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09.20
Fri
□皇太子未亡人、六条御息所の恋いの苦しみ、押さえきれない嫉妬を描く名作。
綿々と述べられる心情、生霊となって恋敵、葵上に襲いかかる枕の段。鬼形となって行者の法力と争う、などなど聞きどころ見どころ多々。緩みのない演出が魅力。

□舞台先に一枚の小袖が置かれます。光源氏の正妻、葵上が病臥しているのです。
この一枚の小袖の存在は重く、シテは常にこの小袖から心を離さず一曲を演じ通します。
白装束の巫女が静かに現れます。
 この巫女は梓の弓の弦をならして生霊、死霊を呼び寄せる、上手です。
巫女に続いて朱雀院臣下が登場します。
ここまでは静寂のうちに進行し、重苦しい空気が充満します。
静寂を破り、臣下は葵上に物の怪が憑いて重態であると述べ、巫女に梓にかけるよう命じます。
巫女は呪文を唱え弓をかき鳴らします。巫女の弓はありません。観客の想像の中です。
梓の弓の音に引かれて静かにシテ六条御息所の生霊が現れます。
御息所の霊は、この世の無常は弁えていても、それでも人を恨み、その辛さに耐えかね
しばらくでも気を紛らそうと梓の弓の音に引かれて現れたのだと述懐します。
臣下は生霊に名を名乗るよう 促します。
 シテは舞台中央に座を移して、御息所の怨霊であると名乗り、皇太子妃であった往時の栄華を懐かしみ、落ちぶれた今の境遇を嘆きます。
 シテは中腰のままで、この長丁場を演じます。シテには過酷な演出ですがシテの緊張感が直接伝わってきます。
 御息所の生霊は、しだいに激昻し巫女が諫めますが聞き入れず、葵上の枕元に駆け寄り
したたかに打ち据えます。
 立ち上がったシテは、恨みの言葉の丈を述べ、開いた扇を投げつけ、
壷折(装束の付け方。着丈の余ったものを中に折り込む)に着た小袖を引き抜いて被き、再び枕元へ走り寄り、乗ってきた破れ車に葵上を乗せて帰ろうと前場を止めます。
この場面は「枕ノ段」と称し、前場の見どころです。
 能にして思いきった演出で、御息所の恨みの深さを見せます。
破れ車は「車争い」の車で、屈辱の象徴でしょう。古曲では車と青女房が出たようですが
現在は出しません。青女房はツレ巫女が代行します。青女房が巫女に憑いた見たい。
 葵上の容態の急変に、横川の(比叡山、三塔の一つ)高僧が呼ばれ、加持祈祷が行われます。やがて御息所の怨霊は鬼形となって現れます。
 シテは般若の面をかけ、小袖を被き僧の後に忍び寄り、踞(うずくま)り時折り祈祷の様子を窺うように被きを上げます。
般若の目が暗い被(かずき)の中でギラリと光ります。
 僧は大法、秘法を尽くして祈り怨霊は打杖(生木の枝をへし折ったままの状態のものを表す)を振るって、襲いかかりますが、ついに祈り伏せられます。
 シテは舞台に踞り、ワキの呪文に堪え兼ねた態で耳をふさぎます。
このところのシテの謡に呪文の恐ろしさの深さを表現する“鬼ユリ”という特殊な節づかいがあります。
 御息所の怨霊は「読誦の声(不動明王の偈(げ))を聞く時は」と成仏得脱して終曲となります。

□この曲は「鉄輪」とよく比較されます。「鉄輪」は市井の、ごく普通の女性の嫉妬ですから「あらわ」に演じても良いとされています。
しかし「葵上」は高貴な女性、六条御息所ですから「あらわ」に演じてはいけない「押さえて」演じなければならないといいます。
枕ノ段での「後妻打ち(うわなりうち)」は、市井の女性のはしたない所業であり、炎のように燃え上がる怒りを、上品さを失わず「押さえて」演ずるとは並大抵ではありません。
 また、この曲のシテ(主役)は、最初の一声から、次第、サシ、下歌、上歌、クドキと
強い恨みを、上品さを失わず「押さえて」次第に高揚させながら「枕ノ段」に
つなげなければなりません。演ずるシテに大きな負担がかかります。

