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09.20
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安宅(あたか)

カテゴリ:安宅
源頼朝、義経兄弟の不和が決定的になり義経は奥州平泉の藤原秀衡を頼って都を脱出します。頼朝は義経逮捕のために、諸国に関を新設しました。
ここ、加賀の国安宅の関(石川県金沢市)では、関守富樫の某が、義経一行はにせ山伏となって下向するとの情報を得て、山伏だけを選び出して厳重に吟味しています。
この安宅の関へ義経主従はやってきました。
旅人たちが安宅の関で山伏を吟味中だと話しているのを聞いた一行は、対策を相談します。
血気にはやるものは、ただ打ち破って押し通ろうといいます。
弁慶は、この関一カ所だけではなく先々が大事なのだと説得し、義経を強力に変装させて通ることにします。
関の様子を見に行った強力は、関の警護が固いこと、山伏が斬られ、首がさらされていることを報告します。
 重い笈を負い、笠を目深にかぶり、杖にすがり、よろよろと歩く義経を最後尾に、いよいよ一行は関にさしかかります。
関守富樫は一行を呼び止め、この関は山伏姿の義経主従を調べるための関であるといいます。
弁慶は我々は東大寺再建のための勧進僧であって、まことの山伏である。留められるいわれはないといいます。
ともかくも一人も通さないと気負い込む関守に、我々をもここで斬るつもりならば最後の勤めを始めようと、山伏の祖始、役行者の教えの通りに不動明王、熊野権現などに数珠を押し揉んで祈ります。
 関守は、勤めに感じながらも、勧進僧ならば勧進帳がない筈はあるまい、勧進帳を読めといいます。
弁慶は困惑しながらも笈の中から往来の巻物をとりだし、これを勧進帳と名付けて、とっさの作文で読み上げます。
関守たちは驚き、恐れをなして山伏一行を通します。
一行の最後尾を歩く強力姿の義経が見咎められました。一生の一大事とばかりに刀に手をかけ色めき立つ山伏たちを制した弁慶は、なぜ強力を留めるのかと関守に詰問します。
この強力が義経に似ているので調べがつくまで留めるといいます。
弁慶はお前のためにすっかり予定が狂ってしまった。日頃から憎い奴と思っていたのだ、目にもの見せてやろうと義経を杖で打ちすえ通れといいます。
 何と弁明しても通さないという関守に弁慶は、今度は強力を留めて笈に目を付けるのは盗人だと言いがかりをつけ、山伏たちも弱いものに太刀、刀を抜き、あなどるのは許せないと刀に手を掛け関守に詰め寄ります。
関守も刀に手を掛け対抗しますが、ついに山伏たちの気勢に圧倒されて一行を通します。
 関もはるかに遠く過ぎたところで一行は休みます。
弁慶は、非常の事態とはいえ主君を打つという常識では考えられないことをしてしまった。これも主君の運が尽きてしまったせいだろうかと嘆きます。
義経は、いや、これは源氏の守護神八幡大菩薩が自分を救うために弁慶に打たせたのだとなぐさめます。
 一行は、来し方を回想し身の不運を嘆きます。義経は一命を兄頼朝に差し上げ、夜路ともの命に従い平家追討のため困難な戦に明け暮れ三年をも経ずしてついに世の中を平定しました。
しかし、その忠勤も無に帰してしまった。今ではこのように辺境をさまよっているのに、いったい世には神も仏もおいでではないのだろうかと、嘆きます。
関守富樫が、あまり非礼を働いたので詫びたいと酒をもって一行に追いつきます。
弁慶は、関守が情けをかけるようにしているが、油断して怪しまれるようなことはするな、と戒めながら酒宴に興を添え、舞を舞います。
弁慶は、比叡山一の遊僧で、延年の舞の名手でした。
舞も終わり、弁慶は一行をせきたて、関守に別れを告げ陸奥の国へと下って行きました。まことに危うい酒宴でした。

