に、新政府は旧幕の権力と密に結びついた仏教勢力の一掃を図り、
神道を国家統合の具とするために神仏分離令を出しました。
これは国内に広く大混乱を招き、廃仏毀釈運動に発展しました。
この運動はすさまじく、仏像、経典仏具は破壊され焼かれました。
寺の建物はおろか、礎石まで破壊された寺もあったというほどでした。
第二次世界大戦では、不利な戦いの精神的支柱として神道をその具にしました。
神道はわずか八十数年の間に、かつて受けたことのない受難を被ったわけです。
日本国民、わけても識者の神道の忌嫌は、いまだ続いています。
外国の誤解もはなはだしく、外交問題にまで発展することもあるようです。
日本は戦後、経済的に豊かになりましたが、人心の荒廃が進み、社会問題が深刻です。
日本の精神構造の根幹は、神、仏思想であるといいます。
仏教とはほど遠くなった神道をこの時に至ってみれば、考え直す時に来ているように
思われます。
09.20
Fri
□小野小町、古今の美人。歌を詠み六歌仙に名を残す才媛。
この物語は99歳の小野小町の物語。杖にすがり、破れ傘、垢まみれの衣を着人に物を乞う。しかし興味はこれだけではない。仏法を説き高野山の僧がひれ伏す。
若き日の驕慢は今も衰えない。百夜も小町のもとに通った深草の少将の霊は、小町に憑き狂う。老いの悲しみが心に残る名作。最奥の秘曲。 

□高野山の僧が都に向かう途中、卒都婆に腰掛けた老女に出会う。
教化しようとするが仏法問答を挑まれ遂に論破される。老女は小野小町のなれの果てだという。老女は昔の比類ない容姿を語り、今は老残の身を物乞いとなったと語るやいなや深草少将の霊が憑き狂乱となり百夜通いを見せる。
やがて狂乱も去り静かに悟りの世界に入っていく。

□静かな登場の囃子に一歩一歩踏みしめるごとく運ぶ老足に、百年の想いが交錯する。この能の成否が決まる静寂かもしれない。
 老衰に耐え難きに見える小町は「げに古は驕慢、最も甚だしう」とつぶやく。
「驕慢」この能の骨格をなすものだという。
 この能は大別して前段の卒都婆問答と後段の狂乱とに分けられるとする。
高野山の僧は卒都婆の表の意味を説き小町はもう一つの、裏の意味で反論、「本来無一物」すべては愚かな衆生を導くための方便であるとダメをおす。
僧は「誠に悟れる非人なり」とひれ伏し、小町は勝ち誇ったかのように、得意の歌を詠み驕慢をみせる。
 小町は乞食となった身の境涯を嘆くうちに深草少将の霊がつき狂乱となる。
緊張と狂おしさを生々しく、老態で見せる。
 狂乱から一転、悟りの道に入り終曲となる。この落差は著しい。しかも主人公はあの世から現れた霊ではなくこの世の人という設定、どう表現されるのか興味をひく。

□この能は主に「玉造小町子壮衰書」に深草少将の「百夜通い」伝説を加え作られている。
壮衰書は平安中期頃に成立した漢詩文で四字、六字の問答体の序と、五言古調の詩からなり、浄土への憧れを述べる。作者不詳という。
「序」に小町の名はないが、ある女が乞食になったありさま、若き日の美貌、豪奢な生活のありさまが綴られている。この能には「序」の章句が多く採られている。
説に壮衰書は小野小町を題材にしたものでは無いという。古今の美女を乞食に仕立てるのは万人の興味であり、また小町集に「陸奥の玉造江に漕ぐ船の穂にこそいでね君を恋ふれど」とあるのが、壮衰書は小町であるとする説の根拠としたのであろうという。

□小野小町は平安前期の歌人、生没年不詳。851年から3年間ほど宮仕え、辞して幽居した。その名から采女らしく中臈ともいう。これほどよく知られた人物でありながら諸事に諸説があり謎が多いという。

□百夜通い伝説は歌論議の説話に「言い寄る男の心を見ようと車のしじ(車のながえを置く台)に百夜寝たならば言うことを聞こうと言うと男は九十九夜通った。もう一夜という夜、男の親が突然死んだ。男は百夜通えなかった」この説話が小町と少将のものとして伝わった。少将は多分に伝説の人物であろうという。
 百夜通い伝説は能「通小町」に作られており、小野小町、深草少将に纏わる詳細は「通小町」の解説をご覧頂きたい。
09.20
Fri
絢爛な王朝絵巻、「源氏物語」に取材した能。

