鎌倉前期の天才歌人、強烈な性格の持ち主であったという藤原定家の陰湿、凄惨な恋を背景に式子内親王の苦悩を描く。
初冬の都を訪れた僧が上京辺りで時雨に遭い近くの家に雨宿りします。女が現れこの家は藤原定家が建てた「時雨の亭」で、もの寂しい時雨の頃、訪れ歌を詠んだのだと教ます。今日は命日ですので供養してほしいと墓に案内します。蔦葛に覆われた石塔があります。式子内親王の墓で、纏わりついた葛は定家葛だといいその由来を語ります。
「式子内親王は加茂の斉院になりましたが程なく役を退きました。定家の卿が忍び忍びに通い、深い契りを結ぶようになったのです。内親王は、「玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば忍ぶることの弱りもぞする」と心の内を詠み、事の露見を恐れましたが、間もなく人の知るところとなり互いに逢うことが出来なくなりました。その後、間もなく内親王は亡くなり定家の卿の執心は葛となって墓石にまとわり付いたのです」私は実は式子内親王の幽霊です。身は消え石塔となっても、定家の卿の妄執は蔦葛となって身にまとわり苦しみに耐えられません。どうか助けて下さいと消えていきます。
僧は所の人に定家葛の謂われを詳しく聞き、式子内親王の墓前で経を読みます。
塚の中から苦悩に憔悴した内親王の霊があらわれます。僧の弔いに報恩の舞を舞い、再び塚の中に入ります。定家葛はもとの如く塚を覆います。
舞台の後方に据えられた作り物の塚は式子内親王の墓です。定家葛で覆われています。定家葛にまとわれた塚の存在は重く、この能そのものを象徴しています。地謡が「庭も籬もそれとなく、荒れのみ増さる草むらの」内親王の心の風景を謡います。自然の風景を借りて人の心象風景を表すのは能の常套であり、自然と人の心の一体感をもつ日本人の心を感じます。
浮ついた恋はすまいと加茂の斉院に入った式子内親王でしたが忍ぶ恋に陥ってしまいます。「玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば」恋の露見を恐れた悲痛なさけびです。
内親王の死後も定家の妄執は定家葛となって墓石に絡みつき内親王の魂は苦患に縛られます。露見恐れる式子内親王と墓石に絡みつく定家の執念。この能の主題です。それ程の過激な表現はないものの人が人を恋うとは何か、苦しいほど心の奥に沁みこみます。
この能は、演じる側にとっては難曲であり大切に扱う曲です。色々な工夫を凝らします。例えば「石に残す形だに、それとも見えず蔦葛」と塚に中入りします。石塔に引き寄せられるように、定家の執心に引き寄せられるように、作り物の枠に足をすり付けるように中に入ります。舞も蔦葛に縛られた態に小さく、謡もリズムにノリすぎないようになど口伝の多い曲です。いろいろの制約の中で内親王の品位を保ち舞うことを第一とします。
小書(替えの演出)が多いのもこの曲への執着を示しています。「埋留」「墓之拍子」「袖神楽」「引導」「露之紐解」「石塔之拍子」「二段半之舞」「五輪砕」。いずれも含蓄のある難しい小書です。更にこれら全てを演じる「一式之習」があります。技術、気力、豊かな人生経験を持つ者にのみ許されるといわれています。
式子内親王、藤原定家とはどんな人だったのだろうか。残された記録や言い伝えから想像するしかないでしょう。
内親王は後白河天皇の皇女、1159年、加茂斉院(加茂神社に奉仕した未婚の皇女又は皇族の子女。伊勢神宮は斎宮)となり10年後、病を得て辞しました。和歌をよくし多分和歌を通してでしょうが藤原俊成、定家父子と交わったと言います。家集に「式子内親王集」。1201年没。(50才半ばだったか)
藤原定家(1162~1241年)鎌倉前期の歌人。式子内親王が斉院になった時、定家は3才、内親王が斉院を辞した時は13才でした。これらから類推して二人の間には10才以上の年齢差があったことになり、二人の恋物語は虚構であろうといいます。この曲とほぼ同じころ成立の「源氏大綱」にこの曲と同じ内容の説話があると言いますが能の成立とどちらが先か分からないと言います。また全く逆の話も伝えられています。内親王が斉院を辞して後の話らしいが、定家はあるとき内親王と行き会いがしらに内親王を恋う歌をくちすさみ行き過ぎたが内親王は「その御つら(顔)にてや」と云い返歌もしなかったといいます。定家は恐ろしく醜男だったそうです。
