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09.30
Mon
*あらすじ
□紀州道成寺では、寺にはなくてはならない撞鐘が永い間失われたままでした。そこで久々に再興し、鐘の法要、鐘供養をすることになりました。寺僧は能力に、鐘供養には女人禁制であるとふれるよう申しつけます。そこへ白拍子と名乗る女が現れ、鐘供養を是非拝みたいと申し出ます。能力は断りますが、女は自分は他の女とは違う、面白く舞を舞うので是非拝ませて欲しいと懇願します。女の無気味な気迫に、能力は舞を見せる事を条件についつい許してしまいます。
 女は入相の鐘が響く落花の中、乱拍子を舞進めます。やがて夜に入り、人々の眠りを誘うと見るや舞は急調となり女は鐘に忍び寄り「思えばこの鐘恨めしや」と鐘を引き下ろし中に消えます。
 能力の報告を聞いた寺僧は、かつてこの寺で起きた鐘にまつわる恐ろしい話を物語ります。
 「昔このところに真砂の荘司という者があった。荘司には一人の幼い娘がいた。またその頃、奥州から熊野詣での若い山伏が荘司の家を定宿にし、娘に土産を与えたりなどしていた。荘司は娘可愛さにあの僧こそおまえの夫よと冗談を言っていた。娘は幼心に本当の事と思いこみ、年月を送っていた。ある年娘は何時まで私をこのままにして置くのか、今度こそ奥州へ連れて行けと山伏に迫ります。山伏は驚き、夜に紛れて道成寺に逃げ込む。寺僧達は、相談して鐘を下ろしその中に山伏を隠した。娘は一念の毒蛇となって、日高川を泳ぎ渡り鐘に巻き付き尾で叩いた。鐘はたちまち赤熱し、中の山伏も焼き殺されてしまった」。
 住僧たちは調伏の祈りを始めます。やがて鐘はおのずから動きだし、鳴り響き、再び鐘楼に上り中から蛇体が現れます。蛇体は杖を打ち振るい、鐘に炎を吹きかけ必死に抵抗しますがついに祈り伏せられ日高川の深淵に飛び入ります。

*物語の進行を追いながら
□この曲は、現在では廃曲になった「鐘巻」を改作したものだといいます。
 道成寺縁起を語る「クセ」などを削り「乱拍子」「急ノ舞」「鐘入り」を眼目に際だたせ、簡略化した作品です。最も大切にされた曲の一つであり、いろいろな演技、演出が考案され、みどころの多い作品です。技術的にも難度が高く、評価の目も技術の成否に向きがちですがドラマとしても秀でています。

□まず鐘が狂言方によって舞台に運び込まれます。
 その巨大さに圧倒されます。狂言方の流儀によっては、アドリブを交えながら吊ります。シテ方の流儀によっては、事前に吊るものもあります。女人禁制をふれ終わったアイは舞台を一巡します。結界(外道などの侵入を防ぐ境界)を表すといい、曲の雰囲気を作ります。

□シテは出囃子「次第」で登場します。囃子は特殊な「手」を打ち、シテは「ウロコ」形に出、鐘を見込み、舞台に入ります。常に鐘への執念を見せます。

□舞の始めは「乱拍子」です。シテは烏帽子をつけ橋掛へ出、鐘を見込み大鼓の急調の一調で舞台に走り込み乱拍子にかかります。大鼓は打ち止め、小鼓の一調になります。静寂な「間(ま)」を小鼓の打音と、鋭い掛け声が区切ります。シテと小鼓は、この「間」を計り合います。時折笛がいろどりを添えます。
 乱拍子は正式には十四段ですが、現在では八段に簡略され、この方が一般的です。「小書」古式では更に短く、六段です。乱拍子の中程で、シテは鐘を見上げ執念を見せます。以上は乱拍子の前半です。後半を「中ノ段」といいます。
 「道成の卿。うけたま。わり。始めて伽藍。橘の。道城興行の。寺なればとて。道成寺とは。名付けたりや。」の句を九ツに区切り謡いながら五段に踏みます。「間」は時間的に半分ほどに短くなります。

□乱拍子は、現在の「中ノ段」に見られるように謡をきれぎれに謡いながら鼓に合わせて足遣をし、足拍子をふんで舞台をまわるという、「白拍子」の芸を元に考案されたようで、金剛流では「墨染桜」など道成寺以外でも舞われた様です。現在では「住吉詣」に子方が乱拍子を踏むことがあるようです。この曲では毒蛇が寺の石段を登る様子だといいます。
 乱拍子の終わり、急の舞のカカリに「名付けたり、や、山寺の、や、」という難解な「や」があります。世阿弥時代には臨機応変に「や」「よ」など間投詞、詠嘆の助詞として使っていたといいます。これを演出として工夫したといいます。

