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04.15
Sat
   車僧(くるまぞう)
引く牛もない破れ車を法力で動かし西山にやって来た車僧、四方の景色を眺めている。
愛宕山の大天狗、太郎坊が車僧を魔道に誘引しようと山伏姿で現れる。太郎坊には悟りを開いた車僧が増長慢心に見えるのだ。太郎坊は車僧に、人間の存在について禅問答を仕掛ける。問答に勝って魔道に引き入れようとの太郎坊の魂胆だ。
「浮世をば何と廻るぞ車僧、まだ輪の内に在りとこそ見れ(車に乗った姿は輪廻の迷界を彷徨っているように見えるが)」と天狗。「浮世をば廻らぬものを車僧、乗りも得るべき輪があらばこそ(車に乗っているのは我ではないのだ、この世の存在は仮の姿なのだ)」と車僧。二人の問答は続くが天狗は劣勢、俺は恐ろしい存在だ、住んでいる愛宕山は嵐の吹き荒ぶ山、車の道などないが来れるものなら来てみろと捨て台詞を残し雲に乗って飛び去る。

配下の溝越天狗が現れ車僧と天狗の問答のあらましを語り、車僧を嬲れと命じられたといい、車僧を擽れば魔道に落ちるのではないかと車僧を杖でくすぐる。思わず笑ってしまう。

天狗の正体で再び現れた太郎坊。車僧に行力比べを挑む。大雪の中に車を乗り回して共に遊ぼうと太郎坊は杖で車を打つが車は動かない。車を打っても車は動くわけがない、牛を打てと車僧。牛を打とうにも牛はいないと太郎坊。牛ではない人牛だと車僧。(人牛とは未だ分からないが禅の言葉らしいという)車僧が払子を上げて虚空を打つと車は走り出し飛び翔った。流石の大天狗、太郎坊も車僧の法力に感服、合掌して立ち去る。

禅問答の面白さと、悟りを開いた高僧の泰然自若とした姿、これを魔道に引き入れようとする天狗の焦りを描いて面白い。小品ながらまとまりがよく、そのうえ僧と天狗の会話が禅問答形式で歯切れがよい。他の曲には見られない本曲の特色であろうか。
信仰心の薄らいだ現代人には禅問答は理解するには難しいと思うが、この曲から伝わる“感じ”でも十分楽しめる。
前場は禅問答に終止し目立った所作はない。天狗は嵐の吹き荒ぶ我が庵室に来いと威勢を見せて來序を踏んで立ち去る。来序は退場の時用いる囃で、帝王や神、天狗など大きな力を表わす。
アイ狂言が面白い。アイ狂言は素顔で現れ物語のあらましなどを語るものが多いが、この曲では嘯吹(うそぶき)という面を掛けて現れ車僧を揶揄うなど活躍する。嘯吹は口を尖らしたひょうきんな面相で里神楽の“ひょっとこ面”の原型でもあるという。
後場の天狗は、天狗や魔王など人格を越えた存在の登場楽に奏される「大ベシ」に乗って現れる。ゆったりした特殊な足使いは雲に乗っている様子だという。
前場とは打って変わり、泰然とした車僧の前で車を動かそうと鞭で車を叩き、押し、大仰に飛び跳ねるなど焦燥感を見せる。滑稽感さえにじませる。

禅問答は禅僧が悟りを開くための問答だという。鎌倉前期に宋から伝えられた禅宗は、この曲の出来た頃盛んだったのだろう。金春禅竹など禅宗の熱烈な信仰者が知られている。禅問答は人々にもて囃されたのだろう。
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