定家は鎌倉を代表する歌人、千載集の選者藤原俊成の嫡男。幼い頃から歌才を現し父、俊成の嘱望ははかり知れなかったといいます。23才の若年で彼の大詩人、西行に私家集の選歌を頼まれたが、西行が若い自分をからかったったのだろうと本気にしなかったが西行に催促され慌てたと云います。西行も定家の歌才を高く買っていました。しかし傲岸、狷介(おごりたかぶりへりくだらない。頑固でかたい)な性格で人に嫌われ出世もままならなかったらしい。九条家の庇護を受けていたが九条家の没落とともに落ちぶれ作歌にも行きづまり家人一人の草ぼうぼうの家に住んでいたこともあると云います。
こうした定家像から定家、醜男説や能「定家」は作られたのかもしれません。
定家は持病持ちであったといいます。生涯二十数回熊野行幸をした熊野好きの天皇に随行して道作りなど先行の指揮をしてあばら屋に泊まり、死ぬ思いをしたことが日記にあるそうですが、それでも七十九才の天寿を全うしました。定家の父、俊成は九十才、驚く程長寿の家系だったのでしょうか。
定家は「新古今集」の選者の一人。71才で「新勅撰集」を撰、歌壇に君臨しました。「近代秀歌」「毎月抄」の歌論を著し、以後の韻文学に大きな影響をあたえ、その功績大きいといいます。19才からの日記「名月記」は当時の貴族社会の事情を伝える貴重な資料となっています。「源氏物語」、「古今集」の改訂などその著作は多く研究者、学者としての功績は大きいと云います。
定家の孫の代に、和歌の家、藤原家は二条、京極、冷泉に分立しました。冷泉家の祖、冷泉為相は鎌倉中納言として能「六浦」に登場します。為相は財産争いの訴訟で鎌倉に下った母、阿仏尼の後を追い一時鎌倉に滞在、母と鎌倉の歌壇を指導しました。母阿仏尼の「十六夜日記」はその辺事情を書いたものだといいます。
冷泉家は上冷泉、下冷泉に分かれ和歌の師範家として今に続いています。
初冬の都を訪れた僧が上京辺りで時雨に遭い近くの家に雨宿りします。女が現れこの家は藤原定家が建てた「時雨の亭」で、もの寂しい時雨の頃、訪れ歌を詠んだのだと教ます。今日は命日ですので供養してほしいと墓に案内します。蔦葛に覆われた石塔があります。式子内親王の墓で、纏わりついた葛は定家葛だといいその由来を語ります。
「式子内親王は加茂の斉院になりましたが程なく役を退きました。定家の卿が忍び忍びに通い、深い契りを結ぶようになったのです。内親王は、「玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば忍ぶることの弱りもぞする」と心の内を詠み、事の露見を恐れましたが、間もなく人の知るところとなり互いに逢うことが出来なくなりました。その後、間もなく内親王は亡くなり定家の卿の執心は葛となって墓石にまとわり付いたのです」私は実は式子内親王の幽霊です。身は消え石塔となっても、定家の卿の妄執は蔦葛となって身にまとわり苦しみに耐えられません。どうか助けて下さいと消えていきます。
僧は所の人に定家葛の謂われを詳しく聞き、式子内親王の墓前で経を読みます。
塚の中から苦悩に憔悴した内親王の霊があらわれます。僧の弔いに報恩の舞を舞い、再び塚の中に入ります。定家葛はもとの如く塚を覆います。
舞台の後方に据えられた作り物の塚は式子内親王の墓です。定家葛で覆われています。定家葛にまとわれた塚の存在は重く、この能そのものを象徴しています。地謡が「庭も籬もそれとなく、荒れのみ増さる草むらの」内親王の心の風景を謡います。自然の風景を借りて人の心象風景を表すのは能の常套であり、自然と人の心の一体感をもつ日本人の心を感じます。
浮ついた恋はすまいと加茂の斉院に入った式子内親王でしたが忍ぶ恋に陥ってしまいます。「玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば」恋の露見を恐れた悲痛なさけびです。
