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01.22
Sat
囚われの身となり鎌倉に送られた平家の武将、平重衡を慰める源頼朝の侍女、千手の前を描きます。
平清盛の五男、平重衡は一ノ谷の戦いで生け捕られ鎌倉に護送されます。
重衡に同情を持つ源頼朝は家臣、狩野介宗茂に身柄を預けよくよく労われと命じます。
重衡の湯あみに頼朝が遣わした侍女、手越ノ宿の長者の娘、千手ノ前に世話をさせます。湯浴みのあと帰り際に重衡は千手の前に出家の望みを頼朝に伝えて欲しいと頼みます。
翌夕、雨の中を千手が琵琶、琴を持たせて侍女を伴い重衡を訪ねます。
囚われの身を託っていた重衡は対面を断ります。千手は雨中の重衡を慰めよとの頼朝の命であると取次の狩野介に伝えます。狩野介は頼朝の命ならばと千手を招じ入れます。
千手が妻戸を押し開きます。花の都人の御衣の香りが漂ってきます。ここは遥かな東の果て、憧れの花の都人に会う事ができたと千手の感慨一入です。
先に頼んだ出家の望みを頼朝はどう考えかと問う重衡に、朝敵である重衡を頼朝の一存で出家を許すことは出来ないとの意向ですと伝えます。
南都の仏像を焼き僧侶を殺した罪の報いをこの世で受けるとはと嘆く重衡を、この様なことは今も昔も例の多い事で御自分一人の事ではないと慰めます。
狩野介が「今日の雨中の夕べの空、御つれづれを慰めんと」と酒を持参、酒宴が始まります。狩野介が酒を勧め、千手に肴をと勧め千手は重衡を励ます朗詠を詠じ、座を立ち重衡が囚われ鎌倉に護送される経緯を謡い舞い、枯れ木にも花を咲かせた千手観音もかくやとばかりに艶やかに袖を翻して舞います。
重衡は興に乗じ琵琶を弾き始め、千手も琴を引き寄せ合奏します。峰の松風も合奏、琴を枕のうたた寝も束の間、春の短夜は明け初めます。
 その後重衡は勅命により都に上ります。千手は泣く泣く見送ります。

頼朝の命で頼朝の家臣、狩野介宗茂の屋敷に匿われている重衡を千手が雨の中を琵琶、琴を携えて訪れます。琴は千手、琵琶は重衡のためです。
「妻戸をきりりと押し開く、御簾の追い風匂い来る」優雅な都人をこう謡います。
千手、重衡、狩野介三人は雨中の物寂しい夕べ、鼎座して酒宴を始めます。
出家の望みを絶たれ落胆の重衡を慰めようと千手は朗詠を詠じイロエを舞います。
重衡の絶望と千手と狩野介の同情が寂しい雨中を背景に三人鼎座して語られる傑出した演出です。クセの前半で囚われの身となり、京から鎌倉までの道行が語られ、楚の敗将の寵妃、虞の嘆きを詠った詩の一節「数行虞氏が涙の雨」を重衡の身に比えて謡われます。
古代中国の楚王が垓下の戦いに敗れ「四面楚歌」の中、脱出しようとしたが愛馬の騅(すい)が両足を揃えたまま動こうとしなかったその時楚王がその心境を詠んだ「力は山を抜き、気は世を覆う、時に利あらず騅行かず、騅(すい)行かざるを如何んせん、虞(ぐ)や虞や汝を如何せん」
重衡の心境だったのでしょう。虞(ぐ)は楚王の愛妃でした。
平家物語の巻十「東海下」は七、五調を主体としたノリのよい文体で当時人々に膾炙されたと云います。琵琶法師の得意曲だったといいます。本曲のクセの道行では「東海下」
の引用がないに等しいのも不思議です。
夜も明け方に「琴を枕の短夜のうたた寝」と謡います。千手が寝る型「枕ノ扇」をします。
二人の交情を示すと言います。平家物語には「さる程に夜も明けければ武士ども暇申してまかりいづ。千手も帰りけり」とだけで二人の情交の記述はないようです。
交情の婉曲的な表現は源氏物語「夕霧」の巻にもあります。「埋もれたる御衣ひきやり、いとうたれ乱れてたる御髪かきやりなどしてほの見たてまつりたもう」(被っていたお召物を引きのけ乱れた御髪をかきあげて仄暗い中、お顔を見つめる)衣を引きのけ落葉の宮の顔を見つめる意と共に交情のあった事を匂わせる表現だといいます。「千手」よりも具体的で想像は易いと言えます。