□急の舞は能の舞の中で最も急調の舞です。いかに無駄な動きを省くかに意を用います。
 思惑通りの手順を一つ誤れば、舞は破綻します。舞の足拍子の代わりに身を屈めるに止めるのは人々の眠りを妨げない意といいますが
演者には時間稼ぎかもしれません。数分間の舞に、かなりの体力を消耗します。
□この曲のクライマックスは鐘入でしょう。五十キロにも及ぶ巨大な鐘がシテの頭上に落下します。狂言方六人が運ぶときの様子は演技でもあり、演技ではなしです。実際に重いのです。シテが飛び込んだ瞬間、鐘が落下します。ボクシングのカウンターパンチの状態になり、その衝撃は計りしれません。床に叩きつけられると首尾良く行った証だといいます。
 金剛流では、脇正面から対角線上の笛柱にいる鐘後見に向かって進み、落下する鐘に飛び入ります。タイミングが計りがたく、鐘後見は「手だれ」でなければ勤まりません。

□シテは鐘の中でワキの語りの間に装束を改めます。
 手順はお茶のお点前のようにきめられています。一つでも怠れば、時間切れとなったり舞台の上に置き忘れがあったりします。

□技術的にも最難といわれるこの曲には、更に二つの小書(異演出)があります。
 「古式」と「赤頭」の二つです。常の時、面は曲見、紅無唐織ですが小書では面、孫二郎、紅入唐織に変わります。中年の女から若い女に変わるということです。
 「古式」では烏帽子も金地静烏帽子から前折烏帽子になります。乱拍子は八段から六段に短縮され、足づかいが変わり鐘入の前の型にも変化があります。後シテの蛇体は赤頭になり蛇の脱皮をあらわすという鱗落としはシテ柱を巻くように舞台から橋掛り方面へ巻き、より生々しい演出になります。
 「赤頭」では、後シテは法被、半切姿となります。鐘の中でこれだけの装束を一人で付けることは、秘事、口伝があることは当然ですが至難のわざです。急の舞は常より長く五段です。さすがに上演は少なく、近年上演記録は全くありません。
 この二つの小書の名称は、いつの頃からか入替わったといいます。

□道成寺説話は平安末期、比叡山横川の僧が編纂した「法華経験記」の中の「紀伊県牟婁群の悪しき女」が始めだといいます。
 その後「今昔物語」「元享釈書」などに続きいろいろな文芸が生まれたといいます。「法華経験紀」「今昔物語」の内容はほぼ同じで女は寡婦とし、僧は「年若くして形貌美麗なり」とだけで出身地はありません。寺に押し入った毒蛇は「鐘を巻きて尾を似て竜頭を叩くこと二時三時なり。…毒蛇両の眼より血の涙を流して…本の方に走り去ぬ。…
 大鐘、蛇の毒熱の気に焼かれて炎盛んなり」。今昔物語以降、内容も変化を見せ豊になっていきます。「元享釈書」にいたり鞍馬寺の僧、安珍となり女は十六才の姫君にになったといいます。
 女が清姫となるのは近世中期になってからのようです。室町後期成立の「賢学草子(道成寺絵詞)」では内容がだいぶ変わって、因縁物語に構成されています。終末で、大蛇は鐘を叩き割り僧を巻き取り川に沈みます。日高川に飛び入るという能の結末は、これらから想を得たのでしょうか。

□下掛(金剛、金春、喜多)ではシテ女は中年の女性であり上掛(観世、宝生)は若い女性です。道成寺説話の前期の作品は「寡婦」、後期の作品は「若い女」です。下懸は前期の作品に、上懸は後期の作品に拠ったのかもしれません。「中年の女」と「若い女」では演技、演出上かなりの相違があるのは当然と思われます。
 この曲は、金剛流では若い時期には許されません。これは単に曲の重さだけではなく「中年の女」を演ずる重さ故でしょう。

□道成寺へは、JR伊勢本線道成寺駅から徒歩十分程です。この駅に特急は止まらないので、一つ手前の御坊駅から田圃の中を三十分ほど歩くのも良いでしょう。小高い森の中にあり、門前には土産物屋や宿屋が軒を連ねています。毒蛇が登ったという六十二段の石段を登ると、右に撞楼、跡正面に本堂、左の奥に寺務所があります。講堂では住職が「道成寺絵説き」を面白おかしく語ってくれます。寺には今も撞鐘はありません。鐘供養事件以来、近隣に災厄が続いたため寺は鐘を竹林に埋めたが豊臣秀吉の「根来攻め」のとき持ち帰ったといいます。
現在は京都の妙満寺にあるそうです。
 道成寺からは日高川が豊かな水をたたえているのが見え、海が近く海岸線は松林です。日高川を渡ると、南高梅で名高い南部(みなべ)です。世界にも聞こえた博物学者、南方熊樟や弁慶の故郷もこの地方です。
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