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09.20
Fri

巴(ともえ)

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□女性を主人公にした唯一の修羅物(戦の能)。
木曾義仲の愛人であり武将でもあった巴は、巫女となり死後も義仲最期の地、粟津原に義仲の霊を弔う。通りすがった同郷の木曽の僧に、義仲の最後の有様を語り、長刀をふるって追手と戦う在りし日の姿を見せ、尽きせぬ慕情を語る。見どころ聞きどこ魅力たくさんの能。

□木曽の僧が京へ上る途中、栗津原を通りかかると、松陰の祠に手を合わせ涙を流している女がいます。僧は不審に思い言葉をかけます。
僧が木曽の人であると知ると、女はこの社は木曽義仲を祀っている、と教え同郷の縁で弔ってほしいと頼み、名が知りたければ里人に尋ねよと夕暮れとともに姿を消します。
 僧は社の前で一夜を明かしつつ読経していると甲冑姿の巴の亡霊が現れます。 
巴の亡霊は義仲の自害のとき、供するよう懇願したが許されず、木曽に落ちのびるよう命ぜられた恨みを語り義仲の最後の様子を物語ります。
 栗津原の戦いで重傷を負った義仲は、巴を供に落ちて行きます。追いすがる敵を見て巴は主君を松陰に導き一人敵中に割って入り奮戦し追い散らします。
かくして松陰に行ってみると主は既に自害して果てています。
巴は泣く泣く形見を携え、一人淋しく木曽へ落ちて行きます。

□前シテは小面に唐織り姿の若い女です。情緒的を旨とする、三番目物の出で立ちです。暮れて行く琵琶湖、湖面に響く入相の鐘の音、巴の心情を写すかのように哀愁を誘います。
後シテは武者の梨打烏帽子に唐織を壺折に着て甲冑を表し、白の大口袴、武者の袴を穿きます。太刀を腰に長刀を持ちます。
 木曽に落ちて行く場面で烏帽子、唐織りを脱ぎ太刀を水衣に包み隠し持ちます。軍装を解くことを意味します。後見が手伝いますが一人で脱ぐこともあります。このときは手順が決められており失敗を防ぎます。この前場と後場の扮装の著しい差違は、目を驚かすような舞台転換ともなっています。
勇壮な戦闘の場面などや、主君との別れなど、強吟、弱吟を駆使して謡い分け効果を盛り上げるのもこの曲の特徴です。強吟、弱吟とは能のセリフ、つまり謡曲のことで、弱吟は他の歌謡とほぼ同じ旋律です。強吟は他にない謡曲だけにある声明のような旋律です。

□義仲は巴に殉死を許しません。平家物語には、義仲は最後の時まで女連れで有ったと云われるのがくち惜しいとあります。この能ではお前は女である、隠れ忍んで生き延びる手立てもあろうと思いやりを見せます。
巴は「死骸に御暇申しつつ行けども悲しや行きやらぬ」と女の慕情を見せ「涙と巴はただ一人落ち行きし執心を弔いて」と切なく留めます。
巴は聞こえた剛の者でしたが、この能では「熊坂」や「船弁慶」のような長刀の扱いはしません。あくまで女性として優美に扱うのが心得です。長刀や太刀も小振りのもを使うこともあります。

□巴は木曽義仲の乳母の子、乳兄妹で、愛人でもありました。「平家物語」に「色しろく髪ながく容顔まことにすぐれたり」とあり大変な美貌だったといいます。強弓を引き、荒馬に乗り、一騎当千の武将であったと平家物語や源平盛衰記にあります、その戦いぶりは、すさまじいものであったことは、想像に難くありません。
栗津原の戦いでは剛の者と評判の高かった御田八郎師重の首を鞍の前輪に押しつけてねじ切って捨てたとあります。義仲は自害のとき巴の殉死を許さず帰国を命じます。時に元暦元年1月(1184年)のことでした。後、巴は尼となり越後の国、友松に住んだという。
源平盛衰記では鎌倉に送られたが和田義盛の懇願に許され義盛の妻となり一子をもうけたとも。義盛敗死後、尼となり越中に赴く。生没不詳。

□木曽の義仲は父、源義賢が源義朝の子義平に討たれたため、乳母の夫で木曽の豪族中原兼遠のもとで成人したといいます。
 以仁王の令旨に兵をあげた源頼朝に呼応して挙兵、以来各地で平家軍を破りました。
寿永二年に平家の大軍を倶利伽藍谷で破り入京します。
都に入った義仲は、政治への介入、兵の狼藉で後白河法皇と対立、長年の源頼朝との覇権争いも表面化します。源範頼、義経兄弟率いる大軍に破れ、わずかの手兵で京を落ち、近江の国栗津で討たれました。
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