□日向の国の神主、藤原興範は伊勢神宮参詣のため船出し津の国須磨の浦につきます。
ここは光源氏が?居した所で、名高い「若木の桜」を見物することにします。折しも、たき木を背負った老人が現れ桜を眺めています。興範は老人に、賤しい木こりながら桜に見とれて帰るのを忘れたようですね、この木は名木ですかと声をかけます。老人は、この木が名木かとは貴方こそ田舎者だねと応じます。老人はただ者ではない気配です。興範は光源氏のことを物語るよう老人に頼みます。
老人は昔のことは忘れて過ごしてきたが、といいながら源氏物語の巻を各々挙げて光源氏の一代を物語り実は私は源氏物語の主人公、光源氏であるといい、源氏の死を暗示する巻「雲隠」のように跡かたもなく消え失せます。
興範は所の人に源氏と朧月夜の内侍との恋が露見して須磨に流されたこと、最愛の妻、紫の上との別れの有様などを聞きます。
 夜になり、興範は海辺に旅寝して 波の音を聞きながら源氏の出現の奇特を待ちます。
やがて美しい音楽が聞こえ、気高く、きらびやかに光源氏が姿をあらわします。
 源氏は、私はこの世に生きていたときは光源氏と呼ばれ、今は都卒天に住んでいるが、この美しい海原の月に誘われ天下った。この浦にふさわしい舞を舞おうと青海波の舞を舞います。きらびやかに狩衣を翻し、衣擦れは鈴の音のように。やがて夜は山の端より明け初めます。

○ひとこと 
 若木の桜 源氏の?居に植えられた桜。後に須磨寺の門前の桜がその木と伝えられる。
 青海波  雅楽の一つ。華麗優雅な名曲。この能では、「早舞」で舞う。
 早舞   高貴な人の霊、成仏得脱した女性の舞。爽快、典雅な舞。

□この曲は能好きに、いろいろな曲を連想させる能です。
前シテの老人の装束は無地熨斗目に水衣の、下賎の出で立ちです。ワキの興範が、賤しい木こりと呼ぶのも無理からぬことです。老人は、貴方こそ田舎者と、切り返し源氏の化身の片鱗を見せます。
能「野々宮」でも、源氏と六条御息所の思い出の旧跡、野々宮を訪れた僧に、御息所の霊は「行方も知らぬ御事なるが(どこの誰とも分からない)来たり給うは憚りあり、とうとう帰りたまえ」とせまり御息所の気位をみせます。
この能の前場は「若木の桜」をめぐり展開します。「若木の桜」は須磨の源氏の?居植えられていたさくらです。興範は老人と若木の桜の下に夜を明かし源氏の生涯の話を聞きます。須磨の?居は、華やかな源氏の生涯に唯一の蹉跌でした。朧月夜との恋が露見し、大后の怒りをかい、右大臣の源氏追い落としの画策を知った源氏は自ら須磨に下ります。その慰めとして植えられた桜でした。
 能「忠度」には「一木の桜」があります。忠度の墓標として植えられた桜です。
この能の前場のシテの老人もワキ僧と「一木の桜」の下に寝て物語ります。 
平忠度は勅撰集「千載和歌集」に入集しながら、その歌は朝敵故、詠み人知らずでした。
忠度は詠み人知らずの恨みを抱きながら戦場に赴き、討たれました。  
源氏、御息所、忠度と、これらの曲には失意の底に沈んだ人の哀愁がしみじみただよっています。
 この能のクセでは源氏物語の「巻」の名を連ねて、源氏の名の由来から、中将、正三位と官位を進め、須磨の?居、許されて更に位を進め内大臣、太政大臣、太政天皇まで上りつめた源氏の一代、生涯が語られます。
能「源氏供養」にもこれも源氏物語の巻名を織り込んだ流麗なクセがあります。安居院法印聖覚の作、源氏物語表白の原文を生かしてつくられています。「表白」は光源氏を供養するための願文だといいます。当時は源氏の供養が行なわれていたのであろうか。 
光源氏はフィクションの世界を離れて日本人の心の中に生き続けているということでしょう。

