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01.14
Tue
□東国(関東)の僧が都に上り、早春の東北院をたずねます。
今を盛と咲く梅に見入っていた僧は、これ程の梅に名のないことはあるまいと
門前の人に梅の名をたずねます。門前の人は「和泉式部」という梅ですと教えます。
どこからともなく里の女が呼びかけ現れます。昔この東北院に、
上東門院(中宮藤原彰子)が住んでいた時、和泉式部はあの方丈を
休み所(休息する所)としていました。
軒端近くに梅を植え「軒端の梅」と名付け愛したと語り、
妙法蓮華の花の縁に法華経をも読誦して下さるならばゆきずりの者への
功徳ともなるでしょう、と読経をすすめ、この梅こそ「軒端の梅」であるといい
年毎に主を慕うかのように美しく咲くのです。
私こそこの梅の主ですと名乗り花の陰に隠れて見えなくなります。

僧達は月下の梅のもとで夜通し法華経を読みます。
和泉式部が昔の美しい姿で現れ、昔、御堂の関白(藤原道長)が
この東北院の門前を通りながらこの経の中の譬喩品を読んだのを聞いて
「門の外法の車の音聞けば我も火宅を出ぬべきかな」の歌をよんだ事を
思い出すと語り、今まで詠んできた歌の徳によって
火宅(煩悩の苦しみを火事の家の中に例えた)を出て
悟りを得て成仏し、歌舞の菩薩となって今でもこの寺に住んでいると話します。
式部はさらに和歌の徳を語り東北院が王城の鬼門を護る霊地であることや
寺のたたずまい、お参りする人々のにぎわいの様子を語ります。
和泉式部は舞を舞います。昔、色香に染んだ生活を思い出し、
涙を流しますが、それを人に見せるのも恥ずかしいと方丈の中に
はいるかと見て僧の夢は覚めます。

□能のワキは大半が僧です。シテの大半が「あの世の人」であり、
  仮にこの世に現れるのですから、ワキが僧であるのが一番という訳です。
  旅の修行僧には、上り僧、下り僧、つまり地方から都に上る僧、都から地方へ下る僧があり、
  下り僧が格が上です。装束の模様も違います。名前を名乗る僧が一番格が上で、袴を着用します。
  「東北」のワキは下の格ですので袴をつけない着流しで紺の無地の「ノシメ」を着ます。
 僧の象徴の頭巾は角帽子といい、付け方や模様は僧の格によって違います。
  シテ里女はあたりに住む、当たり前の女という設定ですが、実は仮の姿です。
  この里女の装束も、実の人物の格、年齢によって、色・柄・模様が違います。
  「東北」の里女は若い女を表す色入り(赤い色)段模様の唐織を着ます。
  段模様は、高貴な女性を表します。後シテは、上着に紫の長絹(ちょうけん)、
  緋の袴をつけます。紫は高貴の色です。緋の袴は宮廷の女性を表します。
  面は若い女性の「孫次郎」を使います。
  清楚な女性を強調するため「小面」を使うこともあります。
 
