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09.20
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大雪の葛城山中で繰り広げられる葛城明神の物語。美しい月下の舞。
葛城明神(奈良県)に参詣の羽黒山(山形県)の山伏一行が、葛城山中で大雪に閉じこめられ岩陰で雪を晴らしています。薪を背負い雪にまみれた女が現れ、山伏一行を谷陰の我が家に案内し、柴を焚き山伏達をもてなします。
 山伏達が勤め(法事)を始めようとしますと、女は「お勤めのついでに、加持祈祷してください」と山伏達に頼みます。山伏が不審すると女は、実は私は葛城の神だが、神の岩橋を架けるよう役行者に命ぜられたが果たせなかったその罪により、不動明王の蔦葛の索(縛り縄)で縛られ呪縛から逃れられない、この身を助けて下さいと頼み自分は葛城明神であると、それとなく明かして姿を隠します。
 山伏達は葛城の神のために夜の勤行を始めます。
やがて葛城の神が蔦鬘で縛られた姿で現れここ高間山(金剛山)は地上の高天原であると、神代の故事にならい大和舞を舞います。夜明けが近づくと明神は醜い顔かたちを恥じ、明るくなる前にと岩戸の中に入ります。
□シテ、里女は笠をかぶり薪を背負い杖をつき、幕の内からワキ山伏に呼びかけながら橋掛かりをしずかに歩き舞台に入ります。笠にも背負った薪にも雪がついています。「笠も薪も埋もれて」の情景です。
女は薪取りの帰途です。シテの登場は、出囃子はなく「呼びかけ」です。降りしきる雪の向こうから呼びかけ、次第に近づいて来る様に謡います。観客はワキと一緒に居ます。遠近を表現します。数ある呼掛けの能の中でも雪の静寂を描いて秀逸です。
 舞台に入ったシテは、漢詩や和歌を詠み込んだ美しい情景描写の地謡のうちに舞台を一巡します。笠も、背負った薪も埋もれる程の大雪の中を谷の道を急ぐ様を見せます。
庵に着いたシテは、笠、負柴を取り、一握りの柴(標)を持って出、ワキと対座し、標のいわれについて語り、扇をひろげ、あおぎ柴を焚きます。
 ここまでは雪中、庵の内、と演じ分けるという心得があるといいます。
シテ里女は、ワキ山伏に三熱(神が受ける苦しみ)の苦しみを訴え、不動明王の索に縛られ岩戸に閉じこめられた葛城の明神であると明かし、「明くるわびしき葛城の…神隠れにぞなりにける」夜が明けると醜い顔を見られるのが辛いと神隠れになった、と姿を消します。
シテは柱の際で廻りビラキという、クルリと正面を向き両手を大きく拡げて下す型をします。神隠れになり忽然と姿を消したことを表します。索とは、不動明王が持つ縄のことです。不動明王の立像は、右手に剣、左手に縄を持っています。
これで前場は終わりです。

□アイが出てワキ、山伏達に岩橋の伝説を語ります。「役の行者が葛城の神に、山伏たちのため、葛城山から大峰へ通ずる岩橋をかけるように命じました。
葛城の神は醜い顔を恥じて夜しか仕事をしなかったので橋はなかなか完成しません。
怒った役の行者は葛城の神を蔦葛で縛った」と語ります。
葛城山から大峰までは道程も長く難路でした。大峰は修験道の根本霊場。

□後シテ葛城の明神はワキ山伏の待謡にひかれるように登場します。
頭に蔦葛のついた天冠を載いて本来の姿を現します。天冠は、高貴な女性又は女神を、蔦葛は、縛られていることを表しています。
ワキの待謡とは、シテの登場を待つという意で読経の様子を謡います。
葛城の神は、高間山(金剛山の別称)を天上界の高天の原になぞらえ天の岩戸の前で天の鈿女命が舞ったという舞を模して大和舞(序の舞)を舞い、夜が明けぬ前にと岩戸に入ります。高間山は高天原であるという伝承に拠ったものです。
シテは常座と呼ばれる舞台後方の端で足拍子を二ツ踏みます。終曲を意味します。

□役行者(えんのぎょうじゃ)が葛城の神を呪縛したという説話は、日本霊異記や続日本記、今昔物語にも見え、本曲は源平盛衰記巻二十八「役行者の事」によったものと言われています。
役行者は藤の衣をまとい、松の緑の露で命を継ぎ三十余年、孔雀明王の法を修行しました。
「大峰葛城を通りて行き給いけるに道遠しとて葛城の一言主と云う神に二上の獄より神山まで石橋を渡せと宜ひける」
一言主の神は、顔が醜かったので昼はあまり仕事をせず、夜、橋を架けたが、役行者は遅いと腹を立て蔦葛で縛ってしまいました。
通力自在とはいっても、役行者も人間、神を縛るというのは現代人には考えにくいことです。昔の人達は、神との距離が近いほどの精神生活をしていたと理解するしかありません。
□一言主の神は、日本霊異記、今昔物語では荒ぶる男神で恐ろしく、醜い風貌であるとします。本曲で女神としたのは序ノ舞、三番物に仕立てるためでしょう。
又、当時は女神と見る伝承もあったのではないかともいいます。
一言主の神を祭る神社は葛城山の麓の山裾にあり、前は田園風景の広がるひなびた所にあります。
 境内に土蜘蛛の巣穴というのもあります。能「土蜘蛛」に「我、葛城山に年を経る」とあります。

□山伏の祖といわれる役行者は名を役小角(えんのおづぬ)といい奈良朝頃の人と云われています。葛城山の修行のことは前に述べましたが、通力自在で、空を自在に飛び回ったといいます。
 岩橋伝説に後日談のようなものがあり、呪縛された一言主神は役行者が乱暴で困ると朝廷に訴え出ました。朝廷では彼を捕らえようとしましたが、空を飛び回って捕まらない。
そこで母を捕えました。さすがに役行者も屈服し捕えられ伊豆大島に流されました。昼はおとなしく島にとどまっていましたが、夜になると空を飛び富士山に遊びに出かけたといいます。役行者は中国の道教の仙人をモデルにした多分に伝説上の人物という説もあります。

□山伏の起こりは、三井寺の僧であるといわれています。
三井寺は天台座主円珍が山徒の信任を欠き、大津の天台別院に移ったのが始まりで、以来比叡山と三井寺の間で争いが絶えませんでした。
かの弁慶も三井寺に攻め入り鐘を引きずり下ろし、琵琶湖に蹴落としその音が百里四方に鳴り響いたといいます。鐘は龍宮に至り、俵藤太秀卿が持ち帰ったと、能「三井寺」にもあります。この鐘は現存し、ひび割れています。犯人は弁慶ということになりますがもちろん架空の話で、比叡山、三井寺間の抗争の産物です。
天台では回峰行が行われていました。僧達の修行、首都鎮守の祈祷、僧兵としての鍛錬も兼ねていたようです。一方三井寺では、あたり一帯が比叡山の縄張りだったので回峰行の場所がありません。そこで能野へでかけていって修行しました。
この修行者が地元の熊野三山の氏子と習合して起こったのが山伏であるといいます。

前場、大雪の静寂を描いて秀逸です。庵のうちに僧一行をもてなす。大雪の外、温かい庵のうちの対比が面白く、後場、月下の雪原に舞う。
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