○ひとこと 
ワキ シテ(主役)の相手役
クセ 一曲の中心部。流麗な文辞。曲節を尽くして謡い、舞う。曲舞を取り入れた。

□讁居の閑寂な雰囲気の前場から後場はいきなり華やかな源氏物語の世界です。帝に特に許されたと云う色の狩衣の袖を翻して「青海波」の曲を舞います。 曲中一番の見どころです。
この「須磨源氏」の続編とも云うべき曲に「住吉詣」があります。登場人物、明石の上、源氏、惟光、従者、侍女、童、住吉神主、社人と総勢十人の大舞台です。源氏物語の名に負けない華やかさです。金剛流に小書き「乱拍子」があります。先年久しぶりに上演され耳目を集めました。
09.20
Fri
水の妖精、猩々が浮やかに酔態の舞をみせる。祝言の曲。

唐土(中国)、揚子河のほとりに住む高風は親孝行者でした。その褒美でしょうか、或夜不思議な夢を見ます。夢の告げの通り揚子の市で酒を売っていると、しだいに富貴の身になっていきます。
 いつも高風の酒を飲みにやってくる不思議な風体の男がいます。いくら酒をのんでも顔の色が変わりません。名をたずねると、この揚子の海に住む猩々と答え立ち去ります。
 高風は今日も壷に酒を湛えて猩々を待っています。
やがて月が昇り、猩々が浮かび上がります。猩々は高風と菊の酒を酌み交わし、酒の徳を謡い、舞い、汲めども尽きない酒の壷を高風に与え酔い臥します。
 高風は酔の眠りから覚めます。猩々の出現は夢だったのです。
不思議にも猩々が与えた壷はそのまま残っていました。高風の家は末永く栄えました。

石橋と並ぶ祝言の能です。シテの酔態、祝意を表す赤ずくめの装束や笑みを浮かべた赤い童顔の面が祝言色を盛り上げます。
シテは、ゆったりと、浮やかな、「下り端」の囃子で現れ、同じリズムの「渡り拍子」の謡で舞います。
「舞」を主にした楽しい能です。

猩々は中国の伝説上の動物で、オウムのように人の言葉を話し(礼記)酒を好む動物(後漢書)として伝えられたといいます。
 我が国では、この能のように妖精的な認識ではなかったようで、「酒を好む猩々はモタイ(酒や水を入れる器)の辺りに繋がれ(義経紀)」とか、「その血を以て毛ケイを染める(本草綱目)」、さらに「大海のほとりの猩々は酒に酔ふて臥せりて血をしぼられ(宝物集)」と散々です。
我が国の河童のようなものでしょうが、すっかりアイドル化された河童と比べ哀れです。
 猩々の名は、現在では馴染みが薄く、オランウータンの和名、夏の厄介者、目玉の赤い猩々蝿(ショウジョウバエ)、大酒家にその名を止める程度です。
揚子江は海とも河とも判別できないほどの中国第一の大河です。この能で「海中に住む猩々」というのも頷けます。

この能は、こうした我が国の猩々の認識を越えて作られています。
「菊の酒」「三寸(みき)」「潯陽」の言葉を軸にした詞章を「渡り拍子」のリズムで、酒盛りの雰囲気を醸し、祝言色を盛り上げます。
 「菊の水」は周王の治世、深山に流された少年が、菊の葉に経文を書き付け、その葉から滴り落ちた露が薬の酒になり、これを飲んで七百年経っても童子のままであったという故事(能、枕慈童)によるものす。「三寸」は「酒を三寸(みき)と訓ずるは酒を飲めば則ち邪風、皮膚を去ること三寸と云々(江次第鈔)」によるものです。
「潯陽」は、酒を愛した詩仙、白居易の詩、琵琶行でよく知られた所です。イメージが膨らみます。
 「渡り拍子」は一字一拍の「大ノリ」のリズムを、二字一拍の平ノリのリズムにしたものです。大ノリの伸びやかなリズムと詞章の文意を重視、表現する平ノリのリズムを併せ持つリズムです。神仙、妖精などの登場に謡われます。

室町初期に成ったという、書簡文範例集「庭訓往来」の市の由来の項に本曲と同じ内容の説話があるそうですが、本曲の出典か、又は同種の説話があったのかどうかわからないといいます。