重衡は父、平清盛に背いた源頼政を宇治川の戦いで破り、平家劣勢の水島の戦いで源氏を破った大将でした。一の谷の戦いで捉えられ、天皇の即位に受け継ぐ三種の神器と引き換えに身柄を平家方に渡すという交渉もあった程の人であったという。三種の神器は平家方、安徳天皇の許にあったからです。
囚われの身でありながら頼朝の面前で臆する事なく奈良の東大寺、興福寺の焼き討ちを弁明、朝廷に尽くした平家の功績を述べ平家の運も覚束なく源氏の軍門に降り命を落とすのも仕方のないことだと述べ頼朝はじめ並み居る家臣たちを感動させたと平家物語巻十にあると言います
源平の戦いに明け暮れた重衡でしたが「平家はもとより代々の歌人才人達で候なり。先年この人々を花にたとへ候ひしに此三位中将(重衡)をば牡丹の花にたとえて候ひしぞかし」と重衡像を平家物語はこう語ると言います。

重衡を訊ねる千手が「それ春の花の樹頭に栄ヘ秋の月の水底に沈むも世のはかなさの有様」と謡います。千手は駿河の國手越ノ宿の長者の娘です。手越の遊女達の宿命を見聞きし人の世の虚しさ思い知らされたことでしょう。重衡に寄せる同情は手越の宿の遊女達を想う心の比ではなかったのではないだろうか。重衡が木津川で処刑された後出家し善行寺で重衡の後世を弔い生涯送ったと平家物語にあるといいます。重衡を思慕する千手であったことは疑いのない事だが単に重衡への思慕だけであったのだろうか。
11.04
Wed
融通念仏勧進のため諸国を行脚する大原の良忍上人が大和國を目指し耳成山に至り、所の人に三山の所在を尋ねます。
女が現れこの耳成山は万葉集にも詠まれた三山の一つです。この耳成山の池に身を投げた女の話がございます。是非ともお聞きくださいといいます。
良忍上人は万葉集に香具山は夫、畝傍、耳成山は女とあり相争うとあるのを思いだし詳しく聞きたいと興味ありげに応じます。
「昔、香具山に拍手の公成(かしわでのきんなり)という男がいました。また畝傍山の里に桜子、耳成山の里に桂子という遊女がいました。公成は桜子、桂子二人の女と契りを込め二道掛けて通いました。男心は移ろい易いもので公成の心はしだいに若い桜子になびき耳成の桂子の許に足は遠のきました。桂子は悲しみつつも思います。
もとより二道掛ける男は頼りになる訳はない、生涯を共にするなどとは思はなかった。何事も時に従うのが世の習い、今は春、花盛りの桜子に心を移すのも当然、恨む事はやめよう、私は花のない桂子なのだから。こう思い定めて桂子は耳成山の池に身を投げたのです。どうか哀れな桂子の後を弔って下さい」
女は桂子の亡霊だったのです。女の話は万葉の話ではなく桂子の身の上の話でした。