□魂は時には身体から遊離するもののようです。
和泉式部の歌に「もの思えば、沢の螢も我が身より、あくがれ出ずる魂かとぞ見る。」
この歌を思い出し、この辺に詳しい友人に聞いてみました。
 魂は「人の身に宿り時には遊離してその生を見守り助ける」古代からこう考えられている、という。
「心」と「魂」は別物であったとは、我が身の浅学を思い知らされ、さらに「孫引き」は駄目よ、の一言が追い打ちをかけました。
 伊勢物語一一〇に「思ひあまり、出でにし魂のあるならむ。夜ぶかく見えば魂結びせよ」
万葉集一五―三七六七に「魂は朝(あした)夕べに魂ふれど、吾が胸痛し恋の繁きに」が見えます。
「魂結び」「魂ふり」は、魂が体から抜け出ないように、まじないをすることとあります。
諺「依草付木」の語源となった仏事、四十九日など身近にも例がありました。
 和泉式部の歌は、後拾遺和歌集に「男に忘れられ侍りける頃、貴布弥(貴船)にまいりて
御手洗川に螢の飛び侍りけるを見て」と詞書きがありよく知られた歌のようです。
この歌は古今著聞集、藤原俊成の女の、無名草子にも採られています。
これによると「男」は鬼退治の藤原保昌としています。

□この能は、近江申楽の犬王が演じた記録があるそうで、当時は「車争い」のやぶれ車に青女房を伴ってでたようです。
「枕の段」の中の「あらあさましや六条の御息所の御身にて…」「この上はとて立ち寄りてわらわはあとにて苦を見する」などは青女房のセリフで、現在は青女房が出ないのでツレ巫が謡います。
現在のツレ巫は「東屋の母屋の妻戸に居たれども」と、御息所がのりうつるかとおもえば(昔は青女房が謡った)正気に戻ったかのように「ふしぎやな、誰ともしらぬ上臈の」となり、こんどは青女房となり「あら浅ましや云々」となる。
この辺の事情を知らなければ、理解に苦しむことになります。

□この能は、源氏物語、葵の巻に取材したものです。
 六条の御息所は源氏の父帝、桐壷帝の弟、先の東宮前坊の后でした。
前途を約束されながら前坊の突然の死去に家も衰えてしまいました。
そこへ源氏が通うようになります。
その後桐壷帝は譲位し、世も変わり源氏は右大将に昇進しました。
源氏は自分の身分も考え、又、御息所とのことが院の耳に入り、院に諌められたこともあり、しだいに足も遠のきました。
 その頃女三宮が新斎院に立つことになり、その御禊の神事が加茂の祭に付け加えて行われることになりました。
その行列に源氏も奉仕することになりました。
御息所は思い乱れる苦しい心をまぎらわそうと行列見物にやってきました。
一条大路はたいへんな混雑でした。
 あとから到着した葵上の車は、とめるところもなく立ち往生していました。
そのうち葵上の供の人たちは左大臣の権勢にまかせてその辺りの車を立ち退かせました。   御息所の車は一見して相応の身分の車とわかるのですが葵上の供の人たちは、酔いにまかせて御息所の車をも奥の方へ押しやってしまいました。
車のしじも押しつぶされ、御息所のくやしさはつのってゆきました。
 そのうち、行列の源氏とお供の人々が通りかかり、葵上の車に、うやうやしく会釈をして通り過ぎました。御息所の車には誰も目もくれません。
御息所のみじめな思いは葵上への激しい恨みとなってゆきました。
 この「車争い」の一件以来、御息所は物思いに沈み病人のようになってゆきました。
御息所は「葵上の憑きものは、御息所の生霊だろう」と噂する者がいると聞き魂が勝手に抜け出て葵上にとりついているのかもしれないと思うし、正気を失ったような気分になることもしばしばあるので、本当にそうかもしれない、と思うのでした。
お召物には護摩の香がすることもありました。
□この能の典據となる、源氏物語は西暦1000年頃、藤原為時という人の娘
紫式部によって書かれた物語です。彼女の実名はわからないようで、紫は物語中の「紫の上」式部は当時侍女に与えられた呼び名だったようです。
 紫式部は関白藤原道長の娘一条天皇の妃、彰子の侍女として道長に招かれました。
一条天皇には多くの妃がいました。貴族の中で教養のある、たとえば歌道などに秀でた女性を、妃達は競って召し抱えました。
伊勢大輔、赤染衛門、和泉式部など、後世に聞こえた才女がいました。
 当時は和歌、漢詩の時代で、源氏物語のような「物語」のたぐいは女性の「おあそび」として全く評価されませんでした。
式部は源氏物語の一部を公開しただけで、大半を出し渋りました。
歴史の闇の中にうもれるところを、世に出したのは中宮彰子の功績でしょう。
いつの世でも文化と平和の「にないて」は女性のようです。

