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06.07
Sun
紀貫之は和歌の道をきわめようと玉津島明神参詣を思い立ち、
南和泉の里にさしかかると俄かに日が暮れ大雨になり、しかも乗っていた馬も
倒れ伏してしまいました。
貫之はどうすることもできず途方にくれていました。
 やがて傘をさし松明(たいまつ)を打ち振りながら老宮人が現れます。
宮人は、燈明もなく神楽の声も聞こえない、なんと怠慢な宮守どもよ、と松明をかかげて
社殿をみました。
 貫之は宮人にことばをかけ、困った状況をはなします。
宮人は、ここは物とがめ(祟り)する蟻通明神の神域で、下馬の礼を欠いたためで、
もしそうと知っての事ならもはや命はないといいます。
宮人が松明をかかげると鳥居の奥に社殿が見えました。貫之は驚きくやみます。
 宮人は紀貫之と知り、神慮をしずめるため献歌をすすめました。
貫之は「雨雲の…」と詠みました。
 宮人は感じ入り、これほどの歌なら神も納受されないはずはないといい、
二人は和歌の成り立ちや和歌の徳について語り合います。
神慮に叶ったしるしに、雨も止み馬も歩き出しました。
宮人は貫之の求めに祝詞(のりと)を奏上し、神さびた舞を舞うと見るや
実は蟻通の明神であり今の貫之の歌に感じて姿をあらわしたのだといって
鳥居の陰にかくれてしまいました。

□この曲は田楽であったようで、この能を世阿弥が演じた時、田楽の名手亀阿弥に
そっくりだと増阿弥が言ったと「田楽談議」にあるそうです。どの部分かはわかりませんが、
シテ宮守を神の化身というよりも神そのものとして亀阿弥は謡ったのかもしれません。
宮人は神託の代弁者であり宮人すなわち神ということは当時の人にごく自然に
受け入れられていたのでしょう。
 能「清経」の宇佐八幡の神託の歌も同じものと考えられると思います。
(平家一門が宇佐八幡に戦勝祈願をしたところ「神殿大いに鳴動してやや久しくして
ゆゆしき御声にて「世の中の宇佐には神も無きものを、こころづくしに何祈るらん」と
御神託があったことが源平盛衰記に見えます)。
 この能は和歌の徳をたたえ、また祝言の意も含ませてあるといわれます。この能の魅力、面白さはやはりこの能に横溢する「神秘」にあるのだと思います。

□蟻通神社の名の神社は、大阪府泉佐野市、和歌山県田辺市、同伊都郡葛城町、
奈良県吉野の川上神社(大正年間に改称)などで、いずれも現存しており、
同じような縁起が語りつがれているようです。
この能の舞台は泉佐野の蟻通神社です。

□蟻通明神説話は「貫之集」「俊頼髄脳」「枕草子」「大鏡」に貫之の歌徳説話が詳しといいます。
枕草子には「蟻通明神、貫之が馬のわづらひけるをこの明神病ませ給うとて歌よみてたてまつりけんいとおかし」に始まり次の縁起があります。
 唐土の帝が日本を奪うと難題を出した。
その一つに七曲に曲がった玉に緒を通せというものでした。
中将は年老いた親に教えてもらい、大きな蟻の腰に細い糸をつけ、玉の穴を
くぐらせ、糸を通した。
この老父が神になり蟻通明神となった。

□この能の典拠は「貫之集」「俊頼髄脳」であるといいます。
貫之が紀の国からの帰国の途路、突然馬が倒れ、病にかかります。
通りがかりの人がこれはこの近くの蟻通明神の仕業で社のしるしもないが、
崇をする神だから祈った方がよいといいます。
御幣もなく祈りようがない。
ただ手を洗いひれ伏して拝み献歌をしました。
「かき曇りあやめも知らぬ大空にありとほしをば思うべしやは」。
神慮は和らぎ、馬はもとのように治りました。
当時蟻通明神は「ものとがめ」する神として知られていたのでしょう。

□紀貫之は平安時代の代表的な歌人で、「古今集」の撰者の一人として、
また「土佐日記」で著名です。
一族に同じ「古今集」の撰者友則、能「井筒」の有常の女むすめ(業平の妻)などが
います。
西暦八七二年頃生まれ、七四五没、七十五才位、当時としてはかなりの長寿でした。

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