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12.09
Mon

田村(たむら)

カテゴリ:田村
□春たけなわの清水寺を東国の僧一行が訪れます。
満開の櫻の下を掃き清めながら、「そのまま仏の手向けの花となったことだ」と
感嘆し櫻を愛でている少年に出会います。
僧は少年にこの清水寺の来歴を訊ねます。
「昔延鎭という僧が音羽の滝の滝壺から千手観音を見つけた。
又、音羽山に七百年住んでいるという行叡居士に一人の檀那(施主となる
信者)を待って大寺院を建立せよと命ぜられた。坂上田村麿が檀那となり
大寺院を建設し千手観音を本尊とした」と語ります。
又、少年は清水寺から見える名所を教え、「値千金」の春の夜を
僧と共に楽しみ、舞い遊ぶと見て田村堂の中に姿を消します。
僧達は夜もすがら法華経を読誦します。
月明かりの花の下に甲冑姿の坂上田村麿が現れ、平城天皇の宜旨を受け
鈴鹿山の鬼人を平げた様子を再現してみせます。
「鬼神は黒雲の中から、真っ赤に溶けた鉄の雨を降らせつつ
大軍勢に姿を替へ襲いかかった。そのとき味方の軍勢の旗の上に
千手観世が現れ、千本の手ごとに千本の矢をつがえ、雨、霰(あられ)のように
放ち鬼神はたちまち亡びてしまった」
観世音の仏力を賛えてこの能は終わります。

□修行僧は劣悪な条件のもとに旅をしました。
他の能によく見える「憂き旅」だったのです。本曲には、春ののどかな
状景だけで「憂き旅」は出てきません。明朗な曲を予感させます。

□シテの少年は童子という面をかけ頭に「カシラ」という長い頭髪をつけています。
神性をそなえた少年をあらわします。
僧は少年に清水寺の由来を尋ねます。少年が話す清水寺縁起は節をつけない
日常の会話で語ります。特に「語り」といいます。
また清水寺から見える都の名所を教えますが、これも「名所教え」といい
能の構成上の型式になっています。

□この名所教えの途中で、シテは月が出て来たことに気付きハタと手にした
箒を取り落とし、感嘆の声を上げます。
この月が出た事に気付くところや、箒を落とすところに色々工夫をします。
能の演者は観客にはわかってはもらえないだろうと思うような所にも
細かな工夫をします。
気付かずとも、その集積が「気」となって「厚み」を作るのだと考えるからです。

□月の光に照りそう櫻の美しさに、シテは思わず僧の袖を取り
僧をいざないます。情緒のあふれるところです。
僧の袖を放してシテは「クセ」を舞います。のどかな春の景色と本尊の観世音の
大慈悲を讃えた謡曲文学の中でも屈指の美文です。
音羽の滝の流れ落ちる様や、「天も花に酔へり」など美しい型を連ねて舞います。
「クセ」は一曲の中心をなすもので能以前からあった芸能「クセ舞」を
能にとり入れたことから出た名称です。
本曲には前場後場と二カ所あり、他の能にはない珍しい構成です。
クセを舞い終えたシテは「その名いかなる人やらん」と問う僧に
「我が行く方を見よ」と清水寺境内の「田村堂」の中に入り姿を消します。
坂上田村麿の化身であることを示しています。

□シテが幕に入ると中入です。「中入」とは前場と後場の間のことをいいます。
清水寺門前の人が出て僧の問いに答えて話をします。「間語り(アイダカタリ)」といい
この曲では清水寺の縁起を語ります。

