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12.09
Mon
□ 能には僧がよく似合う。僧は世俗を離れた世捨て人であり、
この世に執心を残して迷うシテ(能の主役)を成仏させる仏の代行者なのです。
ワキ僧はなくてはならないのです。

嵯峨野を訪れた諸国一見の僧、偶然ここにやって来たのか、シテ里女に導かれたのか。
 晩秋の野宮に現れた美しい女性、花々を見慣れて来た日々、これから先、秋になって
花々も枯れてゆく、自分の身の上のようだと言い、昔を偲ぶよすがとてない荒れ果てた
この野宮にあの世から往き来する身の執心はうらめしいなどつぶやきます。
 僧にはここまではその姿は見えず声も聞こえない。
ただこつ然と現れたのです。
女は僧に、ここは昔斉宮に立つ人が身を清めるためにこもったところです。
今日は年毎に行う神事の日です。
どこの誰ともわからぬ者が立ち入るのはさしさわりがある帰れといいます。
いぶかる僧に、七月七日光源氏がここをたずね、その時持っていた榊の枝を
忌垣の内に挿したのを見て御息女は歌をよみ、源氏も返歌をし、
再び心を通わせたのです、と語り
鳥居の奥の仮住まいの跡や小柴垣、今もかすかにもれて見える火焼屋
(警護の衛士がかがり火を焚く処)の火をなつかしげに眺め、
私の内心の思いがあらわれたのだろうかといいます。
僧は七月七日が特別な日であることを悟り、御息所のことをたずねます。
 御息所は皇太子妃でした。前途を約束されながら皇太子の急死で家も衰えて行きました。
そこへ源氏が通うようになりました。そののちあの「生霊事件」
(源氏の正妻葵の上へのしっとのあまり生霊となってついに取り殺した事件=能葵ノ上)
以来源氏の足もいつしか遠のくようになりました。
御息所は源氏との愛を精算するため、斉宮に上った娘宮について伊勢に下向することを決意しました。
さすがに源氏も未練止み難く、人を憚る聖域に御息所をたずねます。
源氏の説得にも御息所の決心は固く、ついに伊勢に下っていきました。
こう語った女は、私こそ御息所ですと名乗り鳥居の陰に隠れるように姿を消しました。
 僧が夜どおし御息所を弔っていると車の近づく音が聞こえます。
(女は橋掛を静かに歩いて来ますが、車に乗った態を表しています。)
いかなる車かといぶかる僧に、車のことを聞かれると思い出します、と心をたかぶらせ
「車争い」(葵祭り見物の御息所のくるまを、おくれて来た葵ノ上の車の共の者が奥に押しやり
、その場所に車をすえた事件)のさまを見せます。
しかしこれも前世の因縁です。迷いを晴らしてくださいと頼み、昔を偲び月下に袖をひるがえして
舞をまいます。
あらためて野宮のたたずまいを見、源氏が訪れたこの野宮の荒れ果てた景色に昔を偲びます。
 やがてここは伊勢神宮をお祭りしているところです。
この日本の神、天皇家の神は死して皆神になるのです。
私のようにこの世に執心をのこしてあの世とこの世を往き来する者を神はお許しになるはずがないと
又車に乗り出て行きました。
「火宅」という迷いの門を出て成仏したのでしょうか。
いや又七月七日、この世に立ちかえるのでしょうか。

□前シテ里女の次第のあとの上歌に「仮の世に行き帰るこそ恨みなれ」としみじみ述懐するくだりがあります。
又後シテ御息所は一声で「秋の千草の花車我も昔にめぐり来にけり」とのべます。
あの世からこの世にたち帰るということです。
 源氏の正妻葵の上の急死の後、側近も世間でも「こんどこそは正室に」と取り沙汰していました。
源氏に見捨てられたという恥辱感、その発端となった「車争い」など耐え難い思いを抱いての
伊勢下向の御息所にとって、野宮の忌垣を越えるという禁を犯してまで御息所を訪ねた
源氏の誠意と愛を確かめたという思いは、計り知れないものでした。
このため死後もこの「思い」は「妄執」となり源氏が御息所訪ねた日
「長月七日」にこの世に立ち帰り「宮所を清め神事をなす」のです。
 この類のおおかたの能は「成仏の御法」を得て終曲となります。
「妄執」も迷いの「火宅」をも受け入れ長月七日の日毎にこの世に源氏との思い出を求めて
立ち帰ることを暗示してこの曲は終曲となります。
この「妄執」こそがこの曲のテーマなのです。

□この野宮と同類の曲がもう一曲金剛流に残っています。
「落葉」です。これも源氏物語の出典で朱雀院第三皇女、女三宮の話です。
気に染まぬまま源氏の子夕霧の大将を受け入れざるを得なかった女心がテーマの曲です。
 三番目大小物(大鼓、小鼓、笛だけで太鼓を省き幽幻を旨とした曲)に
「破の舞」のあるのもこの二曲だけです。テーマが「四番目狂乱物」的だからでしょう。
この「破の舞」を金剛流では二ノ舞ともいい雅楽から出た名称といいます。
野宮の笛のカカリ(吹き始め)はイロヘカカリで「思い入れ」をねらったものです。
シテの心情を表して効果的です。
 野宮の作者は不明のようですが、この「四番目」的素材を三番目物に仕立てた
作者の非凡さがうかがえます。

□野宮神宮は嵯峨野の奥まったところにあり、観光の波に洗われながらも今も静かなたたずまいです。
小督が平清盛の難から逃れ住んだのもこの地であり「露うち払う」程の僻地だったのでしょう。
斉宮は天皇の即位ごとに伊勢神宮に奉仕するため皇女、王女の中から選ばれ宮廷外の適宜の所に
野宮を作り、三年潔斉の後、伊勢に下る例であったようです。
嵯峨の野宮は史実なのか、源氏物語に因んで作られたものかもしれませんが、
野宮の跡が固有名詞になったのでしょう。

□能「野宮」は、まず舞台正面に小柴垣のついた鳥居が据えられます。
鳥居で隔てられた見所(客席)と舞台は鳥居の内であったり外であったり
また冥界の内、外でもあります。 小柴垣は源氏が榊の枝を挿した忌垣であったりもします。
原作では御簾の下から差し入れたとありますが、能では柴垣が都合が良いのです。
シテは常にこの鳥居、小柴垣に心をとめて舞うといいます。
前シテが手にして出る榊の小枝は、源氏の愛の象徴として大事なものです。
この能の出典源氏物語「さかき」の巻名もこの榊に因んでいます。源氏二十三才の秋。

□この能の典據となる源氏物語は皇子、光源氏の生涯とその後をつづった長大な物語です。
西暦1000年頃、藤原為時という人の娘紫式部によって書かれました。
実名はわからないようで、紫は物語中の「紫の上」から、式部は当時侍女に与えられた
官位だったようです。
 紫式部は関白藤原道長の娘、一条天皇の妃、彰子の侍女として道長に招かれました。
一条天皇には多くの妃がいました。貴族の中で教養のある、たとえば歌道などに秀でた
女性を、妃達は競って召し抱えました。
伊勢大輔、赤染衛門、和泉式部など、後世に聞こえた才女がいました。
 当時は和歌、漢詩の時代で、源氏物語のような「物語」のたぐいは女性の「おあそび」
として全く評価されませんでした。
式部は源氏物語の一部を公開しただけで大半を出し渋りました。
歴史の闇の中に埋もれるところを世に出したのは中宮彰子の功績でしょう。
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