この能は、最も短い能であり、半能形式です。この能の成立時は復式能だったのではないかといわれています。本曲の原型ではないかといわれるものに「一番猩々」があり、前場、後場を持つ復式能だったようです。写本が関東大震災で焼失したといわれています。
09.20
Fri
文殊菩薩の浄土。咲き乱れる牡丹に戯れる獅子の親子。豪快に、渾身の力を揮い舞う。重い習いの曲。

□深山幽谷の景色を静寂に、浄土を荘重に、獅子の勢いを雄渾に、
登場の囃子、乱序にひかれて現れた獅子の親子が豪快に、渾身の力を振り絞り舞う。
その洗練された舞は、古来から伝わる数ある獅子の舞とは格段の完成度。
その躍動する力感は、自律神経失調症気味の現代人を大いに勇気がづけよう。

□天台の高僧寂昭が清涼山を訪ね石橋を渡ろうとすると柴を負った老人が現れ
その橋を渡るのは無謀であると諫め石橋の謂われを語る。
そもそもこの石橋は人が架けた橋ではない。自然と出現したものだ。
一面苔が覆い滑めり、幅は一尺に満たず、長さ三丈余り高さ三千丈、
底は地獄の如きである。
名を得た高僧も難行苦行、捨身の行の末、渡る。向こうは文殊の浄土、
妙なる音楽が響きたえず花が降っている。
菩薩来現もまもなくである、しばらくお待ちなさいと姿を消す。― 中入―
やがて文殊菩薩の使い獅子の親子が現れ獅子の舞を舞い牡丹に戯れ、
豊かに平和な御代を祝福する。

□獅子はライオンではない。文殊菩薩の仕える霊獣である。したがって舞台は
文殊の浄土清涼山なのだ。
 獅子の舞は勢いが身上、拳を獅子の足の如く握りしめ両手をピンと張り舞う。
手に何も持たないのも獅子の特徴。渾身の演技は技術的にも体力的にも難曲である。
獅子の登場囃子「乱序」は獅子の舞の前奏曲でもある。
中ほどで小鼓、太鼓で奏される「露ノ拍子」は深山幽谷に滴る露の音といわれ
圧巻である。この「乱序」が始まると獅子は半幕で下半身を見せ期待感を高める。
親獅子は白頭に面「獅子口」子獅子は赤頭に面「小獅子」である。
獅子の面は大きく重くそのうえ動きが激しいので面紐二本を用いる。
獅子の舞は力強く豪快な面白さだけではない。紅白の牡丹の立木を舞台正面に立て
赤白二匹の獅子が乱舞する。その華やかさは比類がない。
獅子舞を見せる曲は他に「望月」、「内外詣」があるが、これらは曲の中の「舞」
として見せるのだが、この能は獅子そのものである。
自ずと心構えが違ってこよう。これら三曲は三獅子と称し重く扱われている。
また本曲は「猩々」とともに本祝言物とされ、また後場だけ半能形式で
上演されることが多い。
又この能では石橋の如き桃源郷は見えても渡らざることは人生にはあるものだと教えているようだ。

□寂昭法師、俗名大江定基。三河守であったが出家し比叡山に入り
密教を受ける。1002年、宋に渡り円通大師の号を与えられ敬重された。
その後は帰国せず彼の地で没した
詩歌に長じ臨終の詩「せい歌遙かに聞ゆ孤雲の上なれや。聖衆来迎す落日のまえとかや」
は有名。望郷の詩は聞かない。
09.20
Fri
人買いの手から少女を救い出す青年説教僧の熱血の物語。次々に繰り出される舞が見どころ。

都、雲居寺では造営の資金の喜捨を募るため、自然居士の7日間の説法が行われています。
満願の日、両親の供養を願う諷誦文と寄進のための小袖を持ち、少女がやってきます。
そこへ人買の荒くれ男が現れ世話役の制止にも、これをおどし連れ去ります。
 諷誦文には身の代衣を寄進すると書いてあります。居士は、この少女は自らの身を売り、小袖に代えたのだと覚り、満願の説法を中止して少女を救うため人買の後を追います。
 居士は琵琶湖畔の大津で、まさに舟出しようとする人買に追いつき小袖を投げ返し、得意の弁説で少女を返せと迫り、舟に乗り込みます。
 人買は命を取るとおどしますが、居士は、これは捨身の行だから命を取ってもよいと応酬し、少女を返さなければ人買の行先、奥州まででもついて行くと居座ります。
 ほとほと手を焼いた人買達は、仕方なく居士に舞を舞わせ、散々なぶり者にした上、少女を返そうと相談します。
 居士は屈辱に耐えながら人買が次々に要求する、中ノ舞、船の曲舞、簓、羯鼓、の芸を見せ、ついに少女を取り返します。