□僧達の読経にひかれて坂上田村麿が甲冑姿で現れます。
面は武將の顔「平太」をつけています。
鎌倉時代の武將荏柄平太の顔を写したものといいます。
上衣の法被(はっぴ)は両肩を上げ、甲冑に見せます。
僧の問いに、田村麿と名乗り舞台を一巡して威勢を示し、舞台眞中後方の
床几に腰を下ろし、天皇の命により凶賊討伐に赴くと語り「クセ」になります。
「クセ」は、討伐の道中の様子を床几にかけて語り、途中から立ち
戦いの心意気を勇壮に舞います。舞い終えて「カケリ」になります。
「カケリ」は謡いはなく囃だけで舞います。凶賊との戦いの様子です。
「カケリ」を舞い終えると「キリ」です。
能の終曲部分です「キリが良い」などと言いますが、その語源になった言葉です。
「キリ」では、すさまじい敵の攻撃や、これを観音の加護で打ち破った様子を
激しい動きを連ねて舞い、そのまま終曲となります。

□今回は小書「長床几」で演ぜられます。長く床几に座っているという意味です。
小書は常の演出を一部変えて演ずることをいいます。シテの扮装と
面が「平太」から「天神」に変わります。終曲部分「キリ」の型どころを床几に掛けて
舞うなど常より重厚な演出になります。
「天神」はその名の通り菅原道眞が太宰府に左遷された時の憤怒の相を
写したものです。強さを強調したものです。

□能は曲柄によって五つに分類されます。
本曲「田村」は二番目物又は修羅物といいます。
二番目とは、正式な能会の五番立ての時、二番目に演ぜられる事からで、
又、修羅物とはシテが武將であって、仏説に戦いを、こととする
武人は死後、修羅道という地獄に堕ちるという事からこう呼ばれます。
修羅とは、阿修羅の略で争いを好み、仏法を妨げる悪魔の名です。
もともと修羅物は、仏法守護の仏、帝釈天と阿修羅の争いを作った
ものだったといいます。

現行曲の修羅物は、本曲「田村」を除き全て源・平の武將がシテです。
源氏は「八島」「箙」の二曲で「田村」を加え勝修羅と言います。
シテが戦勝の武將であり、武家社会で生まれた呼び名でしょうか。
平家は圧倒的に多く十数曲あり、敗戦の將ですので負け修羅と言います。
これらの武將は「花鳥風月」「詩歌管絃」をたしなむ優雅な人として
描かれる事が多く、激しい戦闘の場面はもちろんですが、敗戦の悲哀や
人の世の無常なども主題となります。
終曲には、二,三曲を除いて多くが修羅道の苦しみを訴え
僧に回向を賴みます。

□本曲「田村」は唯一源平の武將ではありません。
世の無常や敗戦の悲哀、修羅道の苦しみなど「負」の言葉が全くなく
明朗、闊達な曲です。
前シテが神性をもった童子であったり、脇能(神を主題とした能・翁の直後
抱き合わせて演じられることからついた名称)の趣をもった
さわやかな能であると言われます。
「クセ」が前後に二つあるのも他に例が無く異色です。
前のクセは「清水のクセ舞」を取り込んだものといいます。
道行ようの後のクセもクセ舞(鎌倉後期、室町時代の芸能)から
採られたものかもしれません。

□坂上田村麻呂は平安初期(七五八年~八一一年)の武將で、桓式、平城
嵯峨、三代の天皇に仕えました。
征夷大将軍として東北の蝦夷を平定するなど武勲をたてました。
日本後記に田村麿は赤い顔をして黄色のひげを生やし、並々ならぬ
体力があり、寛容な人柄で士を遇したとあるそうです。
金剛流の謡本には「田村麿は身長五尺八寸(一九一センチ)、胸の厚さ
一尺二寸(四〇センチ)身を重くする時は、一百一斤軽くしようとすれば
六十四斤と意のままになった。目を怒らせば禽獣もおそれ伏し
平常談笑する時は、小児も馴れ親しんだ」とあります。
日本後記は漢文体で、読むに難解です。上記のような記事もあるかもしれませんが
それらしきものは見つける事が出来ませんでした。
田村麿は、平安期を代表する猛將です。その後の文芸の武勇談に恰好の素材でした。
そうした作品の中にあるのかもしれません。
清水寺建立のことは「今昔物語」「源平盛哀記」にあり、
本曲はこれに拠ったものだといいます。
本曲の小島寺の僧の名は「延鎭」ですが、両物語は「賢心」としています。
                                  (梅)

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