所の人が良忍上人の様子を見に再びやってきます。上人は女が現れたことを所の人に語り公成、桂子、桜子のことを詳しく聞きたいと頼み、所の人が三人の話を詳しく語ります。
所の人の話が終わるや否や、桜の枝を肩に桜子が狂乱の姿で現れ、上人に耳成山の山風に吹き誘われて現れたと云い耳成山の嫉妬に吹き狂う風にこのように狂うのです、この身を助けて下さいと懇願します。
桜子を追うかの如く桂の枝を手に桂子が現れ、桜子が羨ましい、また花の春がやって来た、これ見よがしの花の桜子が妬ましい。だが桂も月の桂ともいわれたのだ、どうして公成は桜子の心を移したのだろうと嫉妬に狂う狂乱の舞“カケリ”を舞います。
なおも桂子は桜子に恨みを述べ桂子は桂の枝、桜子は桜の枝で後妻打ちを見せます。

万葉集巻一の天智天皇の長歌、三山の妻争いと巻十六の妻争いを基に作られたと云います。恋を争う曲ですが悲愴感が穏やかで遥かな万葉のロマンが漂う曲です。
後妻打ちは室町時代の流行った風習だと云います。「葵上」や「鉄輪」にも作られ、これらの曲の後妻打ちは荒々しく凄惨です。この能の後妻打ちは桜の枝と桂の枝で打ち合い優雅な舞で見せます。

良忍上人は平安後期の人。比叡山に入り修行、後に融通念仏宗を開き諸国を勧進しまた。
勅諡、聖応大師の名を贈られました。
08.15
Wed
月や雨は風雅の代表的なものとして、詩歌に詠まれ歌に歌われてきました。
平安後期を代表する歌人、西行法師は和歌の守護神でもある住吉の明神に参詣のため住吉の浦に辿り着きます。
日が暮れたので辺りの家に宿を乞う。家には老夫婦がいました。
老翁はあまりにも見苦しい庵なのでと断ります。見苦しい理由はこうです。
老翁は軒を叩く雨の音が聞きたいから破れた軒を葺きたいといい、姥は破れた軒から漏れる月を見たいから葺かないと争い、
結局屋根は葺かず破れたまま。このような家にどうして泊めることが出来ようかというのです。
老翁はつくづくと軒を見上げ独り言に「賤が軒端を葺きぞわづらうと」と呟く。
老翁は独り言が歌の上の句になっていることに気が付き、西行に下の句を付ければ宿を貸そうといいます。
「月は漏れ、雨は溜まれと兎に角に」と西行。
家の有様を読んで完璧な一首が完成、三人唱和して吟じます「月は洩れ雨は溜まれと兎に角に、賤が軒端を葺きぞわずらう」
折しも中秋、月も美しく破れ軒から漏れて白楽天の詩の心が偲ばれ、軒端の松を吹く風の音は軒の板を打つ村雨のように聞こえます。
このような夜は砧を打つのが相応しいと老夫婦は砧を打つ歌を謡い、翁は立ち上がり舞います。
やがて夜も更け老夫婦は静かに寝所に入ります。

住吉明神の末社の神が現れ、老夫婦は住吉明神の化身であり、西行に和歌の極意を授けるため軒端の板を葺き葺かずなどを見せたのだと夢の中にある西行に告げます。

やがて荘重な囃に乗って、明神が乘り移った宮人が現れ西行が巧みに下の句を付けたことを喜び、厳粛に舞をまい神慮を見せます。

西行は自然派の大詩人。西行が目指した風雅な世界を、軒の葺き葺かず、砧の場を中心に描き出します。
住吉明神は和歌の守護神。西行は「我、宿願の子細あるにより」明神に参詣しました。
前場の老夫婦は身分を名乗らず、匂わさず中入りしますがアイ狂言の案内なしにもその風格からも明神の化身であることは察せられます。
前シテの老翁は面、小尉、着付は小格子で神の化身の出立であり、後場のシテは明神が憑いた宮人ですが、面は石王尉、白垂(白髪)、初冠の神の装いでです。観る側は神そのものと観るように思われます。

