FC2ブログ
--.--
--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

09.21
Sat
奈良の都に名高い、曲舞の名手、百萬の舞を見せる。シテは休みなく舞尽しの能。

春の嵯峨野、清涼寺に少年を連れた男がやってきます。
男は奈良、西大寺のあたりで迷子のこの少年を拾い、清涼寺の大念仏に来たのです。
男はこの少年に面白いものを見せたいと門前の者に頼みます。門前の人は女物狂、百萬を呼び出すためにわざと下手に念仏の音頭をとります。
この念仏に誘われるように百萬が現れ男を笹で打って追い払い、音頭をとり―車之段―さらに子を思う心情をうたい舞います。―笹ノ段―

 一世限りの親子の道に執着して子を思う心の闇をはらすことができない。やっと世を渡る身でありながら、その上『子は三界の首枷』となるのか。牛が重い車を引き続けるように私はどこまでも子にひかれて行くのです。
百萬はさらに自分の身なり、やぶれた着物のことなどを謡い舞い、乱れ心ながら信心をするのも我が子に逢うためです。仏様どうぞ我が子に逢わせて下さいと祈ります。
 少年は母であることに気づき、男によそごとのようにたずねるよう頼みます。
男が郷里や、どうして狂人となったのかとたずねると、百萬は幼子に生き別れになったので心が乱れてしまいました。こうしてあちこちの人に恥をさらして歩くのも子に逢うためで、ただただ仏様におすがりするだけですと答えます。
 我が子に逢うための舞です。百萬の舞を見てくださいと、故郷を狂い出た心情や、奈良から清涼寺までの道中の様子、春の嵯峨野の景色や清涼寺釈迦堂のいわれなどを曲舞に謡い舞います。―曲(クセ)―

「人のほんとうの故郷とは一体何処なのだろうか。雲や水のように定めのない身の果てを思い、つらい月日を送って来た末、二世を契った夫とも死別してしまった。更に西大寺の柳の木のあたりで我が子も行方しれずになってしまった。
どうすることもできない思いが重なり奈良の都を出、三笠山をかえり見、佐保川を渡り山城に出、井出の里の玉水に浅ましい我が姿を写し見、足にまかせていくうちに嵯峨野の清涼寺に着いた。お参りしてあたりを眺めると花の散り浮く大堰川、人の世も同じだが盛りを過ぎて散り始めた嵐山の山桜、松の尾や小倉の夕霞、この美しい景色の中を着飾ったいろいろな人がお参りに集まって来るのが見えます。
まことにこの寺はありがたく尊いことです。この寺の釈迦如来の尊像は、私どものように末法の世にあって迷いの多い人々を導くため神通力をあらわし、インド、中国、わが日本、
と三国を渡り、この寺にご出現されました。
お釈迦様の安居の説法は御母摩耶夫人のご供養のためでした。仏様でさえ御母をいとおしくお思いでしたのです。ましてや人間としてどうして母を思ってはくれないのです、と子を恨み、我が身を託ち、そして祈りました。親子が逢う願いをこめた百万の舞を見てください」
 これほど多くの人の中にどうして我が子がいないのだろうと百萬は群衆の中に我が子を探し回りいよいよ狂乱となり、御仏のご誓願によってどうぞ我が子に逢わせてくださいと仏前にぬかずきます。
都の男は、見るもいたわしいと子を引き合わせます。
百萬はもっと早く名乗りでてくれたら、このように恥をさらすこともなかったのに、と言いながら、よくよく考えてみるとこれもこの寺のご本尊釈迦如来のお導きで逢うことができたのです、仏の力のありがたいことよと奈良の都へ帰っていきました。

□この能には、他の狂女物に少ない、華やかさと浮き立つものがあります。
シテの登場や、これに続く歌念仏、当時祇園会に出たという女曲舞の舞車を引くさまを模したものという「車ノ段」、続いて「笹ノ段」と息もつかせぬ華やかさです。
烏帽子に長絹姿がいっそう華やかさを増します。このいでたちは「芸をする人・曲舞の芸人」ということを意味します。百萬は中年の女性ですので赤い色の無い「紅無し」の装束をつけるのがきまりですが「紅入り」を着せたい雰囲気です。笹は狂女をあらわします。

□この能は、当時有名だった女曲舞「百萬」の曲舞ぶりを再現するのが目的の能であるといいます。子を求める狂女は、脚色の一手段のような感じさえします。
「狂い物」につきものの「狂いの段」や、狂乱をあらわす「カケリ」もありません。行方しれずの子や恋人、主君を思う切羽詰まった心情が希薄のように思われます。
 この能の原曲「嵯峨物狂」は、世阿弥の父、観阿弥の得意曲であったといいます。観阿弥はこの百万の所縁の乙鶴から曲舞を習い、能に取り入れました。観阿弥はこの乙鶴から百萬の舞いぶりを聞いていたのでしょうか。
百萬と乙鶴の年齢のへだたりは30才ほどだったといいます。
この「嵯峨物語」の「クセ」は「地獄の曲舞」でした。後に世阿弥が現行のように改めたといいます。「地獄の舞曲」は現在「歌占」のクセで舞われます。この曲のクセを作った世阿弥は「地獄の曲舞」に匹敵する「クセ」をと心をくだいたことでしょう。

□百萬は室町時代、1300年中頃、奈良にいた実在の女曲舞です。奈良、百万ヶ辻に住んでいました。西大寺の念仏会でわが子を見失い、のち嵯峨の念仏会で再会したと南都坊目遺考にあるそうです。

□「百万」伝説がもう一つあります。所も同じ清涼寺。この寺は唐招提寺の円覚上人が広めた融通念仏の大道場でした。この円覚上人は幼時迷子になり寺に拾われ、後に高僧となりました。
母を求めて諸国を遍歴し、融通念仏を広め播磨の国で母に再会しました。上人の念仏会に集まる群衆十万、人々は十万上人と呼びました。十万上人の母だから百萬と呼んだ、とあります。清涼寺は本曲の舞台としてまたとない場所といえるでしょう。

□曲舞は、下級の陰陽師の系譜を引く下層民の声聞師の職業の一つでした。鼓に合わせ直垂(ひたたれ)姿で舞う男の舞いでした。
のちに水干(すいかん)立烏帽(たてえぼし)の男装の女曲舞いや児曲舞(ちごくせまい)が人気を集めたといいます。
京の祇園会には奈良の女曲舞による舞車も出たといいます。織田信長の「敦盛」で知られる、幸若舞も曲舞の一派と言われています。

□物狂の能の筋立てはいろいろです。思いもよらない事情で別れた子や夫、恋人や主君を求めてさすらいます。
当時は物狂を演ずる芸能者、あるき巫女、たたき白拍子といわれる人もいましたが、実際「思う人」をたずねて諸国をさすらう人たちがいたのでしょう。所々で「物狂い」を見せて人を集め「思う人」を探したのだろうか。
能「隅田川」では船頭が「かの者を待ち船に乗せうずるにて候」とあります。
人々はこの物狂の人たちを憐み、いろいろな形で援助したのでしょう。女性の一人旅には「物狂」は都合が良かった事情もあるでしょう。
スポンサーサイト
back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。