内親王の死後も定家の妄執は定家葛となって墓石に絡みつき内親王の魂は苦患に縛られます。露見恐れる式子内親王と墓石に絡みつく定家の執念。この能の主題です。それ程の過激な表現はないものの人が人を恋うとは何か、苦しいほど心の奥に沁みこみます。
この能は、演じる側にとっては難曲であり大切に扱う曲です。色々な工夫を凝らします。例えば「石に残す形だに、それとも見えず蔦葛」と塚に中入りします。石塔に引き寄せられるように、定家の執心に引き寄せられるように、作り物の枠に足をすり付けるように中に入ります。舞も蔦葛に縛られた態に小さく、謡もリズムにノリすぎないようになど口伝の多い曲です。いろいろの制約の中で内親王の品位を保ち舞うことを第一とします。
小書(替えの演出)が多いのもこの曲への執着を示しています。「埋留」「墓之拍子」「袖神楽」「引導」「露之紐解」「石塔之拍子」「二段半之舞」「五輪砕」。いずれも含蓄のある難しい小書です。更にこれら全てを演じる「一式之習」があります。技術、気力、豊かな人生経験を持つ者にのみ許されるといわれています。
式子内親王、藤原定家とはどんな人だったのだろうか。残された記録や言い伝えから想像するしかないでしょう。
内親王は後白河天皇の皇女、1159年、加茂斉院(加茂神社に奉仕した未婚の皇女又は皇族の子女。伊勢神宮は斎宮)となり10年後、病を得て辞しました。和歌をよくし多分和歌を通してでしょうが藤原俊成、定家父子と交わったと言います。家集に「式子内親王集」。1201年没。(50才半ばだったか)
藤原定家(1162~1241年)鎌倉前期の歌人。式子内親王が斉院になった時、定家は3才、内親王が斉院を辞した時は13才でした。これらから類推して二人の間には10才以上の年齢差があったことになり、二人の恋物語は虚構であろうといいます。この曲とほぼ同じころ成立の「源氏大綱」にこの曲と同じ内容の説話があると言いますが能の成立とどちらが先か分からないと言います。また全く逆の話も伝えられています。内親王が斉院を辞して後の話らしいが、定家はあるとき内親王と行き会いがしらに内親王を恋う歌をくちすさみ行き過ぎたが内親王は「その御つら(顔)にてや」と云い返歌もしなかったといいます。定家は恐ろしく醜男だったそうです。
定家は鎌倉を代表する歌人、千載集の選者藤原俊成の嫡男。幼い頃から歌才を現し父、俊成の嘱望ははかり知れなかったといいます。23才の若年で彼の大詩人、西行に私家集の選歌を頼まれたが、西行が若い自分をからかったったのだろうと本気にしなかったが西行に催促され慌てたと云います。西行も定家の歌才を高く買っていました。しかし傲岸、狷介(おごりたかぶりへりくだらない。頑固でかたい)な性格で人に嫌われ出世もままならなかったらしい。九条家の庇護を受けていたが九条家の没落とともに落ちぶれ作歌にも行きづまり家人一人の草ぼうぼうの家に住んでいたこともあると云います。
こうした定家像から定家、醜男説や能「定家」は作られたのかもしれません。
定家は持病持ちであったといいます。生涯二十数回熊野行幸をした熊野好きの天皇に随行して道作りなど先行の指揮をしてあばら屋に泊まり、死ぬ思いをしたことが日記にあるそうですが、それでも七十九才の天寿を全うしました。定家の父、俊成は九十才、驚く程長寿の家系だったのでしょうか。
定家は「新古今集」の選者の一人。71才で「新勅撰集」を撰、歌壇に君臨しました。「近代秀歌」「毎月抄」の歌論を著し、以後の韻文学に大きな影響をあたえ、その功績大きいといいます。19才からの日記「名月記」は当時の貴族社会の事情を伝える貴重な資料となっています。「源氏物語」、「古今集」の改訂などその著作は多く研究者、学者としての功績は大きいと云います。
定家の孫の代に、和歌の家、藤原家は二条、京極、冷泉に分立しました。冷泉家の祖、冷泉為相は鎌倉中納言として能「六浦」に登場します。為相は財産争いの訴訟で鎌倉に下った母、阿仏尼の後を追い一時鎌倉に滞在、母と鎌倉の歌壇を指導しました。母阿仏尼の「十六夜日記」はその辺事情を書いたものだといいます。
冷泉家は上冷泉、下冷泉に分かれ和歌の師範家として今に続いています。