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09.20
Fri
杜若の精が業平、二条の后の形見を身に着けて美しく舞い伊勢物語の華麗な世界に誘う。

都の僧が東国行脚を志し三河国(静岡県)八橋に来かかります。美しく咲きほこる杜若に見とれていると里の女が現れ、この八つ橋の杜若の紫色は世にありふれたものとは違うのだと意味ありげにいい昔、在原業平がここで都の妻を偲び、歌を詠んだのだと語ります。
 女は僧を我が家に案内します。やがて女は、初冠、唐衣を着た美しい姿で現れ、この衣は業平が歌に詠んだ高子の后の御衣であり、冠は業平の五節舞、見物の時の冠だといい、自分は杜若の精であると名乗ります。業平は、実は歌舞の菩薩で仮に世に現れたのであり、その歌はみな仏法の経文であって、草木までもその恵みで成仏できるのだとかたります。
 女はこの「ゆかり」の唐衣の袖を翻して舞を舞いましょうと、伊勢物語の「東下り」の段や、契りを込めた数々の女のことを語り、舞い、業平は又、陰陽の神(男女の仲を司る)であり、多くの女と契を交わしたのも衆生済度の業なのだと説き、やがて夜明けとともに、草木成仏の御法により成仏できたと帰っていきます。
□シテは里女の姿で現れ、二場の複式能の「中入」に相当する「物着」で後見座に行き衣装を替え変身します。初冠は業平、長絹は唐衣であり二条の后であって、一人の中に業平、二条の后、が混在しています。他の曲に見られるような、ある時は業平、ある時は二条の后と演じ分けることはありません。業平は歌舞の菩薩でありその歌は仏法の経文であるとしています。このことから、歌舞の菩薩のイメージもあるでしょう。
クセは「曲舞」の「次第に初まり次第に終わる」本格形式で「二段クセ」の長大なクセです。
前半に「伊勢物語」七段の伊勢、尾張、八段の浅間の嶽、九段の八つ橋、の旅での様子が、その所で詠まれた歌とともに語られます。
後半では業平が契った数々の女性のことが情熱的に謡われ、業平は陰陽の神である「疑わせ給うな旅人」と結びます。業平を、歌舞の菩薩、陰陽の神とすることは、古くから行われた多くの伊勢物語の注釈本に拠るものです。業平を讃えることは勿論、上代からの日本の文芸、和歌や仏教の礼賛でもあるでしょう。

□この能は伊勢物語、中でも主として「東下り」を典拠にしています。「東下り」は「むかし男ありけり」に始まり、自分を無用の者と思い、東国のほうに住む所を求めて、八つ橋にやってくるところから駿河、下総の隅田川まで、伊勢物語のなかでは長文です。詠まれた歌は四首です。
 八つ橋での歌は、か・き・つ・ば・た・の五文字を詠み込んだうた「唐ころも、着つつなれにし、妻しあれば、遥々きぬる、旅をしぞおもふ」でこの能では、旅の僧にシテ、杜若の精がおしえます。

□伊勢物語は在原業平の歌に、業平の華やかな話を添えた歌物語です。
業平の艶麗な生活ぶりは、その情熱的な秀歌とともに語り伝えられました。伊勢物語はこれら業平ファン、親族らの手によるものであろうといわれています。業平没後、20数年後に編纂され古今和歌集の編者の一人、紀貫之も深く関与しているのではないかといわれています。
その後900年の中頃には今日の「伊勢物語」に近いものが出来、その後平安時代を通じて書き継がれ古歌や業平以外の歌も取り込まれました。
鎌倉末期になると注訳書「伊勢物語髄脳」「和歌知顕集」室町時代に入って「伊勢物語抄」が伊勢物語を愛読、研究した歌人達によって著されました。
その後、現代に至るまで膨大な注訳書が書かれました。その中に細川藩主、歌人でもある「細川幽斉」や「後水尾天皇」の名が見えます。 
「伊勢物語」は当時、国民的愛読書だったのです。
これらの古注訳書によると「三河」とは二条の后、染殿后、四条后など三人の女、「八橋」は三条町、紀有常の娘、(染殿内侍とも)、伊勢、小野小町、定文娘(妹とも)、初草女、当純娘、斎宮、など八人の女であり「杜若」は二条の后の「形見」(象徴)であるとする。
本曲ではこれらの古注が美しい詞章で謡われます。本曲は伊勢物語そのものはさることながらこれら古注書をも典拠に書かれた、こう理解すればこの曲の持つ不思議な魅力が理解されよう。

□業平は825年に誕生、880年56才で没しました。父は平城天皇の皇子阿保親王、母は桓武天皇の皇女伊都親王、皇族として生まれました。父阿保親王が「薬子の変」の政変に連座して大宰府に流されたため兄、行平その他の兄弟と在原の姓を賜り臣籍に下りました。兄行平は能「松風」にも作られている松風、村雨伝説やまた歌人としても名高い。業平没後まもなくできた「三代実録」に「体貌閑麗、放縦拘ラズ略ボ才学無ク善ク倭歌ヲ作ル」美男、気ままな行い、実直な学問肌の人ではなく歌に秀でている」とあります。
古今和歌集に紀貫之は「在原業平はその心余りて詞たらず、しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」情熱がありすぎて表現が及ばないと評しています。実生活も情熱の人だったのでしょう。

□二条の后、高子は清和天皇の后、陽成天皇の生母です。当時は摂関政治の確立した時期でした。未来の天皇妃として大事に育てられました。伊勢物語六段、業平が高子を盗み出す事件を起こした時、父藤原長良や一族の怒りはいかばかりだっただろうか、この事件のため業平は「東下り」を余儀なくされたといいます。高子が誕生した時、業平は18才でした。この事件を起こしたとき業平は30台半ば、分別盛りの壮年でした。業平像が偲ばれるところです。
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