□文治元年、1188年10月、義経は初めて兄頼朝の刺客に襲われます。土佐坊昌俊事件です(能、正尊)。同年11月、大捕物から西国脱出をはかるが(能、船弁慶)暴風雨にあい、一行は離散して吉野山に潜入(能、吉野静、二人静)。
 多武峰、叡山、奈良と潜伏していましたが、京で佐藤忠信が討たれたのを機に北国落ちを決意します。
 文治3年2月出発。同年9月頃到着。時に藤原俊成「千裁集」撰進。

 金剛流謡本の解説によれば、典拠は義経記、弁慶と富樫の問答は「平泉寺御見物の事」義経打擲は「如意の渡しにて義経を弁慶打ち奉ること」義経の笈に手をかけたことは「直江の津に笈さがされし事」から脚色したもの、とある。以下、義経記、平家物語は次のようにあります。

□平泉寺は白山信仰の拠点の一つで、天台修験の道場として知られた所でした。予告コースを大きく逸れた所にあったが、主君の仰せに、仕方なくこの寺の観音堂に泊まりました。この寺にも鎌倉の手がのびていました。
夜半、200人の衆徒に襲われます。弁慶はもうこれまでと観念しましたが、衆徒たちと問答を始め、釈明に成功します。
しかし、弁慶はうっかり稚児にしたてた北の方が笛の名手だと出任せを言ってしまいました。
平泉寺長老の弟子和泉坊は、稚児は女性であることを見抜いていたので、女性が笛を吹くはずがないと怪しまれてしまいます。
長老に笛を吹くよう所望され、弁慶は「安き程の事にて候」と言ったが、目も眩むように呆然とした、とあります。関守富樫に勧進帳を読めと迫られ「心得申して候」と言う弁慶の心情でしょう。
 夜も更け、長老のもとから酒肴が届きました。「酒は本性を正すものなれば」と弁慶に諫められ「鰐の口を逃れたる心地して」平泉寺脱出に成功しました。

□如意の渡しに着いた一行は、渡し守の権頭に留められます。
山伏の、3人、5人でも役所に届け出る定めです。ことに16人もの山伏では調べないで通すことはできない、と言います。
そして義経を指差して間違いなるとく判官殿だと言います。
弁慶は、あれは白山から連れてきた御坊だ。歳が似通っているので人に怪しまれるのが口惜しい。これより白山へ戻れと、船から引きずり降ろし、扇で散々に打ちのめしました。
渡し守は、判官殿でなければそれまでのことなのに、羽黒山伏ほど情け知らずの者はいないと同情し楫取りのそばに乗せました。弁慶の計略はここでもまんまと成功しました。
この如意の渡しをやっと越えたところで弁慶は義経の袖にすがりつき、主君を打たなければならなかった身の不遇を嘆きます。さしもの勇猛な弁慶がさめざめと泣きました。

□一行は直江の津に出、花園観音堂に参籠していると村おさと里人、2、300人が押し掛けてきました。
 この国の守護は鎌倉殿御自身であるから、たといお留守であっても調べた上でないと通せない、まずその笈を一梃調べると言います。
一梃目の笈はうまく言い逃れることができました。二梃目を要求されると弁慶は「何梃でも」と言ってまた一梃投げだし、この中には権現が鎮座している、汚れた手で開けると罰が当たるぞと脅します。中には兜とすね当が入っていました。ゆすってみると、からからと音がしたので人々は肝を潰し逃げ帰りました。
 一人残った代官に、「このご神体を領主の邸に投げ入れて我らは羽黒へ帰り衆徒を揃えてお迎えに参るであろう」と脅し、笈のお清め料として、米三石三斗、白布百反馬七足を要求、まんまとせしめてしまいました。
代官は恐ろしさにぶるぶる震えながら、それぞれの品を揃えて渡しました。
 関はもう一つありました。文殊の関です。この関は殊に改めがきびしく、弁慶は義経を強力に仕立てて通ります。義経には笈を負わせ「歩け法師」と言いながら杖でびしびしと打ちながら責め立てました。
関守は「ああ、かわいそうな小山伏よ」と関の木戸口を開け通しました。この関を通ると出羽の国、藤原秀衡の支配地でした。

