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09.20
Fri
老武者の気骨、心意気を描く修羅能の大作。

平家の武将、斉藤別当実盛は、篠原合戦に七十余歳で出陣、年を知られまいと墨で髪を染めて戦い、討死しました。
加賀の国篠原で、時宗の他阿弥上人の説法の場に何時も欠かさず聴聞にくる老人がいます。不思議にも老人の姿は上人だけにしか見えません。上人と老人の問答は他の聴衆には上人の独り言のようです。今日も静かに現れた老人は、棚引く紫雲を拝み、鐘の音、念仏の声に耳を傾け説法の場に進みます。
 上人が名を訪ねると実盛の幽霊と名乗り、この池のほとりで髪を洗われ、その執心は二百余年を経て今も残り成仏できないと語り池のほとりに姿を隠します。
 上人と従僧は鐘を打ち鳴らし称名を唱え弔います。
和讃(時宗の踊り念仏で唱和される和讃)に唱和しつつ現れた実盛の霊は「懺悔の物語」をはじめます。
 実盛を討った手塚光盛は、錦の直垂を着た奇異な者を討ったと実盛の首を源氏方の大将、木曽義仲に差し出します。義仲は実盛であろうと感づくが髪が黒いのを訝り、実盛を見知っている樋口次郎に見せます。樋口は、はらりと涙をながし、常づね実盛は、六十過ぎて戦場に赴く時は若輩どもに侮られないよう鬢髭を染めると、気骨をみせていたとかたります。
 義仲は池水で首を洗わせます。墨は落ちもとの白髪となり、人々は名を惜しむ武士はかくあるべきと涙をながします。
 さらに「懺悔の物語」は続きます。
実盛は篠原の合戦に赴く時、平家の総大将、平宗盛に、自分はこの戦いで討死するであろう。我が生まれ故郷は戦場篠原にも近い北国越前。故郷へは錦を着て帰るという。漢の朱買臣のように、かの北国に錦の袂を翻して武功を立て、名を残したい。こう訴え、錦の直垂を所望しました。
 「懺悔の物語」を語り終えた実盛の幽霊は篠原で手塚光盛に討たれた凄惨な場面を再現してみせ、回向を乞い消え失せます。

□この曲は数ある修羅能と趣が変わっています。まず前場、ワキが出囃子もなく静かに登場し、アイ狂言が口火を切り、観客を説法の聴衆に見立て、これからのことをフレることから始まります。(狂言口開ケと言う)またシテの姿がワキ、上人にしかみえないと云う設定など、重々しい雰囲気をつくります。後場のシテの出現には太鼓が加わります。実盛を弔う、踊り念仏という設定も興味をそそります。
老体ながら動きが多く二時間ちかくに及ぶ大作です。老体の能として重く扱はれています。
盛の字を持つ佳曲、三曲「実盛」「通盛」「盛久」を三盛(さんもり)と名付け、また「実盛」「朝長「頼政」を三修羅(さんしゅら)と称するなど修羅能の代表作として重く扱はれています。
※「懺悔の物語」来世をたすけるため過去の所業、罪業を僧に再現して見せること。

□この能の出典は平家物語巻第七真盛、作者は世阿弥です。後場のシテの出に時宗の踊り念仏「淨業和賛」を取り入れ、つづく「語り」、「クセ」、「キリ」は平家物語をほぼそのまま引用しています。語り、キリ、クセの場面は平家物語の場面とは前後しています。作能法の例として「申楽談義」に記述があるといいます。作能法の試みだったのかも知れませんし、自信作だったのでしょう。
遊行上人が実盛の供養をしことは「満済准后日記」に加賀篠原に実盛の霊が現れ遊行上人が十念を授けたとあるそうです。本曲が作られた動機であろうといわれています。
□実盛は藤原将軍の流れをくむ平安後期の武士です。保元、平治の乱では源義朝のもとで戦い活躍しました。平治の乱に敗れ東国に脱出しようとした義朝が比叡山西塔の荒法師に狙われたとき、奇計をもって危機を救うなど知将でもあったようです。その後、平宗盛に仕え平氏の荘園、武蔵の国永井の別当に任ぜられ永井斉藤別当実盛と称しました。
石橋山、富士川の合戦では源頼朝と戦いました。人として節操のないように思われますが源頼政の例のように当時の武士は、「家」を守ること「名をあげること」が生きる目的だったのでしょう。
□踊念仏は空也念仏ともいい平安中期の僧、空也上人が始めその後鎌倉時代に「時宗」の開祖一遍により広まりました。太鼓や鉦を打ち鳴らし念仏、和讃を高唱する所作が踊るようであったので踊念仏と呼ばれました。
時宗は開祖一遍が諸国を遊行して「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書いた札を人々に授ける賦算を代々受け継ぎ行いました。遊行宗ともいいその僧を遊行僧ともいいました。一遍の二代、他阿から代々他阿弥陀仏と称しました。この曲の他阿弥上人は数代後の他阿弥ということです。本山は藤沢市清浄光寺。能「遊行柳」の上人も他阿弥です。
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