  □まずワキが登場し名乗ります。ついでワキツレ(従僧)と向き合い旅行の様子を述べる
  「道行」を謡います。東北院に着いた一行は、門前に住む人(アイ)から
  梅の謂を尋ねます。門前の人は「和泉式部」という名だとだけ答えて「狂言座」に退きます。
  アイは中入(前場の終わり)の再登場までここで待ちます。
  「狂言座」はシテの「常座(名乗り座とも言う)」ワキの「ワキ座」のように
  アイ狂言の居場所です。
  ワキとアイの問答を聞き咎めるようにシテが「呼びかけ」で登場します。
  シテとワキは舞台正面の角柱を梅に見立てて問答します。地謡になり簡単な型をします。
 能の定型で雰囲気を作る型で、さして意味はありません。
  ロンギ(問答)になりシテはそれとなく和泉式部であることを匂わせます。
  ロンギはシテとワキとの問答ですがワキのセリフは地謡が謡います。
  「休らうと見えしまゝに我こそ梅の主」と左手をワキに向けて和泉式部であると示し
  「木隠れて見えざりき」と舞台の端でクルリと廻り両手を拡げて下す型をします。
  木の陰で消え失せたことを示す型です。
  アイが再登場し東北院のことや和泉式部、梅の謂について語り僧達に
  女は和泉式部であろうからと読経をすすめて退きます。僧達は読経を始めます。
  これを侍謡といい、読経の様子を謡います。「侍謡」とはシテの出現を待つという意味です。
  後シテは、ありし日の和泉式部の姿で現れ僧達の読経に感謝し、かつて藤原道長が
  譬喩品を読む声に感動して「門の外…」の歌を詠んだといいます。
  ワキとの問答となり、この世で詠んだ歌の功徳により「火宅」を出て歌舞の菩薩となったと述べます。
  地謡になり「三つの車(火宅を出るための車)に法の道」で車に乗り得たことを示す
  足拍子を踏み「成等正覚を得るぞ有難き」と左の袖を返してワキに出、成仏できたことを示し、
  すぐにクリ、サシとなりクセと続きますが、これは曲舞(クセマイ)の型式を採り入れたものです。
  クリ、サシでは成佛の桟縁となったとする和歌の功徳を「古今集、真名序」を引いて語ります。
  「そもそも和歌は仏が直に説いた経文と同じであって、天地を動かし鬼神をも感動せしめるものである。
  又、死後もその名声が残るのは和歌の作者だけである」が大意。

  この「クリ、サシ」は次のクセの序文にあたります。
  この「クリ、サシ」では和歌の徳を述べ「クセ」では東北院のたたずまいと
  この寺の仏法繁盛の様子が語られ一見無関連のように見えますが互いに響き合っているのです。
  この「クリ」でシテは舞台の真中へ出、舞い始め、終曲まで舞い続けます。
  舞台の中央に出たシテは、扇を開き扇を下から上へすり上げて大きく撥ねるユウケンという型をします。
  心の拡がりを示す型です。舞は基本型、定式の型を連ねますが、時折、川の流れや池水を
  指し示す情景描写の型など織りまぜて舞います。
  「クセ」は一曲の中心であり、見どころ聞き所です。このクセの大意は「
  この東北院は皇居の鬼門(東北の方角、ここから悪魔が侵入する)を守る霊地である。
 近くを流れる賀茂川、その水上の白川のすがすがしい波や風の音は悟りの縁をもっている。
  美しく着飾ってこの寺の門を出入りする人の列はさすがに花の都である。
  この寺に縁のある人もたまたま訪れた人もますます増え、この人達は昼も夜も朝も夕も
勤行を怠らない信心深い人達である。
  この信心深い人達は、暑さの中に秋を感じさせる風や、松に吹く風にも悟りの境地を求める縁を感じ、
  池の面に映る月の光を見て仏が下界に下って衆生を教化する姿を見るのだ」
以上がクセの大意です。
「クセ」を舞い上げて「序ノ舞」を舞います。
「序ノ舞」は能の舞事の中で最もテンポの緩い舞です。
優美な女性、老体、草木などの精の舞などに用いられ、若い男は舞いません。
例外があり「在原業平」が舞う曲が二曲あります。
「業平」は女性相当の優美な男性ということでしょう。
序ノ舞を舞い上げれば終曲の「キリ」です。キリでは情景描写の型を連ねて舞い、
「見し夢は覚めにけり」で終曲となります。「見し夢」とは、和泉式部の出現は
実は僧の夢であったということです。このところでシテは幕の方を向き、足拍子を二ツ踏みます。
終曲を表し、留拍子といいます。役者全部が幕に入り、能は終わりです。
したがって、幕にはいる時も、その役に応じて歩みは違うのです。
このキリでシテは「げにや色に染み香にめでし昔を…思い出ずれば」と述べ、
昔、色恋に執着した片鱗を見せます。この部分を梅と鶯の謂についてのシテと地謡の掛け合いにして
「色」を全く出さない流儀もあります。

□和泉式部は恋多き歌人として知られていますが、本曲は清らかな気品のある「梅」を
和泉式部によせて清楚な品位の高い幽玄至上の作品に作っています。
このような趣の曲を「本三番目」といい、本曲はその代表作の一つです。
舞う側にとっては、技術的には難しいところはありませんが、「品位」を作り出すことは至難です。
昔、若い人が長老に「何を舞いたいか」と聞かれ「東北でも」と答え
「東北でも、とは何だ!」と怒鳴られたという逸話があります。

