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09.20
Fri
◆洛北の八瀬の里で、夏の籠居修行をしている僧のもとに毎日木の実や薪を持って訪れる女がいます。僧が毎日の労苦を労い、木の実の名前を問うと、女は昔、釈迦が檀特山で菜を摘み、水を汲み、薪をとるなどして仙人に仕え、修行した故事に比べれば何でもないことと答え木の実の謂われを語ります。
更に僧が女の名を問うと、「小野とは云わじ、すすき生いたる」といいかけ、市原野のあたりに住む姥と答え消え失せます。
 僧は、ある故事を思い出します。「ある人が市原野を通りかかると、秋風の吹くにつけてもあなめあなめ、小野とは言わじ薄生ひけり”と歌が聞こえてきた。そこは小野小町の墓所であった」僧は今の女は小野小町の亡霊であろうと市原野へ出むき回向をします。再び女が現れ、僧に成仏のための戒を授けるよう乞います。そこへ異形の男が現れ、女の袂を捉え受戒を防げます。僧は、男が深草の少将であるとさとり、二人に「百夜通」の様子を再現するよう促します。二人は「百夜通い」(後記参照)をつぶさに見せます。少将は小町との祝言の杯を、と思ったが小町が諭した仏の飲酒戒を守った、そのことが罪障消滅のもとになり少将、小町共に成仏します。

◆この能は前場、後場を持つ複式能の様な構成です。前場は、ツレが主役です。シテが登場するのは後場です。
ツレ小町は、小枝を持っています。薪を表しています。面は小面、色入り唐織り着流しで若い女の出で立ちですが、中入に「市原野辺に住む姥ぞ」と名乗ります。奇異に思うところです。もともとは姥の出で立ちであったのだろうか、度々の改作の名残といいます。
 前場の僧との「木実尽し」の問答、ロンギが美しく、聞きどころです。〈櫟・香椎・真手葉椎。(いちい・かしい・まてばしい)〉の〈しい〉は四位の少将を暗示するといわれます。
ワキ僧が「木実の数を承りたく候」と尋ねますが、「数」は深草の少将が通った日数、雨の日、風の日、雪の日の苦しみの数を暗示しています。
ツレは後見座に中入します。この能の前場のツレは、ツレの位でシテの中身を演じなければならないという、難しい役どころです。
 ※メモ 中入り。前場が終わりシテなどが退場すること。狂言が間をつなぐ事が多い。

◆後場のシテは、濃紺の衣を被いて出ます。暗い夜道を、おぼつかなく小町のもとへ向かう態を表しています。面は、地獄の責め苦に憔悴した相の痩男です。頭には大きく長い頭髪、黒頭(くろかしら)をつけています。鬼畜、幽鬼の類の扮装です。少将の執心の烈しさを表しています。
僧は百夜通いの再現を促します。世を捨てた僧が俗事に興味があるわけではなく、過去の罪業を懺悔して罪を滅するためです。

◆後場は異形の少将が僧に受戒を乞う小町の袖を取って押しとどめる、緊迫した場から始まり、みどころの「百夜通い」に続きます。
途中、シテは「立廻(たちまわり)」を舞います。笠を傾け、静かに舞台を一巡し、舞台中央で笠を落とします。風に吹き飛ばされた笠を、闇の地面を這いながら探します。なおも苦しい百夜通いを見せ、舞台中ほどにうずくまり、通った日数を数え、あともう一夜と気が付いたシテは喜び、衣服を改め小町の許へ急ぐさまを見せます。シテの心得の多いところで、工夫された型の続くところです。
 この能は、この場面で終わりです。この能には、世に言う恋の成就の前九十九日目の夜、悶死したとする場面もなく、飲酒戒を守った功徳で成仏したと終わります。この唐突な終わり方は、数回の改作のためではないかと言われます。
  ※立廻。舞の一つ。舞台を一巡するだけの簡単な中に、その曲の趣向を加える。

◆この能は「百夜通い」「小町の髑髏説話」の二つの説話からの取材です。
その一、「百夜通い」。古今集、読人知らずの歌に「暁の鴫の羽がき百羽かき、君がぬる夜は、われぞ数かく」が傅説を生んだ。
歌論議の説話に「言い寄る男の心を見ようと女が、車の榻(しじ、車のながえを置く台)に百夜寝たならば、言う事を聞こうというと、男は九十九夜通った。もう一夜という夜、男の親が突然死んでしまった。男は行く事が出来なかった」。
この説話が小町と少将の事として伝わったとします。 
その二、小町の髑髏(どくろ)に薄が生えて、その中から歌が聞こえてきたという説話は、大江匡房の「江家次第」にもあり、又「古事談」に、在平業平が二条后を盗み、失敗した後、奥州の歌枕、八十島をたずねた。ある夜、和歌の上の句を詠ずる声が聞こえた。「秋風の吹くたび毎に穴目・穴目(痛いの意)」行って見ると人は居ず髑髏があった。その目から薄が生え風の吹く毎に靡き(なびき)、その音がこの歌のように聞こえた。小野小町がこの所に下向して死んだ。髑髏は小町のものであった。業平は哀れに思い「小野とはいわじ薄生いたり」と下の句をつけた。

◆小野小町は、平安初期の歌人です。その名は美人の代名詞で、知らない人はまずいないでしょう。生没年は不明で「尊卑分脈」では小野篁の孫、良真の子とするが疑わしいといいます。「古今和歌集目録」に、母が出羽の国の郡司の娘とあり、小町が活躍した年代から類推して嵯峨天皇、弘仁年間(八百十~八二四)の出羽守、小野滝雄を父とする説もあるが、これも確証はないといいます。
 小町の歌には意外に恋の歌が多く、「勅撰和歌集」に採られた恋の歌の相手に在原業平、僧正遍昭、文屋康秀、外二、三、遍正との話は「大和物語」「十訓抄」にあると云う。
小町の歌は情熱的で哀調を帯びていて紀貫之は「古今和歌仮名序」に「よき女のなやめる所、あるに似」と評しています。
「小倉百人一首」にも採られている小町の歌「花の色はうつりにけりな、いたずらに我が身世にふるながめせしまに」の歌から晩年はおちぶれたと考えられたようです。小野小町とは全く別の人の説話「玉造小町子壮哀記」というのがあり、この人物を混同した説話が「古今著聞集」「江家次第」「古事談」「十訓抄」「宝物集」にあり、小町が晩年、老い落ちぶれ、野山にさすらったとする「小町流浪説」となったとします。

◆深草の少将は「早引人物故事」に、大納言、義平の長子、名は義宣、山城深草に住むとあるが、多分に伝説的な人物であって、実在したかどうかは疑わしいとする。
僧正遍正が出家する前、左近衛少将で小町と親しかったことから遍正の説もあるようです。洛北に小町寺というのがあり、一群の薄が植えてあり小町と少将の墓があります。
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