□この能に登場する人物は、いずれも強烈なキャラクターです。
 何時の世でも、人身売買に携わる人は極悪人です。この能ができた中世は、人買いの横行した時代だったのでしょう。
能でも「隅田川」「三井寺」など数曲の作品があります。
彼等は買い取るだけでなく、甘言を弄して少年・少女、果ては立派な青年、夫婦までも誘拐したといいます。
まずこの人買いが登場し、名乗って舞台の奥に退くが、強烈な印象を残します。
 次はもう雲居寺の境内の自然居士の説教の場です。
雲居寺の門前に住む人、自然居士の説教会を切り盛りする世話役のアイが登場し、今日が満願であると触れます。
説教の場の雰囲気を作り観客の期待感を誘います。見所の観客は、説法の聴衆です。

□シテ自然居士は登場の囃子もなく、アイに語りかけながら登場します。
いかにも人々の信望厚い僧という雰囲気が漂い、説教の場も厳粛な空気が漂います。
 この曲の作者、観阿弥が演じた自然居士は、喝食の少年僧という設定だったようです。
もともと喝食(カツシキ)は寺の食堂で僧の食事の世話などをする少年僧だったといいます。現在では血気溢れる青年僧で演じられています。
 この説教の場に現れる少女は、自分自身を人買いに売りました。「桜川」という曲にも同様の少年が登場します。「自然居士」の少女は親の供養のため人買いに自分自身を売りますが、「桜川」の少年は生活苦のために自分自身を売りました。共に世相を伝えて興味深いところです。
 居士に、満願の説法会を中止してまで少女の救出を決意させたのは、少女の深い信仰心と,居士の仏法を説くのみならず、事に即応して実践するという宗教上の信念でした。
中世の人々の信仰心の強さが、この少女と居士に凝縮されています。
 居士が少女を救出しようと、橋掛に向かい、欄干から身を乗り出し舞台に向かい呼びかけると舞台は広々とした琵琶湖です。
 舟出寸前の人買いの櫂の手を止めるための呼びかけから、知識階級の自然居士と下層の心ない人、人買いの駆け引きがドラマの主軸となっていきます。

□大方の能の舞事は曲や終曲のキリの前後をうけて舞います。
この能の後半は、中ノ舞、船の曲舞、簓、羯鼓 と芸尽くしになりますが、これらの舞の間には何の脈絡もなく、人買いの求めに応じて舞うという設定です。この四つの舞は、ごく自然に無理なく進行します。これらの舞は、なぶられるを意に介せず、舞って見せる気持ちで酒々落々と舞うとも云い、又、反対に人買いに強いられていやいや舞う心持ちで舞うともいい、舞手によって見解が違うようです。
シテ自然居士の説教の場の「静」から、大津、松本での人買いとの交渉、舞尽くしへと次第に「動」へ転じていくさまは、まさに「序破急」です。終曲の「簓の段」は、段々と早く舞うものだといいます。人買いが心変わりしないうちに逃げ帰るということなのでしょう。終演後の満足感は比類がないと言いたいほどです。
 この能は観阿弥、世阿弥以前のいわば能の創成期の作品の改作ともいわれています。

□自然居士は、和泉国日根郡自然田村(大阪府泉南郡阪南町あたり)の人で、出身の地名から自然居士と称しました。
1300年頃、鎌倉時代中期に活躍した在家の宗教家で、袈裟を着て高座に上り説教をしました。説教の場で簓を擦り、羯鼓 を打ち、扇を執って舞い俗衆を教化しました。
とくに簓は、ささら太郎と呼ばれる程の名手でした。
その姿は異様で、法衣をまとい髪を肩まで垂らし髭をたくわえていたといいます。
知識の顰蹙を買いながらも、庶民の人気を集めたといいます。
「日本名僧伝」には自然居士は南襌寺開山、大明国師の弟子で雲居寺、法城寺の両寺に住んだと短い記述があります。ただし、この能の自然居士と同一人物かどうかわからないといいます。観阿弥は、この異様ながら庶民の人気者を清々しい少年僧に仕立て上げました。
「居士」とは、現在は死者の戒名ですが、もともとは在家で仏道修行する男子のことです。
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