  □応仁記に「一条の道場東北院。―中略―和泉式部が軒端の梅あり」とあり、
又、蔭涼軒日録、文正元年二月の頃に端心院より公方様に(足利我満)和泉式部という梅花が贈られた、
とあり更に「東北院は和泉式部が旧跡なり。梅あり禁裏より召さる。よって一首を献ず。
勅なればいともかしこき鶯の、宿はと問わばいかが答えん
(勅命ですから、恐れ多く仕方がありません。しかし鶯が、私の宿はどうなったのですか、
と聞いたらどう答えましょう)此の歌によりて此の名を得たり」とあります。
勅なればの歌は「大鏡」「昔物語」「十訓抄」などにもあり、これらは紀貫之の娘であるとします。
「下学集」下草木門にもあり、こちらは京洛の寡婦となっています。
この歌は拾遺和歌集に採られています。作者の名は記されていません。

□和泉式部は越前守雅致の娘で橘道貞の妻でしたが、夫と死別後、一条天皇の中宮彰子に仕え、
その後、藤原保昌の妻になりました。
鎌倉中期、僧、無住が編纂した説話集「沙石集」に和泉式部の説話が採られています。
能「東北」では、藤原道長の譬喩品を聞いて「門の外、法の車の声聞けば」の歌を詠んだとありますが
「沙石集」では、僧、道命が藤原保昌の門前を通る時読んだ法華経の声を聞いて詠んだとあります。
僧道命は、読経の名手として著名で、「聞く人殊に感涙おさへがたく心肝に染みて
覚えける」程だったといいます。
和泉式部との恋愛説話が多く残されています。拾遺集、和泉式部の歌
「暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」も道明の読経を聞いて
詠んだものかもしれません。

□この道命が和泉式部のもとに通っていました。ある時、藤原保昌が突然訪ねて来ました。
隠れるところもなく鎧唐櫃の中に隠れました。それと勘づいて保昌は、唐櫃を引きずり出し、
「日に干せ、蓋は開けるな」と放りだし少し日に当てた後で祇園の御社に奉納してしまいました。
道明は、この祇園の執行でした。和泉式部の子、小式部は
この道命の子であるかもしれないとあります。
小式部は、橘道貞との間に生まれたというのが通説で、信じがたい話ではありますが。

□和泉式部は、夫、藤原保昌に一時疎まれたことがありました。
「後拾遺集」の和泉式部の歌「もの思へば沢の螢も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」も、
このころ貴船神社に参籠した時の歌だといいます。
保昌の心は更に離れていきます。焦った式部は、貴船の巫女に敬愛の祭りを行わせました。
もともとこの祭は密教の兄弟・夫婦などの和合の祭ですが、貴船のものはおどろおどろしい民間呪術だったようです。
年老いた巫女は、赤い弊を立て、色々な作法を行ったあと、前をかき上げ鼓を打ち鳴らし
三返回ったあと式部に「このようになさいませ」と命じました。
あまりの下品さ、卑猥さに式部は顔を赤らめ躊躇します。
これ程の重大事を思い立ちながらどうして今更躊躇するのですか、と巫女は叱ります。
式部は「ちはやぶる神の見る目も恥ずかしや、身を思うとて身をや拾つべき」
(歌意。思い悩むからといって、我が身を捨てるようなことは出来ない)と歌を詠みます。
この様子を木の陰で見ていた夫保昌は、「私ならここにおりますよ」と叫んで躍り出、
式部を連れ帰りました。保昌の愛は更に深いものになりました。
式部は恋多き女性である前にプライドの女性であったようです。

□藤原保昌は、藤原致忠の子、母は元明親王の娘で丹後、摂津、大和、山城等の国司を勤め、
又藤原道長の家司も勤めました。和歌に勝れ後拾遺集の作者でもあり、なかなかの文化人でした。
武勇無双といわれ、能「羅生門」の鬼退治の話に保昌の名が見えます。
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