08.15
Wed
琵琶の名手、藤原師長は琵琶の奥義を極め更に奥を極めようと入唐を志し、その名残にと月の名所、須磨を訪れる。
師長の前に塩汲みの老夫妻が現れ須磨の浦の美景を称賛し塩を汲み我が家に入る。
師長主従は老夫婦に宿を借りる。
従者は老夫婦に、師長は琵琶の名手で神泉苑の雨乞いに琵琶の秘曲を弾じ、竜神は師長の琵琶に感じ大雨を降らせた。これほどの程の琵琶の堪能であると老夫婦に語る。
老夫婦は琵琶をぜひ聞きたいと所望する。師長は源氏物語、須磨の巻の一節を謡い琵琶を弾ずる。折から村雨が降り板庇を叩き、師長は琵琶の弾く手を止める。
板庇を叩く雨音が琵琶の音程より高く演奏の妨げになったからだった。
老夫婦は菅や茅で編んだ苫を取り出し板庇を葺く。雨の音は琵琶の調子に戻った。
驚いた師長は琵琶に精通している人だと確信、老人の調べを聞きたいと琵琶を渡す。
老人の琵琶の調べに合わせて姥も琴を弾く。その調べに感涙もこぼれ、嬰児も踊り出す程の感動であった。
師長は更なる琵琶の奥義を極めんと入唐を志したが、我が日の本にもこのような堪能がいたのだと我が身の浅はかさを悟り入唐を断念、老夫婦の名を問う。
老夫婦は村上天皇と梨壺の女御夫妻であるとの乗り、師長の入唐を止めようと現れたのだと消えうせる。

師長の下人(又は竜神の眷属)が現れ前場のあらましや、絃上、青山、獅子丸、三面の名器の琵琶のいわれを語る。

ノリのよい囃に乗って村上の天皇がその優雅な姿を現わして名乗り、漫々たる海上に向かい、竜神に「獅子丸」を持参するよう命ずる。琵琶の名器「獅子丸」は大唐から伝えられた琵琶の名器だったが持ち帰る途中、龍神を鎮めるため海に沈めた琵琶だった。
急調の囃に乗って龍神が琵琶を携えて現れ、師長に渡し師長は獅子丸を弾ずる。
八大龍王も管弦の役を勤め波も鼓を打つ。
村上天皇は興に乗り典雅な舞を舞い、飛行の車に乗り八大龍馬に引かせ師長も馬上に琵琶を携え帰洛の途に就く。


師長が琵琶を弾じつつ謡う「恋詫びて泣く音にまごう浦波は思う方より風や吹くらん」は源氏物語「須磨の巻」の源氏の歌で、源氏がこの須磨の浦に配流され都の恋する人を偲んだ歌だという。琵琶歌に擬して独特の技法で謡い、老人夫婦が語る須磨の寂びた情景に琵琶歌の艶が溶け込んでいく。

後場は切り能としてのスピード感と爽快さがある。村上天皇が舞う「早舞」は天皇や殿上人、成仏した女性の霊が舞うまいで爽快、典雅な舞とする。

藤原師長
14歳で大納言、中納言に次ぐ要職、参議に任命された程の傑物だったという。
太政大臣に登り詰め平清盛と対立、清盛によって尾張国井戸田に流される。
罪なくして流されたのだからと鳴海潟の絶景を眺め琵琶を弾き、歌を詠み悠々の日々を送った。熱田明神で琵琶を弾きその妙音に明神も感応、宝殿しきりに振動したと平家物語、巻第三「大臣流罪」にあるという。

村上天皇 
平安中期の天皇。藤原氏の摂関を止め、親政を行い政治改革を行なった。天暦の治といわれた。和歌をよくし「後撰集」を編纂させたという。
琵琶に長じ大唐の琵琶の博士、廉承武の亡霊に秘曲を授かったことが平家物語巻第七「青山の沙汰」にあるという。

