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09.21
Sat
義経に謀反の野望あり、との梶原景時の讒言により兄源頼朝に追われる身となった義経は、
九州へ落ちのびるため尼崎大物の浦(兵庫県)に着く。
弁慶は義経が愛妾、静(しずか)御前を伴っていることを知り、時にそぐわないと静を都に帰すよう進言します。
義経の同意を得た弁慶は静の宿を訪ね、この旨を告げます。驚いた静は、ことの真偽ただそうと義経の御前へ出ます。義経は静にひとまず都へ帰るよう説得します。
別れの酒宴に弁慶は静に一指し舞うよう勧め、静は涙に咽びながら中国の故事を引いていつか兄頼朝の嫌疑が解ける日が来ると、謡い舞い義経一行を励まします。
舟出の時になって義経は突然延期を命じます。弁慶は、これは静に名残を惜しむためだといい、決然と舟子に出航を命じます。
今まで穏やかだった天気が急変し暴風雨となり大波が荒れ狂います。波間から西国で亡びた平家の一門の怨霊が浮かび上がります。中でも平知盛の幽霊は長刀をふるって襲いかかります。義経も太刀を抜いて応戦します。弁慶は必死に数珠を押し揉んで五大明王に祈り、ついに怨霊は引く汐と共に消え去ります。

◆見どころの多いこの曲は前後二場に分かれています。前場は義経と静の別離を主軸に展開します。幽玄の情趣を旨とする三番物、鬘物的です。
静御前は、白拍子でしたから「別れの舞」は詞章も白拍子的に作られており情緒的です。
義経は静の夫ですが、子方が演じます。能ではよくある手法です。
後場は全く違う人物、平家の猛将平知盛が主役です。ここでは間狂言も活躍します。
静かな海にのんびり漕ぎ出し、天候が急変、荒れ狂う海の様子、怨霊が襲いかかる場面の「波頭」など後場の主役、平知盛の幽霊の出現を盛り上げます。
この曲の小書(曲の情趣を強調するための異演出)に「白波の伝」「波間の伝」があります。思い切った演出で型も更に激しくなります。金剛流の業物として知られています。

◆1185年の春、源義経は平家を壇ノ浦に破り、平家は滅亡しました。
同年秋に義経は、兄頼朝に追われる身となり吉野山に逃れ、愛妾静も同行しました。翌年吉野山の衆徒の離反でここも危うくなり、静は都へ返されます。
途中、静は捕らえられ鎌倉に送られました。鶴岡八幡宮に頼朝、政子夫妻に召され「吉野山、峰の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき。しづやしず、賎の苧環くり返し昔を今になすよしもがな」と歌い、義経を追慕して舞いました。
その後、静は男子を出産しましたが、頼朝はこれを由比ヶ浜の沖に沈めさせました。
 静は、京の白拍子でした。芸を母の磯禅師から受け継ぎました。鎌倉から京へ返された後のことは不明といいます。

◆後シテの平知盛は清盛の子で、平家きっての猛将でした。「鵺」退治で名高い源頼政の挙兵に宇治で戦い、翌年源行家と戦い、その軍功で権中納言に昇進しました。
1183年木曽義仲と粟津で戦って敗れ太宰府に逃れましたが、知盛の長兄小松殿、重盛の御家人緒方の三郎の離反で讃岐の屋島に拠っていました。
 木曽義仲が、都に進駐した際、兵の狼籍で院宜により頼朝の追討を受けたことや、また備中、播麿での平家との戦いで敗れたこともあり、義仲は平家の総大将、平宗盛に和議を申し入れました。
宗盛は受け入れようとしましたが、知盛はこれに強く反対し拒否しました。
1185年三月壇ノ浦で義経・範頼軍と戦い敗れ平家滅亡を悟った知盛は、安徳天皇、その母建礼門院、清盛の妻二位の尼の人水を見届け、乳母子の家長を供に海に入りました。33才でした。
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