□舞台先に一枚の小袖が置かれます。光源氏の正妻、葵上が病臥しているのです。
この一枚の小袖の存在は重く、シテは常にこの小袖から心を離さず一曲を演じ通します。
白装束の巫女が静かに現れます。
 この巫女は梓の弓の弦をならして生霊、死霊を呼び寄せる、上手です。
巫女に続いて朱雀院臣下が登場します。
ここまでは静寂のうちに進行し、重苦しい空気が充満します。
静寂を破り、臣下は葵上に物の怪が憑いて重態であると述べ
巫女に梓にかけるよう命じます。
巫女は呪文を唱え弓をかき鳴らします。巫女の弓はありません。観客の想像の中です。
梓の弓の音に引かれて静かにシテ六条御息所の生霊が現れます。
御息所の霊は、この世の無常は弁えていても、それでも人を恨み、その辛さに耐えかね
しばらくでも気を紛らそうと梓の弓の音に引かれて現れたのだと述懐します。
巫女は生霊の出現を臣下に告げ、臣下は生霊に名を名乗るよう促します。
 シテは舞台中央に座を替えて、御息所の怨霊であると名乗り、皇太子妃であった
往時の栄華を懐かしみ、落ちぶれた今の境遇を嘆きます。
 シテは中腰のままで、この長丁場を演じます。シテには過酷な演出ですが
シテの緊張感が直接伝わってきます。
 御息所の生霊は、しだいに激昻し巫女が諫めますが聞き入れず、葵上の枕元に駆け寄り
したたかに打ち据えます。
 立ち上がったシテは、恨みの言葉の丈を述べ、開いた扇を投げつけ、
壷折に着た小袖を引き抜いて被き、再び枕元へ走り寄り足拍子を踏み、乗ってきた
破れ車に葵上を乗せて帰ろうと前場を止めます。
この場面は「枕ノ段」と称し、前場の見どころです。
 能には稀な思いきった演出で、御息所の恨みが凝縮します。
破れ車は「車争い」の車で、屈辱の象徴でしょう。古曲では車が出たようですが
現在は出しません。
 葵上の容態の急変に、横川の(比叡山、三塔の一つ)高僧が呼ばれ、加持祈祷が
行われます。やがて御息所の怨霊は鬼形となって現れます。
 シテは般若の面をかけ、小袖を被き僧の後に忍び寄り、踞(うずくま)り
時折り祈祷の様子を窺うように被きを上げます。
般若の目が暗い被(かずき)の中でギラリと光ります。
 僧は大法、秘法を尽くして祈り怨霊は打杖(生木の枝をへし折ったままの状態のものを表す)
を打ち振るって、襲いかかりますが、ついに祈り伏せられます。
 シテは舞台に踞り、ワキの呪文に堪え兼ねた態で耳をふさぎます。
このところのシテの謡に呪文の恐ろしさの深さを表現する“鬼ユリ”という特殊な
節づかいがあります。
 御息所の怨霊は「読誦の声(不動明王の偈(げ))を聞く時は」と成仏得脱して終曲となります。

□この曲は「鉄輪」とよく比較されます。「鉄輪」は市井の、ごく普通の女性の
嫉妬ですから「あらわ」に演じても良いとされています。
しかし「葵上」は高貴な女性、六条御息所ですから「あらわ」に演じては
いけない「押さえて」演じなければならないといいます。
枕ノ段での「後妻打ち(うわなりうち)」は、市井の女性のはしたない
所業であり、炎のように燃え上がる怒りを、上品さを失わず「押さえて」演ずるとは
並大抵ではありません。
 また、この曲のシテ(主役)は、最初の一声から、次第、サシ、下歌、上歌、クドキと
強い恨みを、上品さを失わず「押さえて」次第に高揚させながら「枕ノ段」に
つなげなければなりません。
シテの力量が問われるところです。