08.15
Wed
保元の乱に敗れ讃岐の松山に流され没した崇徳上皇の墓所を訪れた西行が追善の歌を詠む。上皇の霊が現れ在りし日、都での遊舞を追憶して舞うがやがて配流の憤怒が沸き起こります。白峰の天狗が現れ、上皇の恨みを晴らす様の勢いを見せます。

四国放浪の時の歌人、西行法師が松山の崇徳上皇の御廟所を訪ねます。
老人が現れ西行を御廟所に案内します。
誰も足を踏み入れたこともない山道、岩を伝い苔に覆われた谷の道を辿り風音も寂しい御廟所に辿り着きます。
荒涼とした御廟所の佇まいに、昔は玉楼金殿の宮殿、百官卿相にかしずかれた御身を思い涙を流した西行は一首の歌を詠みます。
「よしや君、昔の玉の床とても、かからん後は何にかはせん」
西行の歌に感じた老人の姿に雅を感じた西行は上皇の存命中の様子を問います。
上皇の存命中に誰が上皇を訪ね慰めたのかと問う西行に、上皇は都での事件を思い出し憤怒しばしばで近づく人もなかったが、魔道の天狗、相模坊とその配下が常々訪ね、私も木陰を掃き清め時にはお心を慰め申したと老人は語り、淋しい木陰に寄るとみて姿を消します。

木の葉天狗が現れ保元の乱のあらましを語り、上皇の霊は西行の歌に感じ終夜舞楽を奏する、相模坊もその配下も参集せよとの宣旨であると触れます。

やがて御廟はしきりに鳴動して院の霊が姿を現わします。
昔、都の夜遊の舞を回想して舞う舞に時刻は移りやがて都での無念が蘇えり憤怒の形相となります。
院の憤怒に呼応するかのように相模坊とその配下の天狗が現れ、院の仇をことごとく討ち滅ぼし無念を濯がんとその方策を勇壮に見せ、夜明けとともに白峰の彼方に消え失せます。

作り物を舞台に設えるのも演能のうちであり、運び出し設え雰囲気を広げていく。
後見が舞台に据えた山と言われる作り物は院の廟。豪壮な廟もうらぶれた廟も形は同じであり観客の心に任せます。
前シテの老人は院の亡霊か天狗の仮の姿か明らかに語られません。
老人の姿を「鄙人なれどかくばかり、心知らるる老い波の、立まふ姿まで、さも雅たるけしきかな」とあり雅ならば院を匂わせるが又「白峰の相模坊に従う天狗共、来るより外は余の参内はなく候。かように申す老人も常々来たり木陰を清め御心を慰め申しし也」とあり、天狗ともとれる。
着衣も身分を示します。紺の無地、無地熨斗目を着ることもあり又、格子模様の小格子を着る場合もあります。無地熨斗目は身分の低い者であり天狗を表し小格子は高い身分、院でしょう。
前シテは天狗か院か演出に任せるということでしょうか。

後シテ、院の霊が「早舞」を舞います。早舞は公家の霊や成仏した女の霊が舞う軽快な優雅な舞です。面は「怪士」で舞います。怪士は怨霊の面です、憤怒の形相で早舞を舞います。院の身分を考慮してか公家の面「中将」を着て舞うこともあります。
憤怒の舞はガラリと変わり、優雅な都の遊舞の場面を現出します。
能では面を付けることを着るといいます。

西行は北面の武士でしたが二十三才で出家、高野山を拠点に仏道修行に励み四国や奥州など漂白して自然と交わり、深い仏教思想と自然との交わりを基礎に、伝統や形式に捉われない歌を詠んだといいます。
未だ弱冠の藤原定家の素質を見抜き選歌を頼んだり、遥かの地、奥州平泉の藤原氏に東大寺勧進の金調達の旅を気安く引き受けたという。
気の置けたい気さくな人柄だったのでしょうか。
後の文人の憧れの人だったのか芭蕉の「奥の細道」の旅は西行の奥州の旅を辿る旅だったといいます。




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