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09.21
Sat

六浦(むつら)

カテゴリ:六浦
「六浦」は横浜市金沢区にある地名です。あまり聞き慣れないが、当時は都の人も知る地名だったのだろう。対岸の安房に渡る港があったのであろうか。
 都の僧が東国、陸奥行脚の途次、六浦の里から安房の清澄寺へ渡ろうとしていると、あたりに由緒ありげな寺があります。聞くと金沢の称名寺といいます。立ち寄って見物することにします。おりしも晩秋。あたりの山は、全山紅葉の真っ盛りです。寺の庭に、ひときわ立派な楓の木があります。不思議にも一葉も紅葉せず青々としています。折よく里の女が来合わせ、僧に楓の木の不思議な話をします。
 昔、鎌倉中納言為相の卿が紅葉狩りにこの寺を訪れた。紅葉の 季節にはまだ早く、紅葉は未だしだったが、寺のこの楓一本だけが 類なく美しく紅葉していた。
為相の卿は「如何にしてこの一本に時 雨けん、山に先立つ庭のもみじ葉」と詠んだ(木々の葉は時雨を得て紅葉すると考えられていた)。楓の木は、この東国の片田舎にありながら、為相の卿ほどの歌人に詠まれる名誉を得たのだから「功なり名遂げた上は、身を退くのが天の道」という老子の教えを守りその後は紅葉するのを止めた。
里の女はこう話し、実は私は、この楓の精ですと明かし、咲き乱れる秋の千草の花をかき分けて姿を消します。
 僧達は称名寺の名に感じながら、称名念仏し経を読みます。秋の夜も更け、月明かりの中に楓の精が現れます。楓の精は草木の心について語ります。
 草木は四季折々、時を違えることなく花を咲かせ、秋には紅葉をみせます。草木にも心があるからですと語り、中陰経の「草木国土悉皆成仏」の仏果をよろこび、風に散り舞うもみじ葉のように華やかに舞い、明け方の木の間に見え隠れする月の光にまぎれて消えうせます。
◆シテは、楓の精を擬人化した若い女性です。人間の愛憎、 心の葛藤を離れた、観る人の心の負担のない清澄な曲です。この能を観ながら、時には舞台の流れを離れて、今まで旅先などで見た山や川や湖、草や木のありさまを思い出したり、空想の中に遊んだりもいいのでは。能は場面を限定、固定せず自由です
草木の精は人間の自然に対する想いの凝縮、人の心のやさしさの発露だろうから時には俗世を離れ、もとの人間に立ち帰る「時」を持つことも大切かもしれません。。情報過多に疲れた現代人には癒しの能ともなるでしょう。
 この能には観る人の空想をかき立てるもう一つの要因があります。
この類の曲のシテは、華やかな装束をつけて舞うのが常ですが、この曲は紅葉しない楓の精で、後場に「更け行く月の夜遊をなし、色なき袖を返さまし」と舞の「かかり」にあるように、無紅(いろなし、赤い色を控えたの意)、の装束をつけて舞います。
若い女性に無紅の装束が興味をひきます。時を重ね、代を重ねて磨かれた審美眼、センスの所産の装束、これもみどころの一つです。

◆ 本曲の出典とされる「いかにしてこの一本に時雨けん山に先だつ庭のもみじ葉」の歌の詠み人、藤原為相は藤原定家の孫で、俊成は曾祖父です。母は「十六夜日記」の作者、阿仏尼という類希な家に生まれました。為相の領地相続訴訟のため母、阿仏尼が鎌倉に下った時、母をしたって鎌倉に下り、鎌倉の歌壇を指導するなど主に鎌倉で活躍しました。
家集に「藤谷集」があり「いかにしてこの一本に時雨けん」の歌もおさめられています。 この歌は、題しらずとなっており、称名寺の楓を詠んだ歌ではないようです。時を経て称名寺の楓の歌であるとなったのでしょう。「藤谷」とは鎌倉の異称です。為相はのちに冷泉家の祖となり冷泉為相と呼ばれました。

◆本曲の舞台、称名寺は横浜市金沢区にある眞言律宗の寺で、一二六七年北条時実の建立です。鎌倉幕府以降、足利氏、小田原北条氏の庇護を受け江戸時代には百石の朱印寺として栄えました。現在でも国宝数点、重文三十数点を持つ名刹です。境内に、これも北条時実が創設した、世に名高い「金沢文庫」があります。時実以降四代にわたって収集された仏典、国書、漢籍は数万巻に及び当時の僧侶、武士に利用された私設公開図書館だったという。「徒然草」の吉田兼好も京から遊学したと伝えられています。
その後、上杉憲実、豊臣秀吉、徳川家康らに持ち出され、散逸しましたが昭和期に入り徐々に集められ、和漢の珍書、二万三千、古文書四千通に及ぶという。

◆このあたりは古くからの景勝の地で、現在でも「金沢八景」の名が残っています。名付け親は明の僧、心越禅師が能見堂からの景観を詠んだ「武州能見堂八景詩」からの命名だといいます。安藤広重の「武州金沢八景」で更にその名は広がりました。八景の中に称名寺の名鐘「称名寺の晩鐘」があります。金沢八景とは「内川の暮雪、小泉の夜雨、瀬戸の秋月、州崎の春嵐(晴れた日の霞)平潟の落雁、野島の夕照、乙艫の帰帆、称名の晩鐘」。現在は開発が進み、首都圏に呑み込まれ、往時の景色をしのぶべくもありません。

◆二条派の歌人、尭恵(じょうえ)法印が文明十七年(一四八六年)から翌年にかけて、美濃の群上から越中、越後、草津、佐野を経て鎌倉に至る紀行「北国紀行」に「金沢に至りて称名寺といえる律の寺(眞言律宗)あり。昔、為相の卿、「いかにして此一本に時雨れけん山に先立つ庭のもみじ葉」と侍りしより後は、此木 青葉にて玄冬まで侍る由聞ゆる楓樹、朽ち残りて仏殿の軒に侍り。「先立たばこの一本も残らじとかたみの時雨青葉にぞ降る。」とあります。
尭恵が為相を偲んで歌を詠んだことは本曲のワキとよく似ています。
これは文明十八年の早春のことであり、楓の紅葉、時雨は晩秋ものですが、常人に非ざる歌人なればとすべきでしょうか。
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