□魂は時には身体から遊離するもののようです。
和泉式部の歌に「もの思えば、沢の螢も我が身より、あくがれ出ずる魂かとぞ見る。」
この歌を思し、この辺に詳しい友人に電話で聞いてみました。
蔵書管理の達人である友人は、すかさず電話口で、月刊誌「国文学」の一節を
読み上げて下さった。
 魂は「人の身に宿り時には遊離してその生を見守り助ける」。
古代からこう考えられている、ということのようです。
「心」と「魂」は別物であったとは
我が身の浅学を思い知らされ、友人の「孫引き」は駄目よ、の一言が
追い打ちをかけたことでした。
 伊勢物語一一〇に「思ひあまり、出でにし魂のあるならむ。夜ぶかく見えば魂結びせよ」
万葉集一五―三七六七に「魂は朝(あした)夕べに魂ふれど、吾が胸痛し恋の繁きに」が見えます。
「魂結び」「魂ふり」は、魂が体から抜け出ないように、まじないをすることとあります。
諺「依草付木」の語源となった仏事、四十九日など身近にも例がありました。
 和泉式部の歌は、後拾遺和歌集に「男に忘れられ侍りける頃、貴布弥(貴船)にまいりて
御手洗川に螢の飛び侍りけるを見て」と詞書きがありよく知られた歌のようです。
この歌は古今著聞集、藤原俊成の女の、無名草子にも採られています。
これによると「男」は鬼退治の藤原保昌としています。

□この能は、近江申楽の犬王が演じた記録があるそうで、当時は「車争い」の
やぶれ車に青女房を伴ってでたようです。
「枕の段」の中の「あらあさましや六条の御息所の御身にて…」
「この上はとて立ち寄りてわらわはあとにて苦を見する」などは青女房のセリフで、
現在は青女房が出ないのでツレ巫が謡います。
現在のツレ巫は「東屋の母屋の妻戸に居たれども」と、
御息所がのりうつるかとおもえば(昔は青女房が謡った)
正気に戻り「ふしぎやな、誰ともしらぬ上臈の」となり、
こんどは青女房となり「あら浅ましや云々」となる。
この辺の事情を知らなければ、理解に苦しむことになります。

□この能は、源氏物語、葵の巻に取材したものです。
六条の御息所は源氏の父帝、桐壷帝の弟、先の東宮前坊の后でした。
前途を約束されながら前坊の突然の死去に家も衰えてしまいました。
そこへ源氏が通うようになります。その後桐壷帝は譲位し、世も変わり
源氏は右大将に昇進しました。
源氏は自分の身分も考え、又、御息所とのことが、院の耳に入り
院に諌められたこともあり、しだいに足も遠のきました。
 その頃女三宮が新斎院に立つことになり、その御禊の神事が加茂の祭に
付け加えて行われることになりました。その行列に源氏も奉仕することになりました。
御息所は思い乱れる苦しい心をまぎらわそうと行列見物にやってきました。
一条大路はたいへんな混雑でした。
 あとから到着した葵上の車は、とめるところもなく立ち往生していました。
そのうち葵上の供の人たちは左大臣の権勢にまかせてその辺りの車を立ち退かせました。
御息所の車は一見して相応の身分の車とわかるのですが
葵上の供の人たちは、酔いにまかせて御息所の車をも奥の方へ押しやってしまいました。
車のしじも押しつぶされ、御息所のくやしさはつのってゆきました。
そのうち、行列の源氏とお供の人々が通りかかり、葵上の車に、
うやうやしく会釈をして通り過ぎました。御息所の車には誰も目もくれません。
御息所のみじめな思いは葵上への激しい恨みとなってゆきました。
 この「車争い」の一件以来、御息所は物思いに沈み病人のようになってゆきました。
御息所は「葵上のつきものは、御息所の生霊だろう」と噂する者がいると聞き
魂が勝手に抜け出て葵上にとりついているのかもしれないと思うし、
正気を失ったような気分になることもしばしばあるので、
本当にそうかもしれない、と思うのでした。
お召物には護摩の香がすることもありました。

□この能の典據となる、源氏物語は西暦1000年頃、藤原為時という人の娘
紫式部によって書かれた物語です。
彼女の実名はわからないようで、紫は物語中の「紫の上」式部は
当時侍女に与えられた呼び名だったようです。
 紫式部は関白藤原道長の娘一条天皇の妃、彰子の侍女として道長に招かれました。
一条天皇には多くの妃がいました。貴族の中で教養のある、たとえば
歌道などに秀でた女性を、妃達は競って召し抱えました。
伊勢大輔、赤染衛門、和泉式部など、後世に聞こえた才女がいました。
 当時は和歌、漢詩の時代で、源氏物語のような「物語」のたぐいは
女性の「おあそび」として全く評価されませんでした。
式部は源氏物語の一部を公開しただけで、大半を出し渋りました。
歴史の闇の中にうもれるところを、世に出したのは中宮彰子の功績でしょう。
いつの世でも文化と平和の「にないて」は女性のようです。
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