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08.13
Sun

箙(えびら)

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一の谷の戦いに源氏方の若武者梶原景季が平家の陣の表門を破り攻め入る武勇の物語。
表門は生田の森にあったと云います。
箙は矢を入れ背に背負う武具、景季は弓の名手でした。

前場のシテ景季の霊は面を掛けない素顔、直面(ひためん)の里人の姿で現れます。能の面には里人の中年の男や若い男の面はないようです。景季がこの地、生田で武勇を見せたのは23歳の若さでした。面を着けない演出の一つの理由でもあるでしょうか。
若々しい姿で語る戦いの情景が溌溂と新鮮に甦ります。
里人は僧に名木「箙の梅」の謂れを語ります。
「この生田の森は平家方十万余騎の陣の表門だった。梶原景時、景季親子は表門を破り攻め込み奮戦した。景季は折から満開の梅の枝を手折り箙に挿し戦かった。
人々は梅を挿し奮戦する景季を褒め称えた。後に人々はこの梅の木を箙の梅と名付けた」
さらに里人は平家十万余騎と源氏六万余騎の激突の有様を語ります。
里人の語りは白熱します。
日はやがて傾き山の端に入り月も輝きだします。
僧は里人に一夜の宿を所望します。里人は、この梅の木陰に休みなさい、私はこの梅の主、景季の幽霊と名乗り消え失せます。

箙に梅の枝を挿し華やかに武装した景季の霊が再び僧の枕の上に現れます。
僧はその不思議な姿に名を訊ねます。景季が名乗るや否や修羅道の苦が襲いかかります。
ここで舞う「カケリ」は修羅の戦いを表しています。戦いを事とする武人は死後、修羅道という地獄に落ち生前戦った戦いを永遠に続けるといいます。
生田の森は修羅の地獄に変わります。山は激動し、海は吠え、雷火は縦横に走り、風は平家の旗の如く赤い炎となって襲いかかります。
 景季の霊は凄まじい地獄の有様を過激な動きで見せます。
景季の霊は心を鎮めます。辺りはまた昔の春爛漫の生田の森にかえります。梅の枝を折り箙に挿ます。昔の風雅な若武者にかえります。
 景季の霊は優雅に舞います。地獄の中の一輪の梅の花の風情です。
風雅な時は永く続きません。再び修羅の戦いが蘇ります。従った郎党の多くは討たれ絶体絶命の危機です。郎党三騎になり敵に囲まれ、秘術を尽して戦います。
「向こう者をば、拝み打ち、又巡り逢えば車斬り、蜘蛛手、かく縄、十文字、(いずれも太刀さばきの名)」
 景季の霊は息もつかせぬ早業で舞います。見どころの一つです。
やがて夜は白々と明け初め景季の霊は僧に供養を頼み消え失せます。

木曽義仲に都を追われ九州に逃れた平家は再び勢力を盛り返し、室山と水島の戦いに源氏を破り山陽道(現在の中国地方の瀬戸内海)と南海道(現在の近畿地方南部と四国)の兵を糾合し一の谷の陣に十万の軍勢が犇めき、海には数千艘の船が浮かんだといいます。
この光景を「東は生田の森、西は一の谷を限ってその間三里が程は充ち満ちたり、浦々には数千艘の船を浮かめ陸には赤旗(平家の旗、源氏は白)いくらも立て並べ春風に靡き天に翻る有様、猛火雲を焼くかと見えたり」と謡います。
源氏方は六万の兵で平家の大軍に挑みます。少年武将、平敦盛の悲劇や(能「敦盛」)源義経の「ヒヨドリ越えの逆落とし」の武勇伝が生まれました。

梶原景季は義経を讒訴したとして知られた景時の嫡男です。木曽義仲追討の戦いでの富士川の先陣争いで知られるように可成りの勇将だったのでしょう。
この曲は生田の森で、弟景高がただ一騎で討ち入ったのを助けようと景時、景季父子が後を追い敵陣を混乱させ後退したが景季が深追いして敵に囲まれ奮戦した武勇を作ったものでこの時、景季の箙には梅の枝がだしてあったといいます。

梶原氏は坂東八平氏の流を汲む一族でした。
景時は源義経を讒訴したことで知られていますが、義経の傍若無人、専横を心配しての頼朝への注進だったと同情的な見かたもあるようです。
景時は石橋山の戦いで源頼朝の命を助けて頼朝の信頼を得、御家人に列しました。文武に優れ関東武士に乏しい和歌など教養があり頼朝の目を引き、幕府の重臣となり幕府のお目付け役的存在となります。頼朝の死後、多くの御家人の反感から弾劾の上訴がありましたが景季は何の弁明もせず故郷の相模に帰りました。ここでも反対勢力に攻められ父子共に自害して果てたと云います。景季、享年三十九歳。
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