□この能では、義経主従の所々での受難が安宅の関に集約されているのですが、安宅の関というのはなく「安宅の渡しなどを見物して」とあり、富樫荘が近かったための脚色かと思われます。
富樫は加賀の国石川郡富樫荘の当主でした。文治元年に頼朝から加賀の国の守護に任じられる程の大身でした。
弁慶は富樫の館に一人で行き、管弦、酒宴の最中に押し入り郎党と争いとなったが、ここでも又東大寺勧進と称してまんまと寄進をせしめました。

□文覚上人は、頼朝に反乱を勧めた人で、19の歳に道心を起こし、出家して修行の小手調べにと6月の暑い日に藪の中に入り仰向きに寝て虻や蚊、蜂、蟻に刺されても身体を動かさず7日も起き上がりませんでした。
又12月、雪と氷の那智の滝に打たれてみようと滝壺に浸ったが、8日目にとうとう息絶えてしまいました。
不動明王に助けられ21日間の大願を果たしました。「文覚の荒行」と世に聞こえた人でした。
 後に高雄の神護寺という寺に入りました。この寺は和気清麻呂の建立で荒れ果てていたが、文覚はこの寺を修理しようと勧進帳を持って後白河院の御所へ押し入り、高らかに読み上げました。
文覚は生まれ付き大胆不敵なところにかけては第一の荒法師であった、とあります。

□山伏の祖は役行者であるといいます。
通力自在で空を飛び、葛城明神、一言主神を呪縛したほどの験力を持っていました。山伏の理想像でしょう。
 三井寺(天台宗)や、醍醐寺(真言宗)の僧は紀伊の熊野本宮から玉置山、転法輪岳、釈迦岳、仏経岳、大普賢岳、大峰山を経て、吉野の水分神社の氏子と習合して修験道、山伏となったといわれています。
 山伏は大自然のエネルギーを吸収し、神仏に祈り、不老不死、通力自在、動植物と交流するなどの験力を得るために修行しました。
彼らはこの験力で病気の治癒、悪霊退散などの加持祈祷をしました。
 山伏は羽黒山、大山、白峰、白山、英彦山にもおこり、いきおい熊野吉野ルートはメッカになりました。
義経主従が山伏になったのは、当時羽黒、吉野間の山伏の往来がかなりあり、人々の修験道信仰が厚かったことなど、道中最も安全と思ったからでしょう。
弁慶は、叡山の僧であり山伏のしきたりはよく知っていたことでしょう。

□能の型(所作)は運歩(歩くこと)に代表されるように日常の生活動作とはよほど違う動きをします。
全く違和感がないように動くには、かなりの修練が必要です。これは、初心の演者だけではなく終生つきまとうと聞きます。
 たいていの演者はある曲を演ずるとき、様式化された「型」や能のセリフである謡を一曲に生かすために、例えば視線ですとか緩急とかいったようなことまで訓練するのです。
つまり徹頭徹尾「技術化」しようとする、といえば言い過ぎかもしれませんが、努力の大半をこれに費やすのだといいます。いきおい演劇性が乏しくなる恐れが出てきます。
 能も演劇ですから演劇的要素が必要であることは当然と思います。ことにこの曲の見所でもある「弁慶と富樫の問答」「義経打擲」「終曲の弁慶の舞」など、これがおおいに要求されると思えます。
 このウィークポイントを克服しようとする、この演者の意図が見えてくるように思えます。
 富樫と弁慶の対立だけがこの曲の主題ではないと思います。思慮深く知略もあり、さらに人間味もある弁慶像を重点に演じる「て」もあると思います。
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