FC2ブログ
--.--
--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

11.04
Sat
平治の乱に敗れ、重症を負い美濃、青墓の宿で自害した少年武将、源朝長の悲痛な最期を青墓の長者が痛切この上もなく語る。
観音懺法を読み弔う僧の前に現れた朝長の亡霊が乱の顛末、青墓の長者の温情を語り、自刃の様を語る。型は少ないが厚みの迫る名作。

嵯峨、清凉寺の僧が美濃、青墓の朝長の墓所を訊ねる。
青墓の長者は七日毎に朝長の供養に墓前を訪れていた。今日はその日、墓前に供える木の葉を持って訪れ、過ぎ去った時を思い、朝長を偲ぶ。
長者は墓前で読経し涙を流す僧に気が付き不審する。僧は朝長の乳母子、乳兄弟であった。
二人は辺りの景色を共に眺める。早春の青野が原は枯れ葉のみ、緑のない荒涼とした原野は朝長の最期を写しているようであった。
僧は朝長の最期を聞きたいという。
青墓の長者が語る朝長の最後は悲痛極まりないものであった。

「暮れの八日の夜、長者の門を荒々しく叩く音がする。乱に破れて落ちる途中の義朝と次子朝長、郎党四、五人であった。朝長は膝頭を矢で射貫かれ苦しんでいた。
夜更け人も寝静まり、静寂の中から朝長の声で、南無阿弥陀仏、と念仏二声が聞こえた。郎党、鎌田の知らせに義朝が駆け付けると朝長は既に割腹、血は肌着を真っ赤に染め目も当てられない有様であった。どうして自害をと問う義朝に、絶え絶えの息の下から、落ち延びる途中で敵に遭遇したならば犬死するだろう、雑兵の手にかかることはいかにも悔しい、行く末をも見届けず不甲斐ないことです、それではお暇を頂きます。これが最後の言葉だった」

長者は僧を伴い青墓の宿に帰る。
長者の使用人(アイ)が僧に義朝の身内の悲劇を語る。
嫡子、義平は捕らえられて殺され、十三才の次男頼朝は疲れで一行に遅れて行方知れずとなった。統領、義朝は家人長田の庄司宗忠に殺された。
この青墓の長者は延寿といい義朝との間に十才の娘、夜叉御前を持つ間柄だった。

僧は生前朝長が尊んでいた観音懺法を読み供養する。
僧の読経に呼応するかのように偈を唱え朝長の幽霊が現れ、僧の観音懺法の弔いを感謝する。昔は源氏、平家相共に朝廷を護り治まる世を助けて来たが保元の乱、この度の平治の乱で世は乱れたと嘆き、一族の劇的な最期を語る。
「一切の男子をば父と頼み、万の女人を生々の母と思え」経典の文言を引き青墓の長者の恩を語る。だが甲冑姿の朝長の姿に憤怒の色が濃い。魂は浄土に行ったが魄は修羅道に落ちて苦しみを受けているのだ。
大崩の地で膝頭を深く射抜かれ自害をせざるを得なかった無念を見せ、僧に回向を頼み消え失せる。

青墓の長者が朝長の最期を悲痛この上もなく語る「語り」、この能の核心でもある。
臨場感溢れるこの曲の長文の「語り」は数ある「語り」に傑出している。
「夜更け人静まって、朝長の御声にて、南無阿弥陀仏と二声のたもう。鎌田殿参り」
真夜中のしじまの中から微かに聞こえる念仏、朝長の自刃を悟って慌てふためいて駆けつける足音が聞こえるようだ。

長者とは宿駅の宿の女主人。この青墓の長者は朝長の父、義朝との間に娘もある間柄だった。能「葵上」では六条御息所が恋敵の光源氏の正妻、葵上を呪い殺す。
朝長は義朝の正妻の子、青墓の長者は朝長を憎みこそすれ、その慈しみが不思議なほどだ。人間としての度量に胸が痛い。朝長の死を悼み七日毎に墓前に参り回向する。長者の慈愛がこの曲の主題とも思える程だ。
修羅物、二番目物に分類されるが異質のようにも思える。「能は一曲毎に違う。分類は便宜上のものだ。一曲の中身だけを吟味して舞え」亡師の教えが蘇る。

朝長は十六才の少年。少年武将の能には「敦盛」「常政」がある。これらの曲は「黄鐘早舞」や「カケリ」を舞う。多分に華やかさがある。「朝長」には華やかさが微塵もなく、あまりの悲惨故か少年を題材にした能としては心の重圧が重すぎる。中将の面を掛けるのはその故だろう。小書きに「懺法(せんぽう)」がある。大掛かりな小書きで、特に太鼓方の秘事が重く扱われる。太鼓の調緒の締め方に秘事があり、常の澄んだ音が常とは異なった音を響かせる。割腹した朝長の淀んだ血の色が思われる。

平治物語には父、義朝が手にかけたことになっているという。前場の語りに「雑兵の手にかからん事あまりに口惜う候へば」とあるのは父、義朝の心中だろうか。
青墓の長者に、この凄惨な事実を語らせることは酷過ぎたのであろうし傑出した語りとはならなかったかも知れない。
平治物語に「頭殿(義朝)、いかに朝長はと宣へば、存知候とて、合掌して念仏申されければ、障子をあけて入り給ひ、胸もとを三刀さしてくびをかき、むくろにさしつぎ、きぬ引きかけて出でたもう」とある。

朝長の父、義朝は皇位継承の争いの保元の乱に加わり武士の名を挙げたが続いて起こった保元の乱で宿敵、平清盛に敗れ敗走中、家臣の長田に殺された。
義朝の三男頼朝は捕らえられたが平清盛の継母、池禅尼の尽力で一命を助けられ後に鎌倉幕府を開いた。
幼名、牛若丸、源義経は異母弟。母は常盤御前、容色殊に優れ九条家の雑仕女だったが義朝に見出され、今若、乙若、牛若を産んだ。平治の乱後、三児を連れ雪の中を逃げ惑ったが、捕らえられていた母を救うため六波羅に自首、清盛の寵愛を受け女子を産んだ。清盛の死後、大蔵卿藤原長成に嫁し能成を産んだ。波乱の人生も然りながら平安の女性の生命力に驚かされる。
保元、平治の乱は武士の台頭の契機となったという